三重県の百名城・続百名城
伊賀上野城 100名城(最終訪城日:平成25年7月28日) |
|
|||||
復興 天守と小天守 |
|
|||||
天正13年(1585)、伊賀国を領した筒井定次が三層の天守を築き、北に表門を構えた。慶長13年(1608)、筒井定次が失政を理由に改易された後、藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治城から移り、自ら縄張を指図、本丸を30mの高石垣で囲み、筒井古城を大拡張しました。しかし竣工直前の五層大天守は、慶長17年(1612)の暴風雨で倒壊し、そのうち大阪夏の陣で豊臣方が滅亡したので城普請は中止され、城代家老が執政することとなりました。 『伊賀上野城パンフレットより本文抜粋』 |
松阪城 100名城(最終訪城日:令和4年5月28日) |
|
|||||
表門跡 |
|
|||||
松阪城は蒲生氏郷が天正16年(1588)この四五百森に構築した平山城である。氏郷が会津若松へ移封後、天正19年(1591)服部一忠、文禄4年(1595)古田重勝と城主が変わり、元和5年(1619)紀州藩領となって、勢州領18万石を統轄する城代が置かれた。城は北を大手、南を搦手とし、本丸・二の丸・隠居丸・希代丸・出丸・三の丸より成り、本丸・二の丸・希代丸・隠居丸・出丸には高い石垣を築き、三の丸の外郭に水掘をめぐらせていた。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
津城 続100名城(最終訪城日:令和4年5月28日) |
|
|||||
模擬 三重櫓 |
|
|||||
津城は、織田信長の弟の信包によって築城された。天正8年(1580)に五層の天守閣が完成し、それまで柳山にあった町屋が移されて城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ケ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受け、津の町は戦火にあい、荒廃した。慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、本丸の北側を広げて石垣を高くして、両端に櫓を新築したり内堀・外堀とも整備したりするなど大改修を加えた。 『現地案内より本文抜粋』 |
田丸城 続100名城(最終訪城日:平成30年8月11日) |
|
|||||
天守台跡 |
|
|||||
田丸城は延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野還幸のとき北畠親房がこれに呼応挙兵するため南勢の拠点として築いたものです。神領を領有する南北両朝はしばしばこの城を中心に争奪戦を繰り返しましたが、合一の後は北畠氏一族がここに居城、田丸御所となりました。室町末期、織田信長が伊勢侵攻の時、次男信雄を伊勢国司北畠氏の養嗣子として和睦し、天正3年(1575)信雄は大河内城から田丸城に移りました。この時田丸城を大修築し、3層の天守閣を築きましたが火災により焼失したため、松ヶ根城に移りました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
赤木城 続100名城(最終訪城日:平成27年4月27日) |
|
|||||
赤木城跡遠望 |
|
|||||
赤木城の築城年代については、「紀伊風土記」には天正年間、藤堂高虎と羽田長門守の両人が北山代官の時に築板と記されている。また「倉谷家文書」には天正16年(1588)豊臣秀長の北山攻めの後、築城したとある。藤堂高虎は天正13年(1585)の紀州攻めの際、北山入りし、文禄4年(1595)四国伊予三郡を与えらるまでの11年間、北山付近に在居し、この間2度の北山の陣で一揆方を成敗したり、北山材の切り出しを行っているので、この頃に現在の城郭に整備したものと考えられる。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
北畠氏館 未訪城 続100名城(最終訪城日:) |
|
|||||
|
||||||