〜 歴 代 苗 木 藩 主 〜

遠 山 氏 1 2 代
鎌倉以来東濃の名族である苗木遠山氏が森武蔵守長可によって苗木の地を追われてから時を経ること18年後、関ヶ原合戦での戦功が認められ旧領復帰したことにより、苗木藩が成立する。
藩主名 経     歴 在位
初代 遠山友政 関ヶ原合戦の戦功により旧領を安堵される。恵那・加茂郡のうち1万521石5斗2升(恵那郡11村、加茂郡35村)。慶長7年(1602)に代官・庄屋勤務定書を交付する。慶長10年(1605)永不作田畑開発定書を公布し開墾奨励、これにより2129石余が新田となる。慶長15年(1610)駿府本丸造営につき普請用材奉行、慶長19年(1615)大坂冬の陣では幕命により伊勢国桑名城を守備する。元和元年(1615)大坂夏の陣では松平忠明に属し出陣した。元和5年(1619)64歳で没する。 在18年
2代 遠山秀友 初代友政の嫡男。慶長14年(1609)誕生。元和6年(1620)12歳で家督を継ぐ。寛永12年(1635)大坂在番、寛永14年(1637)江戸本丸奥間普請手伝。寛永17年(1640)には再び大坂御番となる。寛永19年(1642)34歳で没する。 在22年
3代 遠山友貞 寛永18年(1641)誕生。寛永19年(1642)2歳で遺領を継ぐ。正保2年(1645)江戸城石垣普請を命ぜられる。慶安元年(1648)にはじめて領内の宗門改を行う。また上納の馬飼料・畳薦を免じた。寛文元年(1661)に信濃守となる。寛文11年(1671)駿府加番、藩祖以来の重要政策であった新田開発においては罪人に処罰として荒廃地へ強制移住させ開墾に従事させるなどした。延宝3年(1675)熱海での病気湯治中に35歳で没した。 在33年
4代 遠山友春 寛文元年(1661)誕生。延宝3年(1675)15歳で遺領を継いだ。延宝4年(1676)和泉守に任ぜられる。元禄6年(1693)呉服橋門番、日比谷門番、駿府加番、半蔵門番、増上寺火の番などを勤めた。元禄15年(1702)岩村城の丹羽氏が政令疎怠により越後国高柳へ左遷された時には、岩村城の城地受取役を仰せつかった。正徳4年(1714)54歳で没する。 在37年
5代 遠山友由 4代友春の嫡男として元禄7年(1694)に誕生。宝永4年(1707)伊予守友章と称したが、享保元年(1716)友由と改める。正徳2年(1712)に家督を継ぐ。正徳3年(1713)大坂加番、日比谷門番、幸橋門番を勤める。享保6年(1721)百姓衣類定書13ヶ条を公布。享保7年(1722)29歳で没する。 在10年
6代 遠山友将 正徳5年(1715)に誕生する。享保7年(1722)8歳で遺領を継ぐ。享保10年(1725)豊前守となる。叔父に当たる左衛門に500石を分知する。幸橋門番、日比谷門番、駿府加番を勤める。享保8年(1723)御家御条目21ヶ条を公布し、これにより身分秩序の維持、質素倹約の励行を規定する。享保17年(1732)江戸にて18歳で没する。 在10年
7代 遠山友央 宝永2年(1705)誕生する。先代友将の叔父であったが、友将に嗣子なく代わって遺領を継ぐ。藩主となったためそれまで分知されていた500石が上知処分により召し上げとなる。享保17年(1732)衣類制限を緩和した。同年和泉守となる。享保18年(1733)松平頼明の三男であった越之進を養嗣子とした。日比谷門番、常盤橋門番を勤めた。元文5年(1740)に隠居。明和9年(1772)68歳で没する。なお友央が養嗣子として松平頼明の三男を迎えた経緯について、元苗木藩士である福田豊翁は自著である『美濃国恵那郡誌上編』の中で、「先代友将が急逝した折、末期養子のため家絶になるところを、将軍家親藩より嗣子を迎えることを条件に、叔父であった友央が遺領を継ぐことが認められたのではないか」と自己の見解を述べています。 在8年
