秋山 虎繁    〜武田二十四将のひとり 知略により岩村城を開城させた部将〜
 通常、秋山信友という名で紹介されることが多いが、古文書では「信友」ではなく「虎繁」という名で署名をしている。武田二十四将に数えられる秋山虎繁はその武勇の反面、外交官としての能力も高く、知勇兼備の武将であったといわれています。秋山虎繁のことを秋山晴近と称している書物もありますが、これは虎繁が信州伊那の春近郷を与えられたことと、春近の郷士で組織した春近衆の統領となったことで混同されたものであるようです。武田方の軍記『甲陽軍艦』によると天文11年(1542)甲信国境で起こった瀬沢の合戦で虎繁は宿将達を驚嘆させる働きを示し、信玄から感状を賜ったと記されています。その後、天文15年(1546)虎繁は伯耆守に任ぜられ、騎馬50騎の侍大将の列に加えられました。天文16年(1547)には伊那郡代を命ぜられ、高遠城の守備にあたっています。信友が伊那郡を押さえているおかげで信玄は背後の不安もなく東・中信濃掌握に全力を集中できました。弘治2年(1556)には伊那全郡を押さえ、虎繁は伊那谷の重要拠点である飯田城代となり、相備え200騎を加えました。永禄年中におこなわれた織田信長の嫡子信忠と信玄の娘松姫との婚約の際には、織田からの結納品に対する返礼の使者として虎繁が選ばれており、織田の諸将が居並ぶ中で見事な信玄名代を務めています。
 元亀3年(1572)、虎繁は山県昌景とともに信玄上洛戦の先陣となり、一軍を率いて伊那谷を進撃しました。徳川軍と衝突した三方ヶ原の合戦では、山県隊とともに家康を急追し、「さても秋山信友(虎繁)、武田の猛牛に似たる恐ろしき男」と言わしめたといわれています。元亀元年(1570)には東美濃へも侵攻し、遠山家を中心とした東濃国人衆と三河の山家三方衆からなる連合軍を相手に上村(恵那市上矢作町)で合戦となり、見事勝利を収めています。元亀3年(1572)には再び東美濃に侵攻し、遠山氏の本拠であった岩村城を包囲、籠城戦の挙げく謀略により岩村城を攻略しました。天正3年(1575)に起こった長篠の合戦には参戦しませんでしたが、この合戦での武田軍の敗北により、その後の援軍を望めぬようになり、同年、岩村城の奪還をはかる織田信忠軍に城を包囲された虎繁は、城兵の助命嘆願を条件に岩村城を開城しました。しかし降伏の返礼に訪れたところを織田軍に捕らえられ、岐阜に送られた後に長良川で逆磔にされ処刑されました。この時49歳であったといわれています。ちなみに地元では岩村の大将陣にて処刑されたと伝わっています。

参考文献 『武田二十四将と甲州軍団』((財)武田信玄公宝物保存会 2002)

〜秋山虎繁とゆかりの城址〜

大島城の三日月堀と丸馬出跡
【大島城】 虎繁が大改修した城 (長野県下伊那郡松川町元大島)

平安時代末、南信濃源氏片桐氏の一族が大島郷に分知されたことに起こった大島氏がこの一帯を領有・統治し大島城・北の城・沼の城などを築いたことに始まります。南信濃攻略をうかがっていた甲斐の武田氏は天文23年(1554)に伊那郡に侵入し、ここを手中にした武田信玄は秋山信友を飯田城に置き伊那谷を統治しました。元亀2年(1571)上洛に動き出した武田信玄は伊那郡の大島城を東海地方攻略並びに上洛の拠点とするため郡代の秋山信友に命じて大修築をおこないました。現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による馬出や三日月堀、3つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような空堀が当時のままに残されています。
『現地案内看板より本文抜粋』

【高遠城】 虎繁が築城に関わる、一時期は城代か (長野県伊那市高遠町)

高遠城は三峰川と藤沢川の合流地点にあり、諏訪から伊那に入る交通の要衝に位置しています。南北朝時代には高遠氏が支配していましたが、天文年間に武田信玄の旗下に属しました。天文16年(1547)には家臣の秋山信友と山本勘助らに高遠築城を命じました。織田家の武田掃討戦において高遠城は信玄の五男である仁科盛信が籠もり最後まで抵抗しましたが、織田信忠率いる軍勢に攻撃され天正10年(1582)落城しました。その後、保科氏、毛利氏、京極氏、保科氏、鳥居氏を経て、内藤氏の時に明治維新を迎えました。
『学研 図説・日本名城集 2001年発行 より本文抜粋』

高遠城の空堀跡


飯田城の本丸跡
【飯田城】 伊那郡代として在城  長野県飯田市追手町

飯田城は天竜川の支流である松川と谷川に挟まれた、細長い三角形の河岸段丘上に築かれています。室町時代、信濃守護小笠原氏の子孫である坂西氏が築きました。戦国時代になると飯田城は伊那郡を押さえた甲斐の武田氏の下伊那での中継基地の役割を果たしています。弘治2年(1556)には秋山虎繁が伊那谷の重要拠点である飯田城代に任命されています。1582年の武田氏滅亡後は一時徳川氏の領地となりましたが、毛利秀頼・京極高知を経て、関ヶ原合戦後は小笠原・脇坂・堀氏と交替し明治維新まで存続しました。
『週刊名城をゆく29 2006年 より本文抜粋』

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