兵庫県の百名城・続百名城

竹田城
100名城(最終訪城日:平成21年11月23日)
 
■所在地:兵庫県朝来市和田山町竹田 ■築城年:嘉吉3年(1443)
■別  名:虎臥城 ■築城主:山名持豊

天守台跡

北千畳跡

南千畳跡
竹田城は別名「虎臥城」といい、嘉吉年間、山名持豊(宗全)が播磨・丹波から但馬への侵入路に位置する要衝の地に13年を費やして築いたと伝えられています。城は築城後、山名の家臣太田垣光景が初代城主となり、太田垣氏は7代にわたりこれを守り継ぎました。永禄12年(1569)羽柴秀吉は但馬へ攻め入り竹田城を攻略、天正5年(1577)に再び秀吉軍の攻撃を受けついに竹田城は落城しました。天正8年(1580)には桑山重晴が城主となり、同13年(1585)には四国征伐等で戦功のあった赤松広秀が竹田城主となりました。関ヶ原合戦後、赤松広秀の自刃により廃城となりました。 『現地案内看板より本文抜粋』

篠山城
100名城(最終訪城日:平成23年10月9日)
 
■所在地:兵庫県篠山市北新町 ■築城年:慶長14年(1609)
■別  名:桐ヶ城 ■築城主:徳川家康

復元 二の丸大書院

本丸跡石垣

東馬出跡
篠山城は、慶長14年(1609)に、天下を盤石なものにしようとする徳川家康が、豊臣方の拠点である大坂城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために、山陰道の要衝であったこの地に築いた城です。築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱めることを目的に天下普請とされ、山陰道、山陽道、南海道など15ヶ国20大名が動員されました。篠山城の縄張は、築城の名手といわれた藤堂高虎が行ったものです。堀を二重に廻し、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に適した城構えとなっています 『現地案内看板より本文抜粋』

明石城
100名城(最終訪城日:平成23年8月23日)
 
■所在地:兵庫県明石市明石公園 ■築城年:元和4年(1618)
■別  名:喜春城、錦江城 ■築城主:小笠原忠真

現存 巽櫓と坤櫓

天守台跡

乾櫓跡
大坂夏の陣で戦功をたてて、元和3年(1617)に明石12万石を賜った小笠原忠真は、はじめ船上城に入ったが、交通の要所に新規築城を計画した。資材を一国一城令で廃城になった周辺の三木・高砂・船上・枝吉城などから運ばせ、元和5年(1619)に完成、以後城主は、戸田・大久保・松平・本多・松平氏と替わって明治維新を迎えた。現存する巽櫓は、船上城の遺構であり、坤櫓は伏見城の遺構だと伝わっている。 『週刊名城をゆく2 小学館 2004年 より本文抜粋』

姫路城
100名城(最終訪城日:平成27年8月24日)
 
■所在地:兵庫県姫路市本町 ■築城年:天文14年(1545)
■別  名:白鷺城 ■築城主:黒田重隆

現存 天守群

現存 西の丸櫓群

現存 菱の門
播磨の守護職赤松則村が元弘3年(1333)ここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346)城を構えたことに始まり、その後小寺氏、黒田氏が拠っていました。黒田官兵衛孝高のとき、彼の勧めで羽柴秀吉が天正8年(1580)西国攻略の根拠地として入城し、三層の天守を完成させました。その後、羽柴秀長、木下家定と続き、関ヶ原の役後、徳川家康の女婿池田輝正が入封し、姫山に五層七階の天守を築きました。池田氏三代の後入封した本多忠政は、長男忠刻とその室千姫のために、西の丸を整備して今日に見る姫路城の全容を整えました。その後城主は松平氏、榊原氏と変わり、酒井氏が入封して明治維新を迎えました。 『姫路城パンフレットより本文抜粋』

赤穂城
100名城(最終訪城日:平成23年8月24日)
 
■所在地:兵庫県赤穂市上仮屋 ■築城年:慶安元年(1648)     
■別  名:加里屋城、大鷹城 ■築城主:浅野長直

復元 本丸桝形門

天守台跡

復興 大手隅櫓
赤穂城は正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。本丸は中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、刎橋門、厩口門の3門をもつ。天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓台のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、他は横矢枡形として配されていた。 『現地案内看板より本文抜粋』

出石城
続100名城(最終訪城日:平成21年11月22日)
 
■所在地:兵庫県豊岡市出石町内町 ■築城年:慶長9年(1604)
■別  名:高城 ■築城主:小出吉英

復元 本丸西隅櫓

稲荷丸跡の高石垣

復元 本丸東櫓
出石には但馬守護所として此隅山城が築かれていたが、羽柴秀吉の但馬攻めで落城する。その後築かれたのが有子山城である。関ケ原合戦後に入封した小出吉英は有子山城を廃し、その北山麓に居城を移した。これが出石城である。山麓に稲荷曲輪、本丸、二の丸、下の曲輪を階段状に四段造成し、これらを囲い込むように山下に内堀が巡らされて三の丸を形成していた。 『「山川MOOK 日本の城」 2009 山川出版社 より本文抜粋』

黒井城
続100名城(最終訪城日:平成23年10月23日)
 
■所在地:兵庫県丹波市春日町 ■築城年:建武2年(1335)     
■別  名:保筑城、保月城 ■築城主:赤松貞範

主郭跡下の石垣

主郭跡の空堀と土橋

東郭跡と三の郭跡石垣
黒井城は別名を保筑城・保月城とも呼び、猪ノ口山にある山城で、南北朝時代の建武2年(1335)春日部荘を領した赤松筑前守貞範がはじめて山頂に城を築いたことから始まります。その後、約200年間数代の城主を経て、戦国動乱さなかの天文23年(1554)、荻野(赤井)直正が城主となり、その勢威の拡大と共に、全面的に大改修の手を加えたのが現在の黒井城です。天正7年(1579)8月、堅固を誇った黒井城も、丹波平定を急ぐ明智光秀の大軍の前に落城をとげました。 『現地案内看板より本文抜粋』

洲本城
続100名城(最終訪城日:平成27年12月26日)
 
■所在地:兵庫県洲本市小路谷 ■築城年:永正年間(1504〜1521)     
■別  名:三熊城 ■築城主:安宅氏

模擬 天守(日本最古)

大手門跡

本丸 大階段跡
洲本城は大阪湾を望む約130mの三熊山(高熊山・乙熊山・虎熊山)の上に築かれた水軍の城で、山の麓には館と港がありました。最初16世紀前半に安宅氏によって山の上に築かれ、天下を狙う三好四兄弟の洲本会談や、羽柴秀吉の淡路攻めなどの舞台となりました。戦国時代から江戸時代に初期までの国内の城郭の様式を色濃く残した壮大な城です。天正13年(1585)から慶長14年(1609)までの24年間城主であった秀吉配下の武将脇坂安治によって、山の上に総石垣の城が築かれ山の麓の居館部分と結び、東西に約800m、南北に約600mにも及ぶ縄張の洲本城の原型が完成しました。その後阿波藩の蜂須賀氏の時代になって、山の麓の居館部分が新たに洲本城として整備されることになりました。 『淡路文化史料館の配布資料より本文抜粋』

有子山城  未訪城
続100名城(最終訪城日:)
 
■所在地: ■築城年:
■別  名: ■築城主:

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