滋賀県の百名城・続百名城
小谷城 100名城(最終訪城日:令和5年5月5日) |
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山王丸跡の大石垣 |
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小谷城は大永4年(1524)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573)までの50年間、浅井氏が根城としたところであり、六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。またこの城は信長の妹お市の方の住した所であり、その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもある。落城後、木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町、寺院等が今浜(長浜)に移される。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
彦根城 100名城(最終訪城日:平成28年4月2日) |
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現存 天守 |
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【歴史】関ヶ原合戦後、石田三成旧領18万石を得た井伊直政は、佐和山城を廃し新城彦根城の建設に取りかかった。工事は十二大名に役夫を割り当てる天下普請で実施され、直政亡き後、築城工事は二代直継に引き継がれた。徹底的に近江国内にあった旧城郭の部材を再利用したと伝えられ、天守は大津城天守閣、天秤櫓は長浜城、太鼓門は佐和山城、西の丸三重櫓は小谷城から運ばれたという。国宝に指定されている天守は、三重三階で、付櫓から階段を利用して一階に入る構造となっている。外観意匠は、極めて華美で切妻破風、入母屋破風、唐破風を多用し、最上階に回縁高欄が廻り、二層・三層目に華頭窓、一層目のみ下見板張りという、変化に富んだ姿を今に伝えている。 『新人物往来社発行 別冊歴史読本93 新・日本名城図鑑 より本文抜粋』 |
安土城 100名城(最終訪城日:平成26年5月20日) |
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天主台跡 |
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安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576)に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。築城開始から3年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みましたが、その3年後天正10年(1582)に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天守・本丸は焼失してしまいました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
観音寺城 100名城(最終訪城日:平成29年10月30日) |
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観音寺城の大石垣 |
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観音寺城は、近江の守護佐々木六角氏の本城であって、中世の代表的な大山城である。築城は長い年月を経て応仁2年(1468)に完成し、さらに弘治年間鉄砲に備えて大々的に石塁が改修されている。永禄11年(1568)9月、織田は当城に入城したが城は元のままに残し、佐々木氏に守らせたが天正10年(1582)安土城とともに滅亡した。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
鎌刃城 続100名城(最終訪城日:平成25年1月12日) |
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主郭桝形虎口跡 |
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鎌刃城は鎌倉時代に箕浦庄の地頭であった土肥氏の居城として築城されたと伝えられています。城跡は村から離れた山中に立地しており、在地支配の城ではなく、軍事的な目的のためにのみ築かれた城のようです。鎌刃城は江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから「境目の城」として室町時代に築城されたと考えられます。城跡の規模は県内でも有数のものであり、鎌刃城が「境目の城」として重要視されていたことがうかがえます。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
八幡山城 続100名城(最終訪城日:平成29年10月30日) |
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本丸跡の石垣 |
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豊臣政権下の天正13年(1585)、羽柴秀次に近江43万石が与えられ、この八幡山に八幡山城が築かれました。本丸および二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸の城郭施設は標高283mの山頂に位置し、居館群は標高130mの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。天正18年(1590)に秀次が尾張清州に移った後は、京極高次が代わって、2万8千石で城主となり、秀次が自害する文禄4年(1595)に聚楽第と同じく破却されました。 『二の丸資料館の解説文より本文抜粋』 |
玄蕃尾城 続100名城(最終訪城日:平成29年1月17日) |
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内堀跡 |
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玄蕃尾(内中尾山)城跡は、滋賀県と福井県境の柳ヶ瀬山(内中尾山)山上にある。かつて、この城には賤ケ岳の合戦(天正11年・1583年)の際、戦国時代の武将である柴田勝家の本陣が置かれたところである。本遺構は、極めて限定された時期の城郭の遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の標識遺跡として重要である。 『現地案内看板より本文抜粋』 |