三遠山の一角 東濃屈指の技巧派・土造りの城
明 知 城 
■場所:恵那市明智町 ■別名:白鷹城 ■築城年:宝治元年(1247)
■築城主:遠山景重 ■城形式:山城 ■標高:528m  ■比高:70m
■城遺構:畝状空堀・竪堀・堀切・土塁・土橋・虎口・井戸

明知城は岩村・苗木と共に三遠山と呼ばれた明知遠山家の居城です。宝治元年(1247)源頼朝の重臣、加藤次景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山家累代の居城となりました。天正2年(1574)武田勝頼が2万の大軍をもって東濃の諸城を攻略し、三河、尾張、遠江、駿河への拠点であった明知城を目指しました。信長は明知城を救援するため、兵3万を率い明知城の西方鶴岡山に布陣するも、動くことができず兵を引いたため、その後、援軍を失った明知城は落城しました。落城の詳細については織田方の軍記物『信長公記』と武田方の軍記物『甲陽軍艦』では違った記述がみられます。また明知城は武田軍によって落城した後、美濃・三河侵攻の拠点として改築が行われたと云われています。天正3年(1575)、織田信忠を総大将とする織田勢は武田方に占拠された諸城を次々に奪回し、明知城も再び織田方の城となりました。本能寺の変を経て明知城は森長可の支配となり、森氏転封後は田丸氏が岩村城に入城したことにより明知城も田丸方となりました。関ヶ原合戦により、明知城は再び遠山利景のものとなりましたが、山上の城に替わって麓に陣屋を築いたことで、城は政庁としての機能を終えました。

【戦国〜江戸時代の歴代城主】
→遠山景行→遠山一行→武田氏支配→遠山一行→遠山利景→関左門(森氏城代)→田丸氏支配→遠山利景→遠山方景→遠山長景
→遠山伊次→遠山伊清→遠山景昵→遠山景達→遠山伊氏→遠山景祥→遠山景珍→遠山景高→遠山景福  (明治維新)
  ※遠山一行→遠山利景との城主交替時期については異説があるかもしれません
  ※方景の時に城を配して陣屋を置く。当主は江戸在府のため陣屋は代官の村上氏が代々統治

@畝状竪堀群(竪堀・横堀・堀切などの堀跡)
明知城は天険の地形を巧みに利用した山城址です。石垣の城郭ではなく土盛りの砦として大小23箇所もの保塁を配備した様は、遠山三家の城(岩村城、苗木城、明知城)の中でも一味違った面白みがあります。これらの遺構が原型のまま残っている状態は全国的に見ても少ないのだそうです。また東濃地方では非常に珍しい畝状竪堀が使用されている城址でもあります。このことは武田家による明知城の支配と関係があるのかもしれません。竪堀、横堀、畝状阻塁が見事に合わさった技巧的な城郭構造は必見です。
  
出丸下の畝状竪堀群と横堀 搦手側の登城口(竪堀を利用)
畝状竪堀群と本丸の切岸 本丸下の大規模な畝状竪堀群
切岸と土塁に挟まれた登城道(横堀) 出丸下の竪堀跡 本丸下の堀切(切通し)跡
搦手口の空堀(横堀) 城内の空堀跡 本丸下の武者走り

