佐賀県の百名城・続百名城
名護屋城 100名城(最終訪城日:平成19年12月27日) |
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天守台跡 |
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名護屋城は朝鮮出兵の出撃基地とするため、豊臣秀吉の命により、島津氏をはじめ九州の諸大名が動員されて東松浦半島の突端近くに築かれた平山城です。秀吉の御座所としてふさわしい規模をもち、大坂城や聚楽第に匹敵する壮麗さを誇りました。城の周辺には、全国から参集した大名の陣屋が約130も築かれました。秀吉の死により、慶長の役が終局を迎えると、歴史的役割を終え、建物は破局されるとともに、用材は唐津城の築造に流用されました。 『小学館 週刊名城をゆく49 2006 より本文抜粋』 |
吉野ケ里遺跡 100名城(最終訪城日:平成19年12月28日) |
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推定復元 北内郭の建物群 |
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吉野ヶ里遺跡の存在は、大正時代の末期から昭和のはじめには地元佐賀県や福岡県の研究者に注目され学術雑誌などに概要が報告されていました。1986年工業団地計画による発掘調査が開始され、1989年大規模な環濠集落や墳丘墓が一躍全国的に注目を集める弥生時代の遺跡となりました。吉野ヶ里遺跡では弥生時代の初めに人が住み始めたと考えられており、この頃から集落を取り囲む大規模な環濠が掘削されています。弥生前期には2.5haの規模であった吉野ヶ里は、弥生中期には20ha規模に発展し、弥生後期にはついに40haを超す国内最大規模の環濠集落に発展します。 『吉野ヶ里遺跡パンフレットより本文抜粋』 |
佐賀城 続100名城(最終訪城日:平成19年12月28日) |
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現存 鯱の門 |
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佐賀城は佐賀平野のほぼ中央に位置し、戦国期に西九州を席巻した龍造寺氏が本拠としていた村中城の地に立つ平城です。龍造寺氏の衰退を受けて、重臣鍋島直茂が領主となり、旧主の村中城を拡張・整備し、城名も改めました。直茂の子勝茂が初代佐賀藩主となり、慶長16年(1611)に総普請を完成し本丸に入りました。明治7年(1874)に起こった士族の乱「佐賀戦争(佐賀の乱)」では、激戦の舞台となり、鯱の門の扉には弾痕が残っています。 『「小学館 週刊名城をゆく49 2006発行」 より本文抜粋』 |
基肄城 未訪城 続100名城(最終訪城日:) |
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唐津城 未訪城 続100名城(最終訪城日:) |
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