愛知県の百名城・続百名城
犬山城 100名城(最終訪城日:令和5年8月16日) |
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![]() 現存 天守 |
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犬山城は天文6年(1537)現在の位置に天守が造営され、織田信康が城主となったが天文16年(1547)岐阜の稲葉山城で戦死、その子織田信清が城主となった。その後何代か城主がかわり文禄4年(1595)石川光吉が守った。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後小笠原吉次が入城した。この石川、小笠原両氏の手によって、近世の犬山城が完成された。その後、平岩親吉のあと元和3年(1617)成瀬正成が城主となってからは成瀬氏が継いで明治に至った。明治4年廃藩置県で廃城となり天守を除くほかは殆ど取りこわされた。同24年濃尾震災で天守の東、南と西北の付櫓・城門がこわされたので、同28年旧犬山藩主正肥に城を修理するという条件で譲られ唯一の個人所有となった。平成16年からは財団法人が所有する唯一の城となっている。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
名古屋城 100名城(最終訪城日:令和元年8月28日) |
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![]() 復元 天守と小天守(本丸御殿復元前の写真) |
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名古屋城は、関ヶ原の合戦後、江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また、大坂(現大阪)方への備えとして、清須(現清洲町)から名古屋へ遷府を決定し、加藤清正・福島正則・前田利光等北国・西国の諸大名20名に普請(土木工事)を命じ、天守閣や諸櫓の作事(建築工事)は、慶長17年(1612)にほぼ完成した代表的な平城です。名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は、江戸幕府を開いた徳川家康の大九男です。慶長14年(1609)、家康自ら築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され、17年に大小の天守や各櫓が完成しました。慶長20年(1615)に本丸御殿、元和3年(1617)には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。 『名古屋城配布パンフレットより本文抜粋』 |
岡崎城 100名城(最終訪城日:平成28年11月12日) |
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![]() 復元 天守 |
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15世紀中頃、西郷弾正左衛門頼嗣が現在の岡崎城の位置に初めて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し、本格的な岡崎城を構えました。天文11年(1542)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生しました。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松井松平氏、本多氏と、歴代譜代大名が城主となりました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
長篠城 100名城(最終訪城日:平成29年1月5日) |
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![]() 本丸 空堀跡 |
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1508年(永正5)今川氏親に属する菅沼元成が長篠城を築きました。1571年(元亀2)長篠城は武田軍(秋山、天野)に攻められて降参し武田信玄に属します。1573年(元亀4〜天正元)野田城を落とした信玄は長篠城で休養、三河から伊那路へかかるあたりで死去。徳川家康は長篠城を奪回し、城主菅沼正貞は家康に内応したとして武田軍に捕らえられました。武田軍に属していた奥平貞能、貞昌父子は離脱して徳川軍へ投じ、1575年(天正3)2月、徳川家康は長篠城を奥平貞昌に与えました。貞昌は急ぎ城郭の修理補強を行い、5月には武田勝頼が来襲しましたが、猛攻に耐えて家康の期待に応えました。 『長篠城址史跡保存館しおりより本文抜粋』 |
小牧山城 続100名城(最終訪城日:令和2年12月6日) |
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![]() 本丸 天守台石垣(発掘調査写真) |
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織田信長は永禄6年(1563)、美濃攻略のため清州城から小牧山へ移り、山全体を城域とし、多数の曲輪を設けました。要所には重臣の館を置き、南方に大手道を開き、南西中腹には馬場を設けたといわれます。また小牧山南麓から西麓に城下町を形成しました。しかし永禄10年(1567)に美濃の斎藤龍興を攻略して岐阜城へ移り、小牧山城は廃城となりました。天正12年(1584)、豊臣秀吉と信長の二男信雄・徳川家康連合軍とが小牧山で対陣し、小牧市北部に陣を敷いた秀吉に対して、家康軍は小牧山城を主陣地とし、小牧山東方にも砦を築いて対抗し持久戦となりました。現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつ、新たに土塁や堀を築くなどして改修された家康軍の陣城の跡です。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
古宮城 続100名城(最終訪城日:平成29年1月5日) |
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![]() 三重空堀跡 |
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古宮城は武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信房に命じ元亀2年(1571)に築城したと伝わります。城址は南北約200m、東西約250mの独立した小山全体からなっています。古宮城は南東北の三面が湿地になっており、西方は塞之神城に通じ主要部が東西に分かれた一部別郭式の要害堅固な城でした。愛知県内唯一の甲州流築城といわれています。要害を誇った古宮城も天正元年(1573)に奥平・徳川連合軍の手によって落城しています。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
吉田城 続100名城(最終訪城日:平成29年11月23日) |
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![]() 模擬 鉄櫓 |
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吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし輝政は在城10年で播磨姫路に入封され、のちに入封した大名は譜代ながら少録のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。 『現地案内看板より本文抜粋』 |