長野県の百名城・続百名城

松代城
100名城(最終訪城日:令和5年7月16日)
 
■所在地:長野県長野市松代町 ■築城年:永禄3年頃(1560)
■別  名:海津城、貝津城、長野城 ■築城主:武田信玄

復元 本丸太鼓門

戌亥隅櫓台跡

復元 北不明門
松代城は甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との川中島の合戦の時に、武田方の前線基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3年(1560)頃、普請が完了したものと伝えられています。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃に二の丸・三の丸を整備し、土塁を築き直したものと考えられています。元和8年(1622)に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。 『松代城パンフレットより本文抜粋』

上田城
100名城(最終訪城日:平成31年4月22日)
 
■所在地:長野県上田市二の丸 ■築城年:天正11年(1583)
■別  名:伊勢崎城、尼ヶ淵城、真田城、松尾城 ■築城主:真田昌幸

尼ヶ淵方面から見た南櫓と西櫓

復元 東虎口櫓門

伝 真田井戸
上田城は、真田昌幸によって天正11年(1583)から築城が開始された平城である。城郭自体の規模はさほど大きくはないが、南方の千曲川の分流である尼ヶ淵に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防御陣地としている。天正13年(1585)と慶長5年(1600)の2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮された。真田氏の上田城は関ヶ原合戦後に破却され、現存する上田城の隅櫓や石垣は、寛永3〜5年(1626〜28)にかけて仙石忠政によって新たに築き直されたものである。上田城は仙石氏の後、松平氏に受け継がれ明治維新を迎えた。 『現地案内看板より本文抜粋』

小諸城
100名城(最終訪城日:平成29年7月23日)
 
■所在地:長野県小諸市丁 ■築城年:天文23年(1554)
■別  名:酔月城、穴城、白鶴城、鍋蓋城 ■築城主:武田信玄

現存 大手門

現存 三之門

天守台跡
小諸城の起りは、平安時代から鎌倉時代にかけて小室太郎光兼が、現城址の東側に館を築き、またその後、大井光忠が小室氏の勢力を押さえて鍋蓋城を築き、その子光為がさらに出城として乙女坂城を構えたが、武田信玄の攻略により落城。信玄はこの地が重要であることから山本勘助と馬場信房に命じて築城したのが現在の小諸城である。その後滝川一益、松平康国が城址になり、さらにその後、仙石秀久が城主となって二の丸・黒門・大手門を建て、その子忠政が三の門・足柄門を建て現在の小諸城が完成した。 『現地案内看板より本文抜粋』

松本城
100名城(最終訪城日:平成22年5月29日)
 
■所在地:長野県松本市丸の内町 ■築城年:永正年間頃(1504〜1520)
■別  名:深志城 ■築城主:小笠原氏か

現存 天守群

復元 黒門

復元 太鼓門
永正元年(1504)に、小笠原一族の島立貞永が築いた深志城に始まる。天文19年(1550)に、武田信玄に攻められ落城、以後32年間、武田氏の信濃での拠点となった。天正10年(1582)に武田氏が滅び、小笠原氏が復帰、城を大改修して松本城と改称する。本丸・二の丸・三の丸を設けて、堀と塁をめぐらし、五カ所の虎口が置かれた。天正18年(1590)石川数正が入封、今に残る天守閣を構築した。 『新人物往来社発行 別冊歴史読本93 新・日本名城図鑑 より本文抜粋』

高遠城
100名城(最終訪城日:平成28年10月15日)
 
■所在地:長野県伊那市高遠町 ■築城年:不明       
■別  名:兜山城 ■築城主:不明     

桜と空堀跡

問屋門と桜雲橋

太鼓櫓
高遠城は三峰川と藤沢川の合流地点にあり、諏訪から伊那に入る交通の要衝に位置しています。南北朝時代には高遠氏が支配していましたが、天文年間に武田信玄の旗下に属しました。天文16年(1547)には家臣の秋山信友と山本勘助らに高遠築城を命じました。織田家の武田掃討戦において高遠城は信玄の五男である仁科盛信が籠もり最後まで抵抗しましたが、織田信忠率いる軍勢に攻撃され天正10年(1582)落城しました。その後、保科氏、毛利氏、京極氏、保科氏、鳥居氏を経て、内藤氏の時に明治維新を迎えました。 『学研 図説・日本名城集 2001年発行 より本文抜粋』

龍岡城
続100名城(最終訪城日:平成29年7月23日)
 
■所在地:長野県佐久市田口 ■築城年:元治元年(1864)
■別  名:田野口陣屋、田野口五稜郭、桔梗城 ■築城主:松平乗謨

内堀跡

現存 御台所

土塁跡
信州に1万2千石、三河に4千石の封地を持つ三河奥殿藩の松平氏は、宝永以来160年間三河に本拠を持ち、佐久には陣屋を置いて、領内22か村の統治をつづけてきたが、11代乗謨になって、幕末激動の状勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元年(1864)3月着工、慶応3年(1867)竣工、地字名をとって龍岡城と称した。築城に当たっては、稜堡式築城法を用い、いわゆる五稜郭が成立した。箱館五稜郭址とともに、わが国城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭である。 『現地案内看板より本文抜粋』

高島城
続100名城(最終訪城日:平成19年9月25日)
 
■所在地:長野県諏訪市 ■築城年:文禄元年(1592)
■別  名:浮城、島崎城 ■築城主:日根野高吉

復元 天守

復元 隅櫓

復元 本丸門
高島城は天正18年(1590)新しく領主となった豊臣秀吉の部将、日根野織部正高吉によって翌天正19年(1591)に設計され、文禄元年(1592)着工、慶長3年(1598)完成した。この高島城は、諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐり、濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城の石垣に迫り、「諏訪の浮城」と呼ばれ慶長6年(1601)旧領諏訪に帰った初代藩主諏訪頼水から10代藩主諏訪忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇ってきた。明治4年(1871)廃藩置県となり、明治8年(1875)5月、高島城址は「高島公園」として、一般に開放された。 『現地案内看板より本文抜粋』

戻 る