対武田戦における信長の本営を務めた古式ゆかしい城
神 箆 城 |
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■場所:瑞浪市土岐町 |
■別名:鶴ヶ城、土岐城、神野城 |
■築城年:鎌倉時代頃か |
■築城主:土岐氏 |
■城形式:山城 |
■標高:260m ■比高:50m |
■城遺構:曲輪、堀切、土塁、井戸 |
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神箆城の創築は、美濃源氏土岐氏の草創期、国房・光信・光衡の頃と云われています。土岐源氏発祥の地である一日市場の館に近い山城で、土岐初代守護頼貞と正中の変の主将頼兼の本拠城とされています。南北朝争乱期に主流が中西濃に地盤を定着させるようになってからは、三河・信濃・恵那郡の遠山氏に備えとして一族が居城しました。応仁の乱における信濃勢の東濃侵入の際には美濃防衛の最前線基地となり、元亀・天正年間の武田勢の東濃侵入時も、織田軍の主城となって侵攻を阻止し、天正十年織田軍の武田勢追討の際には、信長・信忠はこの城を本営としたなど、歴史的にも重要な役を果たしました。またこの時、城番として織田家の有力家臣である川尻秀隆が配置されていたことにも注目です。関ヶ原合戦時は、田丸方の城として西軍に組した岩村城と共に開城し、その後廃城となりました。地元では鶴ヶ城という名前の方が有名です。城址のある瑞浪市土岐町は美濃守護土岐氏発祥の地とされており、東濃でも歴史深い土地のひとつです。
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【戦国〜江戸時代の歴代城主】
→土岐氏→延友氏(土岐氏)→川尻秀隆(織田氏城番)→関氏・林氏(森氏城番)→早川氏・嵐氏・福岡氏(田丸方) 関ヶ原合戦後廃城か |
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@登城道(大手道)
神箆城(別名:鶴ヶ城)碑 |
瑞浪市土岐町鶴城という辺りで中央自動車道の高架を潜ると左手に進んだところに「美濃源氏土岐氏古城 鶴ヶ城跡」の碑が建てられています。神篦城という呼び名は軍記物や古文書などでよく使われているのですが、実は地元では馴染みのない呼び方なのです。地元では鶴ヶ城という呼び名が一般的に使われていますし、道を聞いても鶴ヶ城と言わないと通じないと思います。しかしこの城は織田信長によって武田軍に対しての守りの本城とされ、当時、嫡子の信忠軍に編成されていた川尻秀隆ほどの有力武将が城番として派遣された由緒ある城址です。大手口一帯は、山頂から張り出した尾根から続く緩い傾斜の台地となっており、南へ大きく張り出した二つの尾根の間の開口部が大手口と云われています。山城にしては広めの大手道を登っていくと途中には二の木戸址、一の木戸址の案内看板を目にする事ができます。『図説美濃の城』には大手道脇にある曲輪を馬場跡と説明してありますが、それを示す案内看板は現地には立てられていませんでした。 |
伝 大手道(登城口) |
伝 二ノ木戸跡 |
登城道途中の石塁(神社建築に伴うものか) |
A御殿場跡・小曲輪跡
大井戸跡(葵の井戸)と土塁跡 |
大手道を登っていくと道は緩やかになり「伝御殿場」という表記のある空間に到着します。以前は二ノ郭と示されていた場所になります。ここは四段程の郭跡が配置されており、その内部では土塁跡や大井戸跡を見る事ができます。この井戸は直径が3mほどもあるとても巨大な井戸で思わずのぞき込んでしまう程の見応えがあります。東濃の山城に残る井戸跡の中で囲いがしていないものでは1番大きい遺構なのではないかと思います。さらに神箆城には岐阜県天然記念物に指定されている『土岐双生竹』が自生しています。双生竹とは根茎二節より発芽し一見して一節双生に見える事からこの名前があるそうです。岐阜県瑞浪市の他には佐渡や愛媛といった所が代表的な自生地の様です。なお伝御殿場から主郭へと向かう登城道には地元の方々が交付金等を利用して設置してくださった階段があります。この階段は遺構の保護のため地表面と接触しないように設置されているそうです。
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伝 御殿場跡 |
謎の穴石(旗立石か門柱石?) |
小曲輪群 |
B東出丸と西出丸跡
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二の丸曲輪を抱え込むように東西へと伸びる二つの尾根は細長く削平され、東出丸曲輪と西出丸曲輪となり東西両方向から大手口の防備をしていました。この東西両方向の出丸が神箆城の縄張の特徴であると思います。別名「鶴ヶ城」と呼ばれるように、東西の尾根に対して曲輪を配している本城の造りは翼を広げた鶴を想像することができます。しかしこの東西の曲輪も中央高速自動車道建設時に一部が破壊されてしまいました。その時に発掘調査をした記録が近隣の図書館に冊子として残されています。現在、地元の方の熱心な整備活動のため、西出丸跡と東出丸跡の先端からは遠くの美しい山並みを望むことができます。かなり広い範囲を見渡すことができる城の立地は、いかに神箆城がこの地域における主要な城であったかを物語っています。 |
西出丸南端からの眺望(中央アルプスの雪渓) |
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西出丸跡(入口付近) |
西出丸跡 |
西出丸下の腰郭跡 |
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東出丸跡(入口付近) |
東出丸跡 |
東出丸南端からの眺望(屏風山) |
C主郭跡
主郭(本丸)跡 |
階段状に連なった小曲輪群をのぼると、赤い鳥居と小さい社が最初に目に入ってきます。そこが神箆城の中心である主郭跡となります。現在の主郭跡は土岐神社となっています。本丸曲輪は東西に長い長方形をしており、本丸の背後は約20m幅の深い堀切となっています。基本的に切岸での防御が主体であったことがうかがい知れます。神箆城は鎌倉時代に美濃守護となった土岐氏が麓の一日市場に居館を構えたのに合わせて築城されており、当時は守護所に対しての詰めの城的な性格があったと思われます。太平記にも登場する正中の変の中心人物のひとりであった土岐頼兼も城主であったと伝わります。戦国時代の織田氏と武田氏の攻防の中では神箆城が織田氏の主城的な役割を果たしており、信長父子もこの城に入城したという記録があります。また東濃地域での関ヶ原合戦時にも西軍であった田丸氏の支城として使用されるなど、東濃の中では歴史的にかかせない大変重要な城址であると言えます
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主郭跡の切岸 |
主郭背後の大堀切 |
主郭からの眺望(恵那山方面) |
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