不等辺五角形の天守台に歴史ロマンを感じる城
小 里 城 (城山) |
|
■場所:瑞浪市稲津町小里 |
■別名: |
■築城年:天文三年(1534) |
■築城主:小里光忠 |
■城形式:山城 |
■標高:403m ■比高:170m |
■城遺構:曲輪・空堀・堀切・石垣・虎口 |
|
|
戦国期の城主小里出羽守光忠は、天文三年新城の南の小里川左岸に聳える山の麓に大規模な小里城を築城しました。元亀三年の武田軍の東濃侵攻(上村合戦)により小里光忠や他の東濃諸将は討死にしてしまいますが、信玄没後、信長は武田方となった明知・岩村城攻略の向城とすべく、光忠の後を継いだ小里光