代 |
藩主名 |
経 歴 |
在位 |
初代 |
松平乗紀 |
元禄9年(1696)4月大坂加番を勤め、元禄14年(1701)には能登守と改め半蔵門番を勤める。元禄15年(1702)美濃国岩村2万石へ国替えとなる。同年奏者番と勤める。元禄16年(1703)には石川から本姓である松平に復し、兵庫頭と改める。宝永元年紀伊国上使を勤める。正徳2年(1712)には岩村で追鳥狩を始める。全国で9番目となる藩校知新館を開設し、教授として佐藤周軒を招いた。周軒の曾孫である一斎は後に昌平坂学問所の教授として名を馳せる。享保元年(1716)江戸にて43歳で没する。 |
在14年 |
2代 |
松平乗賢 |
元禄6年(1693)出生。享保2年(1717)家督を継ぐ。享保3年(1718)の日光御祭礼では奉行を勤める。享保4年(1719)奏者番となり、享保8年(1723)には若年寄を仰せつかる。享保17年(1732)領内の百姓飢餓者が多きに対して貯蓄米500俵を出してこれを救済した。享保20年(1735)に西丸老中に任ぜられ御加増となり、駿河国と西美濃において飛び地1万石の加増を受ける。延享2年(1745)には本丸老中となった。延享3年(1746)江戸にて54歳で没する。 |
在29年 |
3代 |
松平乗薀 |
享保元年(1716)老中松平乗邑の二男として出生。寛保元年(1741)に松平乗賢の養子となる。延享3年(1746)に家督を相続し、能登守と改める。延享4年(1747)の朝鮮使節来朝の折には、近江八幡において接待役を務めた。寛延4年(1751)には日光山御名代を勤める。宝暦年間には領内90歳以上の高齢者に米2俵を下賜したり、家中や領民に疫病除の薬剤を配布したりしている。宝暦8年(1758)12月、郡上八幡城主金森頼錦のもとで起こった宝暦騒動に際しては城地没収改易による八幡城請取役を勤めた。宝暦12年(1762)奏者番となり、明和6年(1769)には日光山小来川口勤番を勤めた。安永2年(1773)の安永騒動では代官大原彦四郎の要請により、高山へ兵を派遣している。安永9年(1780)に願いにより奏者番を免ぜられ、天明元年(1781)に隠居。天明3年(1783)68歳で没した。 |
在35年 |
4代 |
松平乗保 |
寛延2年(1749)朽木土佐守玄綱の九男とした出生。明和7年(1770)岩村藩主松平乗薀の養嗣子となり、天明元年(1781)家督を継いだ。天明2年(1782)大坂加番を勤め、同3年(1783)能登守と改める。同4年(1784)には奏者番となり、同6年(1786)には日光山御名代を勤めた。寛政10年(1798)には西丸若年寄に、文化元年(1804)には本丸若年寄を任ぜられる。文化3年(1806)大坂城代を任ぜられ、その役知として摂津・和泉国に5000石、美作国に5000石を拝領し、4万石となる。文化7年(1810)には西丸老中となり、侍従に任ぜられる。文政9年(1826)江戸にて78歳で没する。 |
在45年 |
5代 |
松平乗美 |
寛政4年(1792)先代乗保の二男として出生。文政9年(1826)に家督を継ぎ能登守となる。文政10年(1827)大坂加番を勤め、同13年(1830)には桜田門番を勤める。同年3月、家老の丹羽瀬清左衛門が慶安御触書他を木版に附し領内に配布諭示、6月には国産に関する意見書を示し国産奨励を行う。天保2年(1831)日光山御名代を勤め、同6年(1835)には再び大坂加番を勤める。この年領下に飢饉が発生し農民が困窮、同8年には領下52ヶ村村役人連判嘆願書を提出して、不穏な空気があったが丹羽瀬清左衛門を免職蟄居し、領民の要求を全面的に取り入れたため事を収めることができた。天保13年(1842)隠居し、弘化2年(1845)54歳で没する。 |
在16年 |
6代 |
松平乗喬 |
文政9年(1826)乗美の二男として出生。天保13年(1842)に家督を継ぎ、名を乗喬と改め能登守を称する。嘉永3年(1850)大坂加番を勤め、同4年(1851)には奏者番を勤める。安政2年(1855)30歳で没する。 |
在13年 |
7代 |
松平乗命 |
嘉永元年(1848)乗喬の嫡男として出生。安政2年(1855)8歳で家督を継ぐ。万延元年(1860)能登守に任ぜられる。元治元年(1864)大坂加番を勤める。同2年(1865)7月には長州征伐に従軍し、慶応3年(1867)には奏者番を勤める。同年陸軍奉行となり、明治元年(1868)2月に官軍に帰順して征東兵を出し東山鎮撫使に属した。明治2年(1869)版籍奉還し、同年岩村藩知事となり、同4年(1871)には東京府貫属を命ぜられる。同4年廃藩となる。明治38年(1905)東京にて58歳で没する。 |
在14年 |