徳島県の百名城・続百名城
徳島城 100名城(最終訪城日:平成27年12月26日) |
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山麓の大手門跡 |
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徳島城は、天正13年(1585)に阿波国の領主となった蜂須賀家政によって建設されました。築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力しました。徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川に囲まれ、東は堀を設けた自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸、南麓の御殿、西麓には隠居した藩主等の済んだ西の丸からなる平山城でした。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
勝瑞城 続100名城(最終訪城日:平成27年12月28日) |
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勝瑞城址の堀跡 |
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勝瑞は、室町時代に阿波守護細川氏によって守護所が置かれた地です。その後に阿波の実権を握った三好氏もまた当地を本拠としました。勝瑞城館跡は、三好氏の居館跡と推定されており、発掘調査では16世紀中葉頃から徐々に拡張し、最終的には幅10mを超す大規模な濠で区画された複数の曲輪からなる城館の姿が推定されています。基本的に平和な日々が続いた中世の勝瑞でしたが、天正期に入ると一気に激動の時代となり、この頃に勝瑞の防御のために土塁を持つ曲輪、勝瑞城跡が築かれます。天正10年(1582)8月、勝瑞へ攻め込んできた土佐の長宗我部氏との決戦である中富川の合戦で大敗を喫した三好勢は一ヶ月ほど勝瑞城館に籠城しましたが、城主の三好(十河)存保は持ちこたえることができず、開城して讃岐へ退きました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
一宮城 続100名城(最終訪城日:平成27年12月27日) |
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本丸跡の石垣 |
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一宮城は暦応元年(1338)、小笠原(一宮)長宗による築城とされ、鮎喰川の清流を前に臨み、背後には重畳たる山岳を控える県内最大級の山城跡である。一宮氏の山城として整備されたが、天正10年(1582)、長宗我部元親の侵攻を受け、また天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐時には、豊臣秀吉と長宗我部元親との攻防の舞台となった。同年、豊臣秀吉の命により阿波に封ぜられた蜂須賀家政は一宮城を居城としたが、翌年、徳島城に移ると徳島城の支城として、家臣の益田長行に守城させた。元和元年(1615)の徳川幕府の一国一城令によって、寛永15年(1638)廃城となった。 『現地案内看板より本文抜粋』 |