田丸 直昌    〜関ケ原合戦時の岩村城主・東濃の西軍勢力旗頭〜
田丸直昌という武将を知っている人は東美濃地域でも少ないと思います。名前も直昌以外に具直、忠昌などいくつか変えており、東美濃地域に所領を得たのも、関ヶ原合戦の前年であったため、地元でもかなり印象の薄い武将です。しかし田丸直昌はもともと伊勢の国人領主であり、出自は伊勢国司として有名な北畠氏の庶流です。一族は伊勢田丸城を居城とし、近江日野城主である蒲生賢秀の娘を妻としていました。つまり田丸直昌は戦国武将として有名な蒲生氏郷の義弟(妹婿)という立場になります。織田信長の次男である織田信雄が北畠家を継ぐとその家臣となり、長野具藤や北畠親成といった北畠一門を謀略により暗殺したと云われています。そして本能寺の変後の小牧長久手合戦の時にはいち早く秀吉側に味方したため所領を安堵されています。その後は信長の娘婿であり直昌の義弟でもあった蒲生氏郷の与力として組み込まれ、蒲生氏の会津転封にも従っています。氏郷の没後に蒲生氏が宇都宮に転封となると、直昌は秀吉直々に知行宛行を受けるようになり、秀吉の命により領地を信州川中島へと封ぜられ海津城主となっています。関ヶ原合戦直前の慶長3年(1598)には徳川家康の命により、美濃岩村城の森忠政と所領替えとなり岩村城主となりますが、関ヶ原合戦直前の小山会議では、参陣した諸将がこぞって東軍に味方する中で、直昌はひとり西軍に味方することを決め、徳川家康のもとを去ったと云われていますが、現在では小山評定に参加していなかったという説が強くなっています。関ヶ原合戦に際して田丸直昌は老臣田丸主水に城を委ね、自らは大阪に急行しています。田丸領岩村がある東美濃地方では東軍に味方した妻木城の妻木家頼を筆頭に、かつて森長可により領地を追われていた旧領主層の遠山氏や小里氏が援軍として加わり、さらに三河伊保の丹羽氏や木曾衆なども東軍勢力として参陣したため、西軍である田丸領の支城は次々と攻略されていきました。残るは本城である岩村城を残すのみとなりましたが、途中、関ヶ原合戦における東軍の勝利が確定すると、田丸直昌も東軍に降り、城を守備していた城代田丸主水も岩村城を明け渡して退去しました。その後、西軍に味方した田丸直昌は改易となり、越後国へ流罪となりました。

このように関ヶ原合戦時の岩村城主でありながら、地元での知名度が殆どと言ってない田丸直昌ですので、東美濃地域で探そうとしても関ヶ原東濃合戦に関する記述くらいしか見つかりません。しかし田丸直昌については蒲生氏郷に関する資料から探すと、思いのほか多く田丸の名前を目にすることができます。史料を見ると田丸は蒲生家にあって同様に氏郷の妹婿であった関一政と共に別格の家柄として扱われており、『天正19年氏郷奥州武者押之次第』では蒲生軍陣立の3番手にその名前を確認することができます。またかつて東北の名門である田村氏が治めていた田村郡の大半を任されるなど、蒲生家でのその地位の高さを窺うことができます。

参考文献 『野望!武将たちの関ヶ原 参戦武将63人の戦い』(新人物往来社 2008)
       『平成二七年秋季特別展 蒲生氏の時代 〜暮らしの中の天下統一〜』(三春町歴史民俗資料館 2015)

〜田丸直昌とゆかりの城址〜

田丸城本丸天守台
【田丸城】 田丸氏代々の居城 (三重県度会郡玉城町田丸)

田丸城は延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野還幸のとき北畠親房がこれに呼応挙兵するため南勢の拠点として築いたものです。神領を領有する南北両朝はしばしばこの城を中心に争奪戦を繰り返しましたが、合一の後は北畠氏一族がここに居城、田丸御所となりました。室町末期、織田信長が伊勢侵攻の時、次男信雄を伊勢国司北畠氏の養嗣子として和睦し、天正3年(1575)信雄は大河内城から田丸城に移りました。この時田丸城を大修築し、3層の天守閣を築きましたが火災により焼失したため、松ヶ根城に移りました。
『現地案内看板より本文抜粋』

【須賀川城】 蒲生氏の与力 城代 (福島県須賀川市諏訪町)

須賀川は、古くから交通や地方政治の拠点として栄えてきました。中世になると、岩瀬郡を領した鎌倉幕府の重臣二階堂氏が、城郭や家臣の邸宅・社寺を配置し、民家の移動を行って現在の市街地の形につながる城下町をつくりました。天正17年(1589)、須賀川城は伊達政宗によって攻め落とされ、二階堂氏による岩瀬地方の支配は終わります。落城後、須賀川城の堀は埋め立てられ道路となり、江戸時代の奥州街道となりました。
『須賀川市博物館パンフレットより本文抜粋』

須賀川城址(二階堂神社)


三春城の本丸跡遠景
【三春城】 蒲生氏の与力 城代  福島県田村郡三春町大町

永正元年(1504)田村義顕が築城したと伝えらえています。天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置きにより田村氏は改易されました。三春は一旦伊達領になりますが、翌年には会津に入った蒲生氏郷の領地に組み入れられ、若松城の支城のひとつになります。上杉景勝が会津城主だった慶長3年から6年(1598〜1601)前後は、三春城ではなく守山城が使用されました。そして寛永4年(1627)に蒲生忠郷が没すると、替って会津に入った加藤嘉明の三男明利、翌年には嘉明の娘の子である松下長綱が3万石の三春藩主となります。寛永21年(1644)に松下氏が改易されると、翌正保2年(1645)、秋田俊季が5万5千石で三春藩主となり、明治維新まで秋田氏11代の居城となりました。
『三春町 三春城パンフレットより本文抜粋』

【守山城】 蒲生氏の与力 城代 福島県郡山市田村町守山

田村地域が田村氏の領地から、天正19年(1591)に蒲生氏郷の領地に変わると、守山城は、会津若松城の支城となり、蒲生氏郷の家臣田丸具直が支城主となりました。また慶長3年(1598)に上杉景勝の領地に変わると、家臣の須田長義、本庄繁長、竹俣利綱が支城主となり、慶長5年(1600)に蒲生秀行の領地に変わると、家臣の蒲生郷成が支城主となりました。その後元和元年(1615)の一国一城令により、守山城は破城されたと考えられます。
『現地案内看板より本文抜粋』

守山城二の丸跡の石垣


現 松代城の戌亥櫓台跡
【海津城(松代城)】 豊臣大名として独立 長野県長野市松城町松代

海津城は武田信玄によって川中島一帯を支配するために築かれましたが、築城当初は土塁と空堀の城でした。武田家が滅亡すると、森長可が城主となりましたが、上杉景勝が本能寺の混乱に乗じて海津城を占拠し、川中島一帯を上杉領へ組み込むことに成功しました。豊臣の時代になり田丸直昌が入封すると海津城は徐々に整備され、森忠政の時代になると石垣構えの城へと変貌を遂げました。またこの時に「待城」と改名されており、元和8年(1622)真田信之が入封したころには近世城郭としての姿が整えられ、万治元年(1658)には「松城」となっていた城名を「松代城」と改名しました。
『小学館 週刊名城をゆく17上田城・松城城 2006年 より本文抜粋』

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