森 長可    〜東濃全土を席巻した鬼武蔵〜
 森長可は織田信長の重臣森可成の二男として出生しました。父の森可成は早くから信長の重臣として活躍し、近江と京都を結ぶ通路を見下ろす宇佐山城に置かれるという重要な役割を担っていましたが、織田と同盟を結んでいた浅井長政の突然の裏切りにより、元亀元年(1570)朝倉・浅井軍の攻撃を受け、討ち死にしました。長男の森可隆はその半年前に朝倉軍との戦闘により越前で戦死しています。父と長男が越前攻略戦の最中で討死したため遺領である美濃金山城は二男の長可がわずか13歳という若さで継ぐこととなりました。長可は信長の嫡男である織田信忠の配下に組み入れられ、長可の弟である蘭丸、坊丸、力丸の3人は揃って信長の小姓として召し出されます。長可は16歳の初陣より数々の武勲をあげたといわれ、「鬼武蔵」と異名を取る程の猛将へと成長していきます。その後、天正10年(1582)の武田氏征伐の軍功により、信濃国川中島四郡十八万石を与えられ海津城主となりましたが、同年5月に本能寺の変が起こりました。これにより信長の小姓をしていた3人の弟は討死、川中島にいた長可自身も本能寺の動乱に乗じて起こった信濃土豪による一揆のため危険にさらされましたが、なんとか本領である美濃金山城に無事帰還を果たしています。
 その後、織田信長の後継者争いが起こると羽柴秀吉に味方し、中美濃・東美濃地域の抵抗勢力の平定に着手していきました。なお長可は織田信長の乳兄弟である池田恒興の娘を娶っており、天正12年(1584)に羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄が対峙した小牧長久手の合戦では舅の池田恒興に従い出陣しています。序盤では池田恒興の奇襲によって徳川方の犬山城が落城するなど成功を収めていましたが、犬山城落城が遠因となって引き起こる羽黒の陣では、長可は最前線に進出して敵の様子をうかがっていたところを徳川方に察知され、逆に奇襲を受けて総崩れとなるなどの失敗をおかしてしまいます。池田恒興は娘婿の汚名をそそぐためか敵の背後に回り、ガラ空きの本拠地三河岡崎城を攻める大胆な奇襲作戦を進言し実行に移しますが、三好秀次を総大将とした別働隊は動きを察知され、長久手付近で戦闘となりました。そしてついに乱戦の中、徳川鉄砲隊の放った弾が長可の眉間に命中し、森長可は討死にします。また舅である池田恒興やその子池田元助もまたこの戦いで討ち死にしました。

参考文献 『野望!武将たちの関ヶ原 参戦武将63人の戦い』(新人物往来社 2008)

〜森長可とゆかりの城址〜

海津城(現松代城)の戌亥櫓台跡
【海津城】 北信濃統治の本拠地 (長野県長野市松代)

海津城は武田信玄によって川中島一帯を支配するために築かれましたが、築城当初は土塁と空堀の城でした。武田家が滅亡すると、森長可が城主となりましたが、上杉景勝が本能寺の混乱に乗じて海津城を占拠し、川中島一帯を上杉領へ組み込むことに成功しました。豊臣の時代になり田丸直昌が入封すると海津城は徐々に整備され、森忠政の時代になると石垣構えの城へと変貌を遂げました。またこの時に「待城」と改名されており、元和8年(1622)真田信之が入封したころには近世城郭としての姿が整えられ、万治元年(1658)には「松城」となっていた城名を「松代城」と改名しました。
『小学館 週刊名城をゆく17上田城・松城城 2006年 より本文抜粋』

【岩崎城】 岡崎攻略失敗の原因 (愛知県日進市岩崎町市場)

岩崎城は室町時代末の平山城で、織田信秀により享禄年間(1528〜1531)に築城され、松平方に奪われたのち、天文7年(1538)丹羽氏清が移り、以後4代に渡って居城としました。天正12年(1584)の小牧長久手合戦の際に徳川軍の後方攪乱を狙って通過する豊臣方の池田恒興隊を阻止するため、城代丹羽氏重以下300名が出陣し討ち死をしました。しかしこれによって足止めをされた池田隊は追撃してきた徳川方と戦闘(長久手合戦)となり、豊臣方の池田恒興、池田元助、森長可といった有力武将が相次いで討死にしました。
『岩崎城案内看板より本文抜粋』

岩崎城の模擬櫓


伝承 武蔵塚
【武蔵塚】 伝 森長可最期の地  (愛知県長久手市武蔵塚)

武蔵塚は森長可の戦死の場所と伝えられています。長可は美濃金山城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は、秀吉に味方しました。舅である池田恒興らとともに、家康の本拠地岡崎を突こうとして失敗し、4月9日の仏が根の戦闘で戦死しました。長可は、天正10年(1582)の本能寺の変で、信長とともに落命した蘭丸の長兄で、勇猛果敢な武将として知られています。塚名は、長可の異名鬼武蔵にちなんで名付けられたものです。
『現地案内看板より本文抜粋』

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