静岡県の百名城・続百名城
山中城 100名城(最終訪城日:平成26年11月24日) |
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西の丸跡の障子堀 |
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山中城は、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558〜1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城です。箱根山西麓の標高580mに位置する自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていましたが、戦国時代末期の天正18年(1590)3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられています。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
駿府城 100名城(最終訪城日:平成30年10月21日) |
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復元 巽櫓と東御門 |
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徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主となりました。その後、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三度駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
掛川城 100名城(最終訪城日:令和5年6月18日) |
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復元 天守 |
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掛川城は、戦国時代の文明年間(1469〜86)、駿河守護大名今川義忠が遠江支配の拠点として、重臣朝比奈泰煕に築かせたといわれています。桶狭間の戦(1560)で今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1568)義元の子氏真は武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠もりました。翌年、徳川家康は、掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦によって開城させました。家康領有後、重臣石川家成が入城し、甲斐からの武田氏侵攻の防御の拠点となりました。天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東に移すと、家康旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は多くの戦乱により傷んだ城の改築や城下の整備を行うとともに、この時初めて天守閣をつくりました。江戸時代には、掛川城は徳川親藩の松平氏や、江戸城を築いた太田道灌の子孫太田氏など11家26代の居城として栄えました。 『掛川城しおりより本文抜粋』 |
諏訪原城 続100名城(最終訪城日:令和5年6月18日) |
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二の曲輪中馬出跡 |
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諏訪原城は、天正元年(1573)武田勝頼が、東海道沿いの牧ノ原台地上に普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと「甲陽軍鑑」等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、「諏訪原城」の名がついたと言われています。諏訪原城は、大井川を境として駿河から遠江に入る交通・軍事上で重要な場所にあり、当時徳川方だった高天神城攻略のための陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担いました。天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち、「牧野城(牧野原城)」と改名され、武田方となった高天神城を攻略するための城として活用されました。天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
高天神城 続100名城(最終訪城日:平成30年2月18日) |
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堂の尾曲輪の空堀跡 |
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高天神城は室町時代、駿河の今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激しい攻防の舞台となりました。元亀2年(1574)には、武田信玄が徳川方御なった高天神城を攻めており、このときは大規模な戦闘は行われませんでした。天正2年には(1574)5月には、信玄の息子勝頼が当城に攻め寄せ、徳川方の城主小笠原与八郎長忠(氏助)は1ケ月ほどの籠城と激しい戦闘の末、開城し武田方に降っています。その後武田方となった高天神城は徳川家康の攻撃をたびたび受けることとなります。天正3年(1575)5月の長篠の戦以降、勢力が衰えた武田氏は当城を支えきれず、天正9年(1581)3月22日、ついに落城しました。高天神城はその後すぐに廃城となり、現在に至っています。 『現地案内看板より本文抜粋』 |
浜松城 続100名城(最終訪城日:令和3年7月24日) |
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復興 天守 |
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徳川家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から遠江に入り、各地を転戦して引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めた。家康は29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城に入るまで、在城17年に及んでいる。浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉晴によって天守が築かれたといわれているが、江戸に幕府が開かれてからは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩政約260年の間に再任を含めて25代の城主が在城した。 『浜松城天守閣しおりより本文抜粋』 |
興国寺城 未訪城 続100名城(最終訪城日:) |
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