近世三大山城&日本100名城 東濃で最も有名な女城主の城
岩 村 城 
■場所:恵那市岩村町城山 ■別名:霧ヶ城 ■築城年:文治元年(1185)
■築城主:遠山景朝 ■城形式:山城 ■標高:718m  ■比高:140m
■城遺構:曲輪・堀切・石垣・虎口・井戸・櫓台

城の創業は源頼朝の重臣加藤景廉が文治元年(1185年・一説に建久6年)に遠山荘を賜ったのに始まります。景廉の長男景朝は遠山氏を名乗り、以来遠山氏が代々居城し、東濃地方から信州の一部まで勢力下としました。天正元年(1573年)に武田信玄の臣秋山虎繁が岩村城を奪取して入城、しかし天正3年に織田軍に攻略されて川尻鎮吉が城主となり、その後は団忠正・森長可・森忠政・田丸直昌と目まぐるしく城主が交替します。関ヶ原役以後は慶長6年(1601年)に大給松平本家の松平家乗が城主となり2代、寛永15年(1638年)に丹羽氏信が入り5代、元禄15年(1702年)に大給分家松平乗紀が入封、7代目乗命の時に明治維新となり、藩籍を奉還しました。現在の岩村城は、近世日本三大山城として全国的な知名度を誇り、県内屈指の石垣を保有する名城です。岐阜県からは岐阜城と並んで日本百名城に選出されました。かつて藩主邸跡があった山麓には太鼓門や藩校知新館正門などの建物が復元、移築されるなど城郭遺構として全体的に整備されています。

【戦国〜江戸時代の歴代城主】
→遠山景前→遠山景任→御坊丸(or 景任室)→秋山虎繁→川尻秀隆→団忠正→各務兵庫(森家城代)→田丸直昌→松平家乗
→松平乗寿→丹羽氏信→丹羽氏定→丹羽氏純→丹羽氏明→丹羽氏音→松平乗紀→松平乗賢→松平乗薀→松平乗保→松平乗美
→松平乗喬→松平乗命  (明治維新)    
        ※森蘭丸が城主であったとされている文献もありますが、管理人は団忠正をこの時期の城主として扱っています

 
@山麓の藩主邸跡
復元太鼓櫓 茶室
復興 太鼓櫓
佐藤一斎像
茶室 茶室 知新館
茶室跡 藩主邸跡の埋門跡 藩校知新館門跡
慶長六年(1601)田丸具忠追放のあとを受けて松平家乗が岩村城二万石の領主として入封してきました。その頃の城はというと軍事的機能の影が薄れ藩政治の中核になっていた時代です。従って山城の整備は怠ることがなかったのですが、政治に山城は不便が多かったため山麓の城主館が重視され、これを拡張充実することになり、壮大な藩主邸が設けられました。藩主邸は大手登城口の南側山麓高台に、上下二段石垣に囲まれた敷地を造成し、門塀を巡らし、庭のある御殿をはじめ、台所・茶亭のほか、役人詰所・番所・諸蔵庫・長屋・物見櫓・太鼓櫓などの建物がありました。

A登城道 藤坂と土岐坂
藤坂の石畳 初門跡 初門跡
藤坂の石畳(登城口) 伝 初門跡 一の門跡下の石畳
藤坂は険しい急坂で岩村城守備の前衛の役を持ち、登城口から一ノ門に至る約300mの間を言います。途中で大きく左折しますが、この地点を初門または假御門と称していました。戦争になると、ただちに門を構え、柵をめぐらして強固な防衛陣地としましたが、この初門の地点から城下街を一望にすることができるので敵の動静も知ることができました。平時の藤坂は登城坂にすぎませんが戦争になると初門をはじめとして、坂の途中に何カ所も陣をつくり防御したので容易に進むことができなかったようです。藤坂の名は伝説として岩村城を創築した加藤景廉の妻、重の井が紀州から藤の実をとりよせて植えたことから始まったと云われ、藤にまつわる幾つかの伝説があります。
 
一の門址 一の門址 土岐門址
一の門跡 土岐坂の登城道 土岐門跡
土岐門址 土岐門址 土岐門址
一の門 多門櫓跡の石垣 一の門跡 左側の侍屋敷跡 一の門跡 右側の侍屋敷跡
藤坂と土岐坂を区切っていたのが一ノ門で、ここからが岩村城の本城となります。一ノ門は櫓門(二階建)で左側に番所があり、平時でも監視の番人がいて出入りする者を厳重に調査してから通していました。続いて多門(石垣の上に設けた長屋で城壁を兼ねた)があり、常に武士が詰めていました。一ノ門は岩村城守備の第一線で櫓門の上から城下街を一望に出来ます。町の動静については昼夜を問わず兵が監視に当っていました。右手に高い石垣(石塁)が連らなり、高台に屋敷もありました。一ノ門をくぐると土岐坂となりますが、その突き当りの石垣の約10m巾は岩村城において最も古く中世末期のものと伝わっています。土岐坂を登ると土岐門が現れます。土岐門は第二の門で、その昔、遠山氏が土岐氏を破ったとき、その城門を持ってきたためその名があるという説が伝わっています。明治になると岩村城は廃城になりますが、土岐門は飯羽間城近くの徳祥寺山門として移築され、現在でもその遺構を見ることが出来ます。また最近では城下の妙法寺の山門も岩村城の払い下げ遺構とされており、地元の人の調査によると寸法などからして二の丸赤時門であるという報告もされているようです。
飯羽間 徳祥寺の山門(岩村城旧土岐門)

B大手門跡
大手曲輪址
大手門の枡形跡
三重櫓址石垣 大手曲輪址
大手門付近の石垣
大手三重櫓の櫓台跡
三重櫓址石垣 畳橋石垣 三重櫓址石垣
大手曲輪から八幡曲輪への登城道 畳橋跡の石垣 大手門枡形内部の石垣

大手門(追手門)は正門のことで、城門の中でも最も重要な門であので、その防備は厳重を極めていました。大手門は二つあり、一つは櫓門、一つはその全面に枡形の一部を構え、それに入る平重門でした。枡形とは大手櫓門をかばう特殊な防御施設です。大手門下の空堀にはかつて畳橋が掛かっていました。ここを渡らないと大手門へは行けない構造になっており、敵が攻めて来たときは橋をとって敵の侵入を防いでいました。この大手櫓門の隣、空堀にのぞんで三重櫓がありました。岩村城は山城で天守閣は不要でしたが、この三重櫓が天守閣の如く威容を誇っていたのは、城下街から見上げたとき、ここが最も見栄えのする地点であったからです。一説によると、城下に間者が侵入しても、ここを岩村城の天守閣と思わせ、実はその奥に大きな城郭を隠したとも云われています。この辺りの石垣は最も美しく、絶壁にのぞんだ三日月形の曲線は扇の勾配とも又は武者返しとも呼ばれています。しかし岩村城の本格的要害は、ここから奥に展開します。

C三の丸跡(八幡曲輪跡)
俄坂門跡 霧ヶ井 龍神の井と侍屋敷跡
俄坂門跡(昔の大手門) 霊泉 霧ヶ井 五郎作屋敷跡と竜神の井跡
大手門と俄坂門をつなぐ道を城の中道といい、この道の南側には城の霊泉霧ヶ井がありました。大手門に対して裏手の門を俄坂門といい、水晶山に面して構えられていました。この門の外は険しい坂道で、くらがり谷にかかるため普通には通れませんが、落城等の非常口として用いられました。俄坂もその意味があります。また中世の頃にはここが大手門であったと云われています。三の丸南側にある霧ヶ井は鎌倉時代から清らかな水を湛えていました。この井戸は城主専用のもので、お堂の中にありました。岩村城の別名を霧ヶ城と云いますが、それは非常に霧が発生しやすい地勢にあることから名づけられました。伝説によると敵が攻めて来たとき、城内に秘蔵した蛇骨を霧ヶ井に投入すると、忽ちにして雲霧が湧き出して全山をおおい、敵兵は地形が見えなくなって攻めあぐみ、そこに城兵が突入して勝利を得たそうです。これは山霊の加護によるもので、依って霧ヶ城と呼ばれ天下の名城と伝えられています。霧ヶ井はどんなに日照りがつづいても、決して水の涸れない不思議な井戸で、江戸時代に百日余り続いた日照りにも水は豊富であったと伝えられています。その他に城内最大規模の竜神の井や五郎作(侍)屋敷址等の遺構を見ることができます。また五郎作屋敷の後ろには出丸への抜け道があります。その途中には火薬庫址を見ることが出来ます。
八幡曲輪址 八幡曲輪址 八幡曲輪址
遠見櫓跡 八幡曲輪跡 八幡社跡
三の丸は八幡曲輪とも呼ばれ、城内で最も広い面積を占めていました。曲輪の高い所に城山鎮護の八幡宮が鎮座し、その入口に参道の石段(右上写真参照)、鳥居、拝殿、そして坊として薬師寺がありました。八幡宮は岩村城創築と同時に譽田別命(ホンダワケノミコト)を祭神として城内鎮守の神社とされました。岩村城創築の祖加藤景廉が承久三年(1221年)に没したので、すぐ配神として祀り座像を納めました。城主はかわっても、歴代城主及び家中の崇敬は篤く、社殿の修理等を記録した棟札は永正五年(1508年)のものから現存し、岐阜県重要文化財に指定されています。八幡曲輪には八幡櫓をはじめ遠見櫓、橋櫓などが建ち、城の西から北方面にかけて遠望監視する物見台の役目を担っていました。

D二の丸跡
菱櫓跡 菱櫓跡
菱櫓跡の石垣 二の丸門跡
出丸全景 東曲輪下の帯曲輪
二の丸石垣 妙法寺山門(伝 二の丸不明門) 未整備の二の丸跡
二の丸は本丸の西側に位置していますが、私有地のため立ち入りができず、内部の遺構は未整備の状態となっています。本丸に次ぐ城の重要部で、ここには櫓が二つと門が二つの他に数多くの建物がありました。城下にある妙法寺の山門はこれまで一之門を移築したものだと伝えられてきましたが、調査の結果、二の丸不明門の可能性が強くなってきました。二の丸には上番所といって城中警備に当たる番所の本部があり、ここは城中各所の番所への番人の配置、交替等の指揮所なっていました。また番人の控え所としての機能もありました。このほかにも藩の重要書類を押さえてある朱印蔵をはじめ、米蔵、武器庫等などの建物群、また厩舎もあって城中の馬もここで飼育されていました。広場の中央には弁天池があり、かつては弁財天が祀られていました。岩村城の特徴のひとつに城内に残る宗教的遺構があります。三の丸の八幡宮や二の丸の弁天社がそれにあたります。これらの宗教的遺構からは中世岩村城の城内生活の一端を窺い知ることが出来ます。また二の丸の北東隅には菱櫓がありました。この場所は山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になりました。これは山城特有のものです。この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれていました。菱櫓は全国城郭にもその例はあまりなく、中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構となっています。

D出丸・帯曲輪跡
出丸全景 東曲輪下の帯曲輪 上部が赤時門 下部が桜井門あたり
出丸跡 帯曲輪跡 赤時門跡(上部)と桜井門跡(下部)
帯曲輪は帯のように長い曲輪で、本丸や東曲輪を包むようにして出丸との間を通り、二の丸の赤時門に達します。赤時門は不明門(あかずのもん)と発音し、この門は滅多に開けず、平時は閉め切りであったと云われています。出丸は本丸の南部の防衛の役目を持ち、東曲輪・帯曲輪と共に本丸を防衛していました。櫓が二つ、多門が三つあり、門は一つのみで帯曲輪からしか入ることができませんでした。櫓は二重櫓と太鼓櫓があって城下町がよく見える位置にありました。太鼓櫓には大太鼓があって、非常の際は城下に知らせました。この太鼓が打たれると武士達はただちに完全武装して登城し、定められた部署について戦争等の準備をしたようです。城下町の町民は火をすべて消し、木戸を締めて城からの司令を待ちました。 多門は三つあり、一つは武者隠多門といって戦争のときに城兵を待機させた建物です。一つは大工小屋と云って城の営繕関係の中間が仕事をしていました。また山葵谷には煙硝蔵がありました。
煙硝蔵跡

D本丸跡
東曲輪二重櫓址 長局埋門跡 東曲輪二重櫓址
長局跡(東側) 長局埋門跡 本丸東曲輪の二重櫓(里櫓)跡
東曲輪は本丸の東の一郭で水晶山に面し、本丸防備には最も重要な区域です。反面、山の峻険さを頼みすぎて手薄であったといわれていれています。天正三年織田勢は最後にここを衝きました。東曲輪と本丸との間には本丸付属の長局があり、東曲輪に存在した二重櫓の二階から長局埋門へと橋が架かって廊下をなしていたのでこの下の通行門を廊下門といいました。長局とは女中衆が居住した所を指します。東曲輪から長局に入るあたりは石垣が高く、この石垣の間をくぐって入る門を長局埋門いいます。埋門は建物の門より堅固でその上に跨って長い多門があり、監視と防備が行われました。この長局埋門をくぐったところが長局で、ここを通ってから本丸の平重門へいきました。
東曲輪より一段下がった所にある石垣群は、写真映えするため、よく冊子等に使われています。特に石垣を六段に積んだ通称「六段壁」といわれている石垣は岩村城を代表する光景してよく登場しています。石川県の七尾城の本丸付近にも石垣を段組にした箇所がありますが、このような積み方は峻険な山城特有の形態なのでしょうか。六段に積まれた形状はは巧みに石垣の崩壊を防いでいます。
六段壁
通称:六段壁の石垣

出丸より本丸石垣を望む
霧が発生する本丸(別名 霧ヶ城) 出丸側から見た本丸二重櫓台跡(土壇部分)
出丸より本丸石垣を望む 東曲輪より本丸石垣を望む
出丸側から見た本丸石垣(二段の石積み構造) 東曲輪側から見た本丸石垣
出丸より本丸石垣を望む 出丸より本丸石垣を望む
南曲輪側から見た本丸(土造り部分)

東曲輪跡
本丸は海抜717m(以前は721mと表記)であり、日本の近世城郭の中で最も高地にあります。その歴史と広大さと要害堅固さから日本三大山城の一つとされています。本丸は岩村城の中心であり城主の拠点です。天険を利用し、人工の限りをつくした要害です。本丸は東曲輪と二ノ丸から埋門を通じてやっと進入できる構造になっています。本丸には二重櫓と納戸櫓の二つがあり、二重櫓は城主の最後拠点となる重要な建物でした。多門は三つあり、東西の石垣に沿って建てられていました。岩村城は山城のため天守閣を建てる必要はなかったのですが、城内の要所要所に十一棟の櫓又は櫓門があって常時各方面を監視しており、しかも全部が本丸に統一掌握されるようになっていました。本丸には岩村城創築者加藤景廉が植えた松がありましたが、安政年間(1854年頃)に大嵐のため折れてしまい消滅してしまいました。本丸から北へは水晶山、三森山、阿木山、恵那山、遠くの御岳の山々を一眺にし、南から西にかけての木の実峠、夕映えの美しい武並山、夕立山を眺めることができ、木の間から近郊を見下ろすことができます。

本丸埋門跡 本丸址
本丸埋門跡 本丸跡
本丸へ入る埋門は石垣の中に一階部分が埋まり、また門の上にはこれに跨って長い多門が建てられ監視と防備の役目を果たしていました。また敵が攻めてきた時、土や石で門を埋めてしまうことも出来るので他の門に比べて埋門は堅固でした。
 埋門の石垣では野面積み(自然石を積む)、打込ハギ(自然石を石垣の外側のみ平にする)、切込ハギ(切石を使う)の三種類の石積みを一度に見ることが出来ます。これは岩村城の変革を示す貴重な遺構で、野面積みが一番古く、切込ハギは享保三年(1718年)にあった大地震のあと修復したものです。埋門左側の長い石垣は土岐坂の石垣につぐ古いもので、一見粗雑に見えますが意外と頑丈になっています。この埋門の右側には納戸櫓が建てられていました。

納戸櫓跡石垣 本丸埋門柱穴
納戸櫓跡 本丸平重門(東口門)跡 本丸棚門跡
納戸櫓跡石垣 納戸櫓跡石垣 納戸櫓跡石垣
本丸二重櫓跡(最奥の部分) 昇竜の井戸 本丸からの眺望

本丸東側に設けられていた平重門は東曲輪方面からの本丸への入口であり、その内部は枡形を形成しています。裏門に当たる埋門とあわせて岩村城の本丸防御がいかに強固な城門で守られていたかが分かります。

E南曲輪跡
南曲輪の堀切跡 南曲輪跡 南曲輪の土橋跡
現在の岩村城は石垣で固められた城郭というイメージが強いですが、鎌倉時代に創建されたとされる城址には中世以来の土造りの遺構も山中に多く眠っています。本丸の南側に残る南曲輪跡もそのひとつです。南曲輪への入口脇には説明看板が立てられていますが、よほど城好きな人でないと足を踏み入れることはないと思います。しかし南曲輪の中には山城の定番である堀切や土塁、腰曲輪、土橋などが良好に残されており、岩村城が中世城郭を土台にして近世城郭へと発展していった城であることがあらためてわかります。南曲輪の内部は道が細い上に地形の起伏が激しく、草で覆われた夏季に入るには少々危険が伴います。冬季の散策をお勧めします。

F狸の道の遺構
出丸西側で発掘 切り出し石材 三又の大杉 野生動物も生息(かもしか)
通常の登城コースから外れた箇所には中世岩村城の遺構が点在しています。地図には散策コースと記されている通称「狸の道」から本丸へ向かうと土橋や堀切、小曲輪などといった玄人好みの中世遺構を見ることができます。しかし現在(平成22年)このルートは危険であるため立入禁止となっています。最近の発掘調査により、この道中から修復用の石材を調達する採石場の跡とみられる遺構が見つかりました。発掘調査説明会で現地へ立ち入った時には、写真のようなタガネ(矢穴)の跡が残る石材を見ることができました。またその他にも狸の道では、三又の大杉と呼ばれる珍しい形の杉の木を見ることができます。他の中世遺構と合わせて一見の価値がありますので、早く立入禁止が解除されるといいですね。ちなみに大杉の写真は立入禁止前、かなり以前に撮影したものです。なお岩村城では、ごくまれに大型野生動物と遭遇する場合がありますので、特に側道である狸の道では注意が必要です。

G岩村の城下町
納戸櫓跡石垣 納戸櫓跡石垣 納戸櫓跡石垣
岩村藩鉄砲鍛冶 加納家 商家 勝川家 大庄屋 浅見家
納戸櫓跡石垣 納戸櫓跡石垣 納戸櫓跡石垣
問屋 木村邸 下町枡形(城下町の鉤の手部分) 土佐屋に残る天正疎水

かつて東濃で最大の城下町を形成していた岩村城ですが、今でも所々にその面影を垣間見ることができます。街道の真ん中で大きく鉤の手にカーブした下町枡形や、勝川家、浅見家、木村邸などの岩村藩有力商家、鉄砲鍛冶をつとめた加納家などの建物が整備され、内部公開している建物もあります。江戸時代の遺構が目立つ中で、復元整備された紺屋土佐屋の中庭では、戦国時代(天正年間)に岩村城主であった河尻秀隆が設置した用水路「天正疎水」の遺構を見ることができます。なお岩村城下町は「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

<岩村城へのアクセス>
駅から徒歩 明知鉄道岩村駅から案内標柱に従い古い町並み(途中交差する一方通行道路左手から古い町並み)に入る。古い町並みを案内標柱に従い1.2km程進むと「岩村城址・資料館」の標柱があるのでここを左折し、100m程進んだ特別支援学校の分岐を右折後100m程で復元太鼓櫓(歴史資料館・藩主邸跡)が見えてきます。さらに直進していくと岩村城の登城口に至ります。
 
車での場合
(山麓側)
恵那市内の国道19号線を正家交差点から国道257号線へと南進し、15分程走ると国道363号線(中津川方面)へと分岐する裏山交差点に到る。交差点を363号線方面へと左折し400m程進んだ「岩村城跡・岩村歴史資料館」の案内看板の所を右折。さらに案内看板に従って進み、特別支援学校を回り込む形で右折。少し進んだ突き当りを左折後、100m程進んだ右手に歴史資料館(藩主邸跡)があります。車は資料館に駐車し、登城口は車で登ってきた道をさらに道なりに進んだ先にあります。登城道の石垣群を堪能しながら、本丸までは30分もあれば到着します。
 
車での場合
(山頂側)
恵那市内の国道19号線を正家交差点から国道257号線へと南進し、15分程走ると国道363号線(中津川方面)へと分岐する裏山交差点に到るが、このまま国道257号線を直進する。さらに2km程進むと左手に岩村城跡の看板が現れるのでここを左折。車幅が狭い道を登って途中の分岐を左手に進むと突き当りが岩村城の出丸駐車場となる。10台程度は余裕で駐車できます。本丸は出丸のすぐ上にあります。

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