加納城 美濃における天下普請で築城

【本丸北側に残る石垣】
【歴 史】徳川家康は、慶長六年(1601)三月、娘婿の奥平信昌を加納城主として十万石を与え、また亀姫の化粧料として二千石を給しました。築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築しました。本丸、二之丸、三之丸、厩曲輪、南曲輪などを備え、関ヶ原合戦後初の本格的城郭であったようです。加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えました。明治二年加納城第十六代藩主、永井肥前守尚服が版籍を奉還し、加納藩は同年七月十四日に廃藩に至ります。現在は城址公園となっていますが、往時を忍ばせるものは石垣と土塁のみであり、かつて天下普請で築かれた美濃十万石の加納城としては寂しい限りです。しかし最近の発掘調査では近世加納城の下に中世加納城の土塁跡が見つかったり、二の丸跡付近から障子掘形式の堀跡が発掘されるなど、その姿が徐々に解明されてきています。

■場所:岐阜市加納丸之内 ■築城主:徳川家康
■別名: ■城形式:平城
■築城年:慶長五年(1600) ■城遺構:曲輪・石垣・枡形虎口


【本丸南東の櫓台跡】

【本丸の天守台跡】

【本丸の土塁跡】