岩手県の百名城・続百名城
盛岡城 100名城(最終訪城日:平成24年8月24日) |
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腰曲輪隅櫓跡 |
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盛岡城は、三戸から不来方に居城の移転を決定した南部信直が、慶長2年(1597)に嫡子利直を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪としています。築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。『現地案内看板より本文抜粋』 |
九戸城 続100名城(最終訪城日:平成24年8月25日) |
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本丸虎口跡 |
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九戸城を九戸氏が居城としたことが文献に最初に現れるのは九戸政実より4代前の九戸光政の頃(明応年間)です。天正19年(1591)、城主九戸政実は南部26代当主の座に弟を擁し、田子信直と奥州南部を二分して争いました。信直が天下人秀吉の領地安堵をとりつけたことから、天下の謀反人として秀吉の奥州仕置軍6万余を敵に回してこの城に立てこもり戦う事になりましたが、仕置軍の策謀により落城しました。その後、秀吉の命で仕置軍の軍監であった蒲生氏郷がこの城を普請し南部信直に渡し、信直は三戸城より移り福岡城と命名、盛岡城の築城が成るまで南部氏の本城として機能しました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |