岡山県の百名城・続百名城

津山城
100名城(最終訪城日:平成19年10月14日)
 
■所在地:岡山県津山市山下 ■築城年:慶長9年(1604)
■別  名:鶴山城 ■築城主:森忠政

復元 備中櫓

月見櫓跡

天守台跡
津山城は、もと山城のあった鶴山の地に森忠政が慶長9年(1604)に起工し、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。往事には5層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実践的なものでした。また本丸・二の丸・三の丸には備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には70余の部屋から成る御殿と庭園がありました。 『現地案内看板より本文抜粋』

備中松山城
100名城(最終訪城日:令和5年1月22日)
 
■所在地:岡山県高梁市内山下 ■築城年:延応2年頃(1240)
■別  名:高梁城、大松山城、小松山城 ■築城主:秋庭重信

現存天守と復元櫓群

大池跡

現存 二重櫓
備中松山城は、鎌倉時代の延応2年(1240)に有漢郷の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山農地の大松山に砦が築かれ、その後、小松山に移り、城の縄張りは時代と共に変化する。天正期に城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方侵出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・政一(遠州)父子により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っていました。以降池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えますが、現存する天守などは天和三年に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。 『備中松山城パンフレットより本文抜粋』

鬼ノ城
100名城(最終訪城日:平成19年10月13日)
 
■所在地:岡山県総社市黒尾 ■築城年:7世紀
■別  名: ■築城主:大和政権

復元 西門

復元 角楼

屏風折れの石垣
鬼ノ城は標高約400mの鬼城山に築かれた壮大で堅固な古代山城です。鬼ノ城の山容はすり鉢を伏せたような形状をし、山頂付近はなだらかな斜面となっていますが、山の8〜9合目より以下は著しく傾斜しています。この山頂部との傾斜が変化する部位に城壁が築かれ、全周約2.8kmに及んでいます。城壁は版築工法により築かれた土塁が主体をなし、城門が4ヶ所、排水機能をもつ水門が6ヶ所、また石垣などにより構成されています。築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した白村江の海戦(663年)において大敗した後、唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城のひとつと考えられています。 『現地案内看板より本文抜粋』

岡山城
100名城(最終訪城日:令和元年8月7日)
 
■所在地:岡山県岡山市北区丸の内 ■築城年:慶長2年(1597)
■別  名:烏城 ■築城主:宇喜多秀家

復興 天守閣

現存 西の丸西手櫓

現存 月見櫓
備前国邑久から起った宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を滅ぼして城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573)、その子八郎秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、直家の遺領である備前・美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、57万石をこえる大領主となった。ここにおいて石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行い、慶長2年(1597)、3層6階の大天守が落成するにおよんだ。秀家は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍の総大将となって出陣、一敗地に塗れて八丈島へ流された。その後小早川秀秋が筑前国名島から移って岡山城主となったが急死により断絶、その後姫路城主池田輝政の子、忠継に備前一国が与えられた。 『現地案内看板より本文抜粋』

備中高松城
続100名城(最終訪城日:令和元年8月7日)
 
■所在地:岡山県岡山市北区高松 ■築城年:不明     
■別  名: ■築城主:石川氏か

高松城址公園

伝清水宗治首塚

本丸跡
高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)の中国役の主戦場となった城跡として有名である。城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。 『現地案内看板より本文抜粋』

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