A城内で見られる平坦地(曲輪跡)
かつては城址の所々に砦跡を示すいくつかの案内看板が立てられていました。○○砦跡と表示されていたこれらの看板の名称はおそらく後世に命名されたものであると思われるために、本格的な整備に伴って多くが撤去されたようです。明知城の縄張図を見ると、これらの砦跡と示されていた場所には平坦面などが見られるため、小規模な曲輪や腰曲輪として機能していたようです。中には空堀の外側に存在する平坦地もあり、これらは城の改修や城域の見直しによって切り捨てられた曲輪群なのかもしれません。かつて東の丸跡という看板が立っていた場所には内部を土塁で仕切った貯水池跡があります。現在、水は貯められていませんが、当時は城址の東13丁にある広明の団子杉を水源として丸太樋を使ってこの水源地へ通していたそうです。
伝天神西砦址 伝秋葉山砦址
万ヶ洞天神(天神西砦?) 旧名:北曲輪跡 旧名:秋葉山砦跡
伝搦手砦址 伝大手門東曲輪址 伝大手門東曲輪址
旧名:搦手砦跡 大手門東砦跡 旧名:天神砦跡
伝東の丸砦址
貯水池跡 空堀で孤立した曲輪跡 旧名:東の丸南砦跡
伝三の丸下第二砦址
旧名:二の丸東砦跡 旧名:三の丸下第二砦跡 旧名:出丸下砦跡

B本丸・二の丸・帯曲輪
明知城は土盛りの城であるためその縄張りは複雑です。城の最高所が本丸となっており、本丸の一段下には二の丸、帯曲輪が広がっています。二の丸は本丸の東下にあり東西十七間、南北十一間となっており北側と東側は絶壁になっています。本丸の周囲には帯曲輪が取り巻き、帯曲輪の西側には一段低く虎口曲輪が設けられています。
本丸跡 帯曲輪から見上げた本丸跡(切岸)
二の丸跡 帯曲輪跡と本丸の切岸 帯曲輪西側の虎口曲輪跡

C出 丸
本丸の南方面に位置する出丸は東西十七間、西北十四間となっており、城塞の本拠として今も石垣門の跡が残っています。そして水の口砦を眼下にして本丸以上に重要視されたところです。三方は急峻な切岸となっており、猿落しともいわれるその絶壁は猿も登れずに引き返すという山城防塞独特の形を呈しています。主郭以上に堅固に守られている出丸は城主と並び立つ有力者が居住していたのではないかとも推測されています。
出丸跡の切岸 帯曲輪から出丸への連絡通路(土橋)
出丸跡の石塁 出丸内部 伝 旗立岩(もしくは手水鉢?)

C明知陣屋址(代官所)
関ヶ原合戦で徳川家康の下で戦い旧領に復帰した明知遠山家は約6500石の旗本として存続します。元和元年(1615)になると旗本二代領主遠山方景は江戸に邸宅が与えられ、その結果明知城は廃城となり、代わりに城山下の大手門近くに新たに陣屋がおかれることになりました。陣屋は村上氏が代官として統治しました。現在でも堀跡や土蔵跡などが村上氏代官屋敷の面影をとどめています。 陣屋址付近の池(堀か?)
明知陣屋の水堀址と土居

<明知城へのアクセス>
駅から徒歩 明知鉄道明智駅前から延びる道を南へまっすぐ進むと八王子神社に突き当たりますので、ここを右折し100m程進むと細い石畳の道と交差します。石畳の道を左折後、突き当りを右折し、さらに進むと前方に大正ロマン館が見えてきます。大正ロマン館前の道を右折すると大正ロマン館の裏手にある茅葺の古民家(旧三宅家)の前を通り過ぎ畑に出ます。畑を越えた先が明知城の万ヶ洞天神(天神西砦)となります。または大正ロマン館前の道を左折すると明知陣屋跡(代官所)に出ますので、明知陣屋跡裏の土手を登ると稲荷神社の小さな鳥居がたっています。この横が大手道の登城口となっています
 
車での場合
明知鉄道明智駅から見て国道363号線駅前交差点を右折するとすぐ左手に観光駐車場がありますので、ここに駐車し、大正ロマン館の裏手にある登城口を目指して歩いていきます。または明智駅前の国道363号を岩村方面に向かい、途中の市場町交差点で右折し、県道33号線に入ります。1km程直進すると右手に明知城跡ののぼり旗が立ててありますので、ここを右折した突き当りが搦手側駐車場となります。5台程は駐車できます。

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