群馬県の百名城・続百名城

箕輪城
100名城(最終訪城日:平成29年12月29日)
 
■所在地:群馬県高崎市箕郷町西明屋 ■築城年:明応・永正年間(1492〜1521)
■別  名: ■築城主:長野尚業

復元 郭馬出西虎口門

三の丸跡の石垣

大堀切跡
箕輪城は、明応・永正年間(1492〜1521)に長野尚業が築城し、子・憲業、孫・業政により強化されました。業政の死後、子業盛は父の意思を守り将兵一体となってまで戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9年(1566)武田勢の総攻撃によりついに落城するに至った。武田氏の時代は天正10年(1582)その滅亡にて終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を改修した。天正18年(1590)北条氏滅亡後徳川家康の重臣井伊直政を12万石でここに封して関東西部の要とし、城下町も整備した。その後、慶長3年(1608)直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀に至る歴史を閉じた。 『現地案内看板より本文抜粋』

金山城
100名城(最終訪城日:平成29年12月27日)
 
■所在地:群馬県太田市金山町 ■築城年:文明元年(1469)
■別  名: ■築城主:岩松家純

大手虎口の石垣

馬場下通路の石垣

日ノ池
金山城は、岩松(新田)家純が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。その後、下剋上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12年(1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。天正18年(1590)小田原北条氏の滅亡と共に廃城となりました。 『現地案内看板より本文抜粋』

名胡桃城
続100名城(最終訪城日:平成30年11月3日)
 
■所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津 ■築城年:天正7年(1579)頃
■別  名: ■築城主:真田昌幸

名胡桃城の二の郭跡

三郭と堀切跡

二郭北虎口跡
名胡桃城は、群雄割拠の戦国時代を勇猛に駆け抜けた真田昌幸が築いた上野国利根郡の山城で、10年ほどの歴史にもかかわらず、ここを舞台とした小さな事件が乱世を終わりに向かわせることとなりました。この時期の利根沼田地方は上杉氏・武田氏・北条氏による争いが繰り広げられていましたが、天正7年(1579)頃、真田昌幸が吾妻方面から進出し境目城として名胡桃城を築き、翌年には沼田城を手中に収めました。天正17年(1589)、豊臣秀吉は北条氏政・氏直親子と真田昌幸による北毛地域の領地争いを裁定しましたが、同年、真田領に残された名胡桃城を北条氏の家臣が攻略してしまいました。それをきっかけに翌年、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、事実上、天下統一を果たしたのです。その後、名胡桃城は廃城になりました。 『現地案内看板より本文抜粋』

沼田城
続100名城(最終訪城日:平成30年11月3日)
 
■所在地:群馬県沼田市西倉内町 ■築城年:天文元年(1532)
■別  名:蔵内城 ■築城主:沼田顕泰

本丸跡の西櫓台石垣

本丸跡の空堀

三の丸の土居跡
沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰が約3ヶ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内城(倉内)と称した。築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領2万7千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元年(1681)に真田氏5代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領177ヶ村のうち46ヶ村・飛地領合わせ4万石の藩主として入封し、次いで、黒田氏2代、土岐氏12代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。 『現地案内看板より本文抜粋』

岩櫃城
続100名城(最終訪城日:平成30年11月4日)
 
■所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町原町 ■築城年:不明
■別  名: ■築城主:不明

本郭跡下の堀切

中央竪堀

岩櫃山と潜龍院跡
岩櫃城は、その築城時期や築城者については定かではありませんが、文献によれば南北朝の時代に初めて岩櫃城主吾妻太郎行盛の名が登場します。戦国時代の上州は甲斐武田氏、越後上杉氏、小田原北条氏による支配権争いが繰り広げられ、永禄6年(1563)斎藤越前守憲広(基国)の本城であった岩櫃城は武田信玄の家臣である真田幸綱(幸隆)の手によって落城し、武田氏の西上野支配が確立しました。武田氏滅亡後この地は真田氏の支配となり、岩櫃城は信州上田城から上州沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な位置を占めることとなりました。徳川幕府開設後も吾妻地域は真田氏の支配となりましたが、徳川家康による「一国一城令」に伴い、慶長20年(1615)頃、真田信幸は城下町を現在の原町に移し岩櫃城を破却し、岩殿城、久能山城と並び武田の三堅城といわれた岩櫃城も戦国時代の終焉と共にその役割を終えました。 『現地案内看板より本文抜粋』

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