山形県の百名城・続百名城
山形城 100名城(最終訪城日:平成28年8月2日) |
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復元 本丸一文字門 |
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延文元年(1356)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼が築城したと伝えられ、現在の城郭は11代城主最上義光が築いたものが原型とされています。本丸、二の丸、三の丸の3重の堀と土塁を持つ輪郭式の全国有数規模の平城で、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れたことから「霞ケ城」とも呼ばれていました。 『霞城公園パンフレットより本文抜粋』 |
鶴ヶ岡城 続100名城(最終訪城日:令和4年8月10日) |
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水堀跡 |
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鶴ヶ岡城は古くは大宝寺城とよばれ鎌倉期以来戦国期まで庄内に君臨した武藤氏の居城であった。天文年間(1533頃)兵火のため武藤氏は大山の尾浦城に居を移し当城はその枝城となった。天正15年(1587)武藤氏が滅び庄内は越後の上杉氏次いで慶長6年(1601)山形の最上義光の支配するところとなる。慶長8年(1603)大宝寺城は義光の隠居場として修復され鶴ヶ岡城と改称する。元和8年(1622)最上氏が領地没収となり、その後信州松代より酒井忠勝が入国、庄内14万石の居城として整備拡充された。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
米沢城 続100名城(最終訪城日:平成28年8月4日) |
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米沢城の内堀跡 |
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伊達氏・上杉氏の居城で、松岬城・舞鶴城とも呼ばれる。鎌倉時代に地頭・長井時広が居館を置いたと伝えられる。その後、長井氏に替わり伊達氏が置賜地方を領し、天文17年(1548)には伊達晴宗が本拠を米沢に移し、輝宗・政宗の三代で米沢城下が整備された。天正19年(1591)、政宗は豊臣秀吉の命で岩出山城に入り、米沢城には蒲生氏郷の家臣・蒲生郷安が入るが、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津120万石に入封、米沢城には重臣・直江兼続が配された。慶長6年(1601)、前年の関ケ原の戦いで西軍方についた上杉景勝が米沢30万石に減封され米沢城に入城、城下の拡張整備に着手した。寛文4年(1664)に後継問題で米沢藩は15万石となるが、米沢城は約270年間にわたり上杉氏13代の居城として明治維新を迎えた。 『現地案内看板より本文抜粋』 |