神奈川県の百名城・続百名城
小田原城 100名城(最終訪城日:平成26年11月24日) |
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復興 天守閣 |
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小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された城下町を含む延長9kmに及ぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。北条氏滅亡後に徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、城は近世城郭の姿に改修されます。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
石垣山城 続100名城(最終訪城日:平成26年11月24日) |
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南曲輪跡の石垣 |
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石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲した時、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。この城を秀吉が一夜にして築いたように見せかけたという伝承から石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われています。この城は小田原攻めの本営であるというだけでなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
小机城 続100名城(最終訪城日:平成30年12月23日) |
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伝 二の丸北側の空堀 |
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小机城は、鶴見川に突き出た丘陵上の要害で、15世紀半頃(室町時代)までには築城されていたと考えられます。背後の神奈川湊と鶴見川および鎌倉街道の交差する交通の要衝であり、横浜市北部一帯を含む支配拠点でした。文明10年(1478)には長尾景春の乱にともなう戦乱で、太田道灌によって攻め落とされています。戦国時代には、小田原北条氏の関東進出のなかで重要な軍事拠点となり、城も改築されたようです。北条氏の重臣笠原越前守信為が城代となった後、北条三郎・氏信・氏堯・氏光が城主となりました。豊臣秀吉による小田原攻めでは戦闘の記録はなく、徳川家康の関東入りの後に廃城となりました。 『小机城址ガイドマップより本文抜粋』 |