福井県の百名城・続百名城

丸岡城
100名城(最終訪城日:平成24年5月4日)
 
■所在地:福井県坂井市丸岡町霞町 ■築城年:天正4年(1576)
■別  名:霞ヶ城 ■築城主:柴田勝豊

現存 天守閣

現存天守の石瓦

天守の旧石鯱
織田信長は天正3年(1575)一向一揆の拠点であった豊原を攻略した。柴田勝家を越前の守護職とし、勝家は甥で養子の勝豊を豊原に置いた。天正4年(1576)勝豊は豊原から丸岡に城を移し、新たな城下町形成へと歩を進めた。天正10年(1582)勝豊は長浜城主となり、安井家清、青山修理亮、同忠元、今村盛次を経て慶長18年(1613)本多作左衛門重次の子成重が城主となり、以後4代続くこととなる。現在記録に残る城郭はこのころ完成した。元禄9年(1696)九州延岡より有馬清純が城主となり、以後8代にわたり老中、若年寄と数々の幕府要職をつとめた。 『現地案内看板より本文抜粋』

一乗谷城
100名城(最終訪城日:令和3年11月20日)
 
■所在地:福井県福井市城戸ノ内町 ■築城年:文明3年(1471)
■別  名:朝倉氏館 ■築城主:朝倉孝景

朝倉館跡

現存 朝倉館唐門

山上の千畳敷跡
福井市の東南約10km「一乗ハ山ノ間ノ谷」に築かれた朝倉氏遺跡は、戦国時代の城下町の跡で、400年以上もそっくり埋もれてきたことで有名です。朝倉館は第5代義景の住まいした所で、後の江戸時代に建てられた西側唐門から入ります。館は三方に濠と土塁が巡り、6400uの敷地に17棟の建物が建っていました。常御殿を中心にして、南方には花壇、庭園、主殿、会所、茶室などの表向の建物群が、また北方には台所や厩、湯殿、蔵など内向の建物群が整然と配置されています。 『一乗谷朝倉氏遺跡資料館しおりより本文抜粋』

福井城
続100名城(最終訪城日:平成22年10月3日)
 
■所在地:福井県福井市大手   ■築城年:天正3年(1575)、慶長6年(1601)
■別  名:北ノ庄城 ■築城主:柴田勝家、結城秀康

天守台跡

復元 舎人門

復元 御廊下橋
福井城は慶長6〜11年(1601〜06)に徳川家康の次男、結城秀康によって築城されました。秀康時代の福井城の建物は寛文9年(1669)に焼失してしまいました。福井城は本丸を中心に同心円状に曲輪・堀を廻らした環郭式の城郭であったが、現在は本丸の石垣と内堀のみが往時の様子を伝えている。なお、築城当初は「北庄城」と呼ばれていたが、3代藩主忠昌の頃「福居」と改称されその後さらに「福井」となっていった。 『現地案内看板より本文抜粋』

越前大野城
続100名城(最終訪城日:令和元年8月24日)
 
■所在地:福井県大野市城町 ■築城年:天正年間前半(1573〜)
■別  名:亀山城 ■築城主:金森長近

現存 天守群

武者登り

移築復元 藩主隠居所
越前大野城は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城です。織田信長の部将、金森長近により天正年間(1573〜1593)の前半に築城されました。亀山を利用し、外堀・内堀を巡らし石垣を組み、天守閣を構えるという中性の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛政7年(1795)に再建されました。 『現地案内看板より本文抜粋』

佐柿国吉城
続100名城(最終訪城日:平成24年5月5日)
 
■所在地:福井県三方郡美浜町佐柿 ■築城年:弘治2年(1556)
■別  名: ■築城主:粟屋勝久

主郭跡

二の郭跡の土塁

藩主屋敷跡
国吉城は、若狭国守護大名武田氏の重臣であった粟屋越中守勝久によって、弘治2年(1556)に築かれた中世の山城跡です。永禄6年(1563)から数年におよぶ勝久と越前朝倉氏との戦いにおいては、城を守り通して名声を内外に轟かせました。元亀元年(1570)、越前攻めのために木下藤吉郎や徳川家康らを伴って国吉城に入城した織田信長は、城を守った勝久を褒め称えたと伝わります。その後、天正11年(1583)に入城した木村定光は、椿峠を越えた丹後街道が集落の中を通るように道筋を付け替えて町割りを行い、佐柿の町を興しました。江戸時代に入ると国吉城は廃され、寛永11年(1634)に若狭国の領主となった酒井忠勝は町奉行所と藩主休息所として御茶屋屋敷を置きました。 『現地案内看板より本文抜粋』

玄蕃尾城
続100名城(最終訪城日:平成29年1月17日)
 
■所在地:福井県敦賀市刀根、滋賀県伊香郡余呉町柳ヶ瀬 ■築城年:天正11年(1583)
■別  名:内中尾山城 ■築城主:柴田勝家

主郭跡

南馬出跡

土塁と空堀跡
玄蕃尾(内中尾山)城跡は、滋賀県と福井県境の柳ヶ瀬山(内中尾山)山上にある。かつて、この城には賤ケ岳の合戦(天正11年・1583年)の際、戦国時代の武将である柴田勝家の本陣が置かれたところである。本遺構は、極めて限定された時期の城郭の遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の標識遺跡として重要である。 『現地案内看板より本文抜粋』

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