山口県の百名城・続百名城
岩国城 100名城(最終訪城日:平成22年10月30日) |
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復興 天守閣(位置は違う場所) |
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岩国城は、吉川家代の広家が慶長5年(1600)岩国に移封されてより建設が計画され、山麓に平生の居館を構え、次いで横山の要害を城と呼び、山麓の館を土居と称した。慶長8年(1603)、鍬初めを行い、5年の歳月を要して慶長13年(1608)に山頂の要害は悉く完成した。天守閣は桃山風の南蛮造りと言われ、4層5階で本丸の北隅にそびえていた。この他に矢倉5棟、折り回し大門2門、埋門1門、井戸2堀があった。横山側の前方を大手とし、御庄後方を搦手として錦川を隔てて北方に安芸境をにらんでいた。元和元年(1615)、徳川幕府の一国一城令により取り潰しにあった。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
萩城 100名城(最終訪城日:平成14年12月27日) |
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天守台跡 |
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萩城は関ヶ原の役後、毛利輝元が慶長9年(1604)築城に着手し4年後の同13年(1608)に至って完成したものである。萩市街の西北隅、指月山の麓に位置し山名をとって指月城とも呼ばれた。山麓の平城と頂上の山城を併せた平山城である。当時輝元は隠居していたがその子、初代藩主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。以後代を重ねること13代敬親に至って幕末多端の国事を処理するに不便なため文久3年(1863)山口に移った。この城は259年間防長両国政治の中心であり明治維新に大きな役割を果たした重要拠点でもあった。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
大内氏館・高嶺城 未訪城 続100名城(最終訪城日:) |
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