8代 遠山友明 松平頼明の三男として享保2年(1717)誕生、遠山友央の養嗣子となる。享保18年(1733)に丹後守となり、名を友張と改める。先代の隠居により元文5年(1740)家督を継ぐ。寛保2年(1742)佐渡守に改める。延享2年(1745)、遠山友央の実子である左吉を養子とする。常盤橋門番、呉服橋門番、日比谷橋門番を勤める。延享5年(1748)名を友明と改名する。宝暦3年(1753)江戸にて37歳で没する。 在13年
9代 遠山友清 享保20年(1735)誕生。寛延3年(1750)に出羽守となる。宝暦3年(1753)家督を継ぐ。鍛冶橋門番、幸橋門番、日比谷門番、呉服橋門番を勤める。安永2年(1773)11月飛騨安永騒動が起こり、代官大原彦四郎の養成で物頭神山新左衛門ら総勢350余人を出役させ、同年飛騨鎮定によって帰城する。安永5年(1776)和泉守へ改名。安永6年(1777)隠居。安永10年(1781)江戸にて47歳で没する。 在24年
10代 遠山友隨 延享4年(1747)江戸で誕生。はじめ友傳と称したが、その後友隨と改名する。8代友明の二男であり、9代友清の弟である。宝暦5年(1755)に兄友清の順養子となり、宝暦8年(1758)嗣子となる。明和2年(1765)に近江守となり、安永6年(1777)家督を継ぐ。大坂加番を勤める。寛政2年(1790)諸士心得書を申し渡し、以後遠山家中心得として長く苗木藩に生き続けた。寛政4年(1792)隠居。文政4年(1821)75歳で没する。 在15年
11代 遠山友壽 天明6年(1786)誕生。天明8年(1788)に先代友隨の嫡孫となり、寛政4年(1792)7歳で家督を継ぎ、幼少のため相良壱岐守が後見した。10代友隨は生前、兄である9代友清の嫡子友福を嗣子と定めていたが、友福が天明7年(1787)27歳で没したため、その子である友壽を嗣子に充てた。鍛冶橋門番、駿府加番を勤めた。享和元年(1801)刑部少輔に、文化11年(1814)美濃守となった。享和元年(1801)には重役心得を申し渡し、指導者の心構えと指導の重要性を強調した。文化4年(1807)には乗馬仕立之主意を申し渡し先代の諸士心得の徹底を図った。文化11年(1814)、領財政の窮乏のため、近江信楽代官取扱の宿場助成貸付金3000両の借用を領村33ヶ村を引当に申し込み、800両の融通を受けると共に倹約令を繰り返し、また文政13年(1830)には衣類の倹約規定の申請書を側向へ出した。天保3年(1832)の倹約令では家中借上米を3ヶ年間実施したが領財政は好転せず、以後借上米は延長され続けた。天保9年(1838)53歳で没する。 在46年
12代 遠山友禄 友壽の三男として文政2年(1819)に誕生。二兄が早世したため嫡子となった。天保6年(1835)刑部少輔友祥と名乗り、後に友禄に改めた。天保8年(1837)に豊前守となり、天保10年(1839)家督を継ぎ美濃守となる。幸橋門番、駿府加番を勤めた。天保13年(1842)在所・定府の区別なく家中すべての全給与を借り上げる非常手段を断行し、嘉永3年(1850)の倹約取締令では人減し、小者の整理や家中役職の大幅な配置転換、勤務兼帯をはかり、超過勤務をすすめることを規定した。万延元年(1860)奏者番となり、文久元年(1861)には幕府若年寄、文久3年(1863)には大坂警備を命じられた。元治元年(1864)に再び若年寄となり、慶応元年(1865)には将軍家茂に随行して長州征伐のため大坂城へ入ったが、同2年(1866)に家茂没のため遺体と共に江戸へ帰還している。明治元年(1868)、維新により苗木帰城。飛騨梅村騒動には説得方を派遣している。同年苗木藩知事となる。明治3年(1870)8月〜11月には廃仏毀釈を断行し、明治4年(1871)廃藩となった。明治27年(1894)76歳で没した。 在30年

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