山梨県の百名城・続百名城
甲府城 100名城(最終訪城日:平成28年10月15日) |
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天守台跡 |
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甲府城は慶長5年(1600)頃に浅野氏により完成したと考えられます。関ヶ原の戦い後は徳川義直、忠長、綱豊ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永2年(1705)には、徳川家以外の大名として武川衆出身の柳沢吉保・吉里親子が領主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。柳沢氏の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
武田氏館跡 100名城(最終訪城日:平成28年10月15日) |
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躑躅ヶ崎館跡(現 武田神社) |
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武田氏館は躑躅ヶ崎館とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16年(1519)に石和からこの地に館を移したことから始まります。その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年にわたり、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
新府城 続100名城(最終訪城日:平成29年11月12日) |
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大手丸馬出と三日月堀跡 |
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新府城は武田勝頼によって天正9年(1581)2月に築城着手され、その完成したのは同年12月であった。それまで甲府躑躅崎の館城にあった勝頼は四囲の情勢から考えてこの天険を利用する以外に方策がなかったのである。しかし時すでに遅く天正10年(1582)3月3日織田軍の侵攻を前に自ら城を焼いて東方、郡内領岩殿城を指して落ちた悲劇の城跡である。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
要害山城 続100名城(最終訪城日:令和5年10月22日) |
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中腹の枡形虎口跡 |
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要害城は、永正17年(1520)に武田信虎が築いた山城です。居館と政庁を兼ねた武田氏館に対し、緊急時に立てこもる詰の城としての役割をになってきました。信虎・信玄・勝頼と3代にわたって使用され、武田氏滅亡後も修築・再整備されました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |