京都府の百名城・続百名城
二条城 100名城(最終訪城日:平成29年3月5日) |
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現存 二の丸御殿 |
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慶長7年(1602)徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者により着工され、翌3月に完成した。京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、初めは小規模のものであった。家康の征夷大将軍の拝賀及び二代秀忠の将軍宣下はこの二条城で行われた。その後も造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、五層の天守閣も備えていた。文久3年(1863)、14代将軍家茂が入城、攘夷の実行を誓い、慶応3年(1867)15代将軍慶喜がこの城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
福知山城 続100名城(最終訪城日:令和元年11月3日) |
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復興 天守 |
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福知山のまちは、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が城を築き、城下整備に着手したことで始まったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられています。一方これらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入りました。光秀没後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続きました。関ケ原の合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木植昌と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |