北海道の百名城・続百名城
根室半島チャシ跡群 100名城(最終訪城日:令和5年8月23日) |
|
|||||
ヲンネモトチャシ跡を遠望 |
|
|||||
ヲンネモトチャシ跡は、温根元湾の西岸に突出した岬の上に盛土を行い、壕で区画し、盛土頂上に平坦面を2ヶ所作り出しています。温根元漁港から側面を見ると「お供え餅」のように見え、形の良好なチャシ跡として知られています。近くには長さ12mのオホーツク文化期の大きな竪穴もあり、古くからこの湾が利用されてきました。 ノツカマフ1号チャシ跡は半円系の壕が2つ連結して構成されています。壕の幅は約5m、深さは2〜3mと深く、壕の一部に土橋と思われる高まりがみられます。ノツカマフ2号チャシは半円形の壕が1ヶ所巡り、幅2〜3mで深さ50cm程度と壕が浅くつくられています。チャシ跡からは北方領土の国後島や歯舞群島を見渡すことができます。 |
五稜郭 100名城(最終訪城日:平成29年8月28日) |
|
|||||
五稜郭タワーからの遠景 |
|
|||||
五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、中世ヨ−ロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡とよばれる5つの突角が星形の五角形上に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明示2年5月に集結する箱館戦争の舞台となりました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
松前城 100名城(最終訪城日:平成29年8月27日) |
|
|||||
復興天守閣と現存本丸御門 |
|
|||||
福山城は、松前城とも呼ばれ、北辺警備の重要性から幕府が特旨をもって嘉永2年(1849)松前家17世崇廣に築城を命じ高崎藩の兵学者市川一学の設計により安政元年(1854)完成した。城郭の規模は本丸、二の丸、三の丸に分かれ三層櫓1、二層櫓3、城門16、砲台7からなっている。構造形式は平城、わが国最北に位置し最後の遺構として史跡に指定されている。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
志苔館 続100名城(最終訪城日:平成29年8月26日) |
|
|||||
本丸跡の建物群跡 |
|
|||||
志苔館は、函館市の中心部から約9km離れた標高25m程の海岸段丘南端部に位置している。松前藩の史書「新羅之記録」によると、室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。康正2年(1456)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたといわれている。戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正9年(1512)4月16日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
上ノ国勝山館 続100名城(最終訪城日:平成29年8月27日) |
|
|||||
勝山城址の建物群跡 |
|
|||||
勝山館跡は、松前藩祖の武田信広が1470年頃に天の川左岸の標高100mの丘陵に築いた山城です。また勝山館跡は武田(蠣崎)氏が「松前」に進出し、さらに豊臣秀吉・徳川家康の公認を得て、安東氏から独立を果たした16世紀末〜17世紀初頃まで機能していました。 『勝山城跡観光パンフレットより本文抜粋』 |