福島県の百名城・続百名城
二本松城 100名城(最終訪城日:平成28年11月20日) |
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![]() 復元 本丸石垣 |
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二本松城は、室町時代中期に奥州管領を命じられた畠山満泰が築造し、以後畠山氏歴代の居城として140年余り続きました。その後、天正14年(1586)伊達政宗の執拗な攻撃に遭い、落城しました。豊臣時代になると、二本松城は会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。その後、徳川時代初期も会津領として、蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。二本松藩が誕生した寛永20年(1643)、初代藩主丹羽光重が10万700石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として220有余年続きました。戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応4年(1868)7月29日に落城しました。 『二本松城パンフレットより本文抜粋』 |
会津若松城 100名城(最終訪城日:令和6年10月14日) |
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![]() 復興 天守閣 |
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南北朝の頃、葦名氏によって黒川城が築かれたが、文禄元年(1592)蒲生氏郷が7層の天守閣を建て外郭を築き、黒川の地を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名しました。その後、城主は上杉から再び蒲生そして加藤となり、寛永16年(1639)加藤明成が天守閣を5層にし、北出丸、西出丸を増築して現在の城跡を完成させています。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
白河小峰城 100名城(最終訪城日:平成28年11月21日) |
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![]() 復元 三重櫓と前御門 |
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小峰城は結城親朝が14世紀頃、小峰ヶ岡に城を構えたのが始めと言われています。江戸幕府成立後、白河地域が会津領であった頃に整備された城下町を、寛永4年(1627)に初代白河藩主となった丹羽長重が、大改修を行い、現代につながる白河の町の基礎が出来上がりました。その後、榊原・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部の6家19代が居城としましたが、慶応2年(1866)阿部家が棚倉へ移されると小峰城は空き城となり、白河は幕領、新政府領と変遷します。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
三春城 続100名城(最終訪城日:平成28年11月20日) |
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![]() 二の丸からの本丸遠景 |
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永正元年(1504)田村義顕が築城したと伝えらえていますが、南北朝時代には城館として機能していたようです。天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置きにより田村氏は改易されました。三春は一旦伊達領になりますが、翌年には会津に入った蒲生氏郷の領地に組み入れられ、若松城の支城のひとつになります。上杉景勝が会津城主だった慶長3年から6年(1598〜1601)前後は、三春城ではなく郡山市田村町の守山城が使用されました。そして寛永4年(1627)に蒲生忠郷が没すると、替って会津に入った加藤嘉明の三男明利、翌年には嘉明の娘の子である松下長綱が3万石の三春藩主となります。寛永21年(1644)に松下氏が改易されると、翌正保2年(1645)、秋田俊季が5万5千石で三春藩主となり、明治維新まで秋田氏11代の居城となりました。 『三春城パンフレットより本文抜粋』 |
向羽黒山城 続100名城(最終訪城日:平成25年11月18日) |
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![]() 一の曲輪跡 |
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向羽黒山城は永禄4年(1561)、黒川城を本拠とし主に会津地域を支配していた葦名盛氏によって築城された城跡です。葦名盛氏は家督を息子の盛興に譲り、隠居の城として向羽黒山城を築城したと記されています。天正3年(1575)に盛興がなくなったため盛氏は再び黒川城に戻り、向羽黒山城は廃城になったとされています。その後会津を支配した伊達氏や蒲生氏、上杉氏の時代にも城として機能していた可能性は十分に考えられ、城の設備がかなり厳重で、何らかの手を加えられているようです。 『現地案内看板より本文抜粋』 |