続日本100名城 中・東濃を席巻した森氏の居城
美 濃 金 山 城 |
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■場所:可児市兼山 |
■別名:烏峰城 |
■築城年:天文六年(1537) |
■築城主:斎藤正義 |
■城形式:山城 |
■標高:276m ■比高:180m |
■城遺構:曲輪、竪堀、堀切、土塁、石垣、櫓台、枡形虎口、井戸 |
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天文6年(1537)に斎藤大納言正義(妙春)が山頂に築城、烏峰城と称し、それまで中井戸の庄の地名を金山村と改めました。永禄八年(1565)織田信長は東濃経路の拠点として森可成を金山城主として以来森可成・長可・忠政父子三代の居城として栄えました。信長の小姓として有名な森蘭丸は可成の三男であり、この金山城で出生したと云われています。しかしそんな森一族も浅井・朝倉軍との戦いでは可成と長男可隆が、本能寺の変では三男蘭丸・四男坊丸・五男力丸が、小牧長久手合戦では二男長可が戦死したため、最後は六男忠政が家督を継ぐこととなります。そして森氏の松代転封後、慶長6年に金山城は解体されたようです。よく金山城の天守閣は解体された後、木曽川から流して犬山城天守閣となったと云われていますが、犬山城修理の際に必ずしもそうではないことがわかりました。当初は金山城という名前でしたが、飛騨国の金山町と区別するため地名を兼山というようになったようです。兼山町内には他にも森蘭丸ゆかりの史跡があり、山麓の歴史史料館でも金山城や森家に関連した展示物を見ることができます。
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【戦国〜江戸時代の歴代城主】
斎藤正義→土岐十郎→長井道利?→森可成→森長可→森蘭丸→森長可→森忠政→石川氏→森長可→森忠政→石川氏 |
慶長6年(1601)破却 |
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@山麓の米蔵跡と登城道の堀切跡
古城山の山麓には米蔵跡の遺構があります。米蔵跡と伝えられる場所には、美濃金山城と同時代に築かれたと考えられる高さ約6m、長さ約40mの野面積みの石垣があります。ここはかつての美濃金山城への登城口で、石垣の上の台地には登城する人をもてなすための大きな屋敷があったと思われ、江戸時代になってからは、年貢米を貯蔵する米蔵があったと伝えられています。ただし現在、城址に行くには、兼山小学校前から「蘭丸ふるさとの森」に向かって登っていくのが一般的です。小学校前の舗装道路を登っていくと「蘭丸ふるさとの森」第二駐車場があり、その反対側に設置された冠木門を潜った先に、山頂の城址へと続く「堀切の小径」と名付けられた遊歩道が現れます。その名の通りかつて堀切であったと思われる小径に沿って進むと、再び舗装道路に合流し、道の右手は搦手筋、左手は三の丸の入口や出丸方面となります。搦手方面には南北約50m、幅約4〜7m、高さ約10mを誇る大堀切跡が見られます。大堀切は左近屋敷と伝えられる郭の防御施設で峰を切り開いて設けられました。大堀切で隔てられた向かいの丘陵には信長の休み石なるものもあります。 |
A出 丸
堀切の小径を登った先を左に進むと、突き当たりが出丸跡となります。出丸に至る途中には展望台や城址の入口があります。現在、出丸跡は駐車場にもなっておりここまでは車で登る事もできます。出丸は金山城の第一線防御のため大手口に築かれた重要施設です。主郭から独立して設けられる出丸の規模は約東西55m、南北約33m面積約1300uを有し、北面は土塁で築きあげられています。南面は高さ約3〜4mの野面積みの石塁で、石と石との隙間には栗石(丸い小石)がつめられています。この石垣は、戦国時代末期の創建当時そのままの遺構であり、当時の築城の特徴をうかがうことのできる貴重な遺跡です。この広場の東南角には建造物の土台の名残である丸石が点在していますが、ここに出丸櫓が構えられていたと考えられています。出丸櫓跡の東側から蘭丸産湯の井戸の横を抜け、大手道が山麓へと通じていました。その他、門、高塀などの跡もあります。
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B三の丸
出丸跡に向かう途中に、本丸へと続く登城道があります。道に沿って登るとまもなく三の丸門跡の看板が現れ、門の礎石を見る事ができます。その先が三の丸跡となっており、三の丸跡の脇にある水の手口からは、平右衛門谷と称する断崖上の生活飲用水補給場所にたどりつくようです。さらに下ると城下の米蔵跡へ通じているようですが、水の手口から続く道は、現在のところ立入禁止となっています。三の丸の北側には、三の丸北曲輪があり、さらにその先は北方物見台跡となっているようです。(※名称はパンフレットや看板に従っています) |
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登城口 |
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三の丸の門跡 |
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水の手方面の虎口 |
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三の丸跡 |
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三の丸北曲輪跡 |
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伝 北方物見台跡 |
C二の丸
三の丸跡から石段を登って二の丸へ入る周囲は土塁囲になっていたようで、二の丸門、侍屋敷、物見櫓などの施設があったようです。二の丸西側面には野面積みの石垣が確認できます。物見櫓があったと思われる場所には礎石の様な石列も確認できます。また物見櫓跡からは、遠方の景色が望めます。この物見櫓は二の丸の南端に位置し敵状監視の最適地でした。南方に広がる丘陵に明智光秀の居城長山城跡、西方に中山道太田宿、東方には久々利浅間山や恵那方面が広がっています。二の丸の上段は南腰曲輪となっています。 |
D大手枡形虎口
二の丸跡から上方に進むとそこにはかつて金山城の防御の要であったと思われる大手枡形が現れます。正面には枡形を説明する看板が立てられており、それによると枡形とは「攻め寄せてきた敵の進む勢いを鈍らせるために設けられた正方形の平地であり、普段は登城する武士達への威厳を示すためのもので、ここまで登ってきた武士は一度呼吸を整えながら本丸へ登るための衣紋の乱れなどを整える場でもあった」と説明されています。大手枡形にはかつて正面入口と右手出口に門が存在し、第一の門を突破した敵を枡形の3方向から攻撃するという鉄壁の防御施設となっていました。金山城の枡形跡は非常にコンパクトにまとまった綺麗な方形をしており、枡形虎口を知らない人に説明するにはうってつけの遺構だと思います。 |
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大手枡形虎口(正面) |
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大手枡形虎口(出口側) |
E本丸跡
大手枡形の二の門跡を進んだ先には南腰曲輪跡が広がっています。さらに南腰曲輪跡から上に続く道の横には、豪壮に積まれている天守台西南隅石が現れ、さらにその先の石段跡を登ると本丸址に到着します。天守があったとされる場所には現在 鳥竜神社が建てられており、その他には御殿跡の礎石や本丸隅櫓址を見る事ができます。説明看板によると、金山城天守は片面複合とも称さるべき縄張りで、現状天守台東端の東西21.3m、北面19m、南面17.2m、西面石塁推定線16.4mの現況平面に1.5〜1.8mの石塁が築かれ、さらに二層入母屋造りの主殿上に望楼を乗せた型の天守がそびえていたようです。天守の東南面に一段低く付櫓を接続させ更に付櫓の西南面に数尺高い石垣上に長く西に延びて袖櫓を接合させ、門跡土台石より袖櫓に入り左折して付櫓の床面より梯子段をもって天守に入る仕組みであったようです。なお付櫓の床下は穴蔵となっており、米・塩・火薬その他重要なものを貯蔵し、東西10m、南北9.5m、深さ約1.85mの大きさでした。
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本丸跡(神社建物撤去後) |
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天守台西南隅石 |
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本丸虎口跡 |
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本丸跡の城址碑 |
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本丸跡からの眺望 |
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本丸東面の石垣 |
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本丸北面の石垣 |
F本丸周辺の腰曲輪と搦手道
本丸跡の周辺には東腰曲輪、西腰曲輪、南腰曲輪等の曲輪がありました。東腰曲輪は搦手の重要施設として土塀や侍屋敷や井戸などが設けられ、現在でもその礎石を確認することができます。西腰曲輪、南腰曲輪でも礎石が見つかっているそうです。東腰曲輪を過ぎると搦手門跡の礎石を経て道は下りとなり、一段下の東部曲輪より杉ヶ洞搦手道を抜け、山麓の自然公園へと至ります。 |
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南腰曲輪跡 |
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西腰曲輪跡 |
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東腰曲輪跡 |
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東部曲輪 |
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搦手門跡 |
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杉ヶ洞搦手道 |
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