奈良県の百名城・続百名城
高取城 100名城(最終訪城日:平成23年10月9日) |
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![]() 本丸跡石垣 |
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高取城は別名芙蓉城ともいわれ、近世山城の典型として知られている。築造年代に関しては元弘2年(1332)との説もあるが確実ではない。しかし南北朝時代、南大和に大きな力を振るった越智氏の支城の一つとして築かれたことは疑いない。城の形態としては永正から天文年間頃に整備されたと見るべきで、次第に本格的なものとして重視されるに至ったようである。越智氏なき後、織田信長の城郭破却令によって廃城となっていたが、筒井順慶によって郡山城の出城として復活した。本格的に近世城郭としての高取城が築かれたのは、豊臣秀長の時代であった。その後、本多氏が寛永14年(1637)3代で断絶し、寛永17年(1640)から植村氏が入部した。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
大和郡山城 続100名城(最終訪城日:令和5年11月4日) |
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![]() 郡山城天守台 |
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郡山城は、天正6〜7年(1578〜1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同8年の一国一城令に基づき拡張、同11年には天守閣も完成をみた。同13年、豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄5年(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行なわれ、外堀を一周させ、城下町の完成をみるに至った。関ケ原合戦後、長盛が改易され、大阪夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の居城として栄えた。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
宇陀松山城 未訪城 続100名城(最終訪城日:) |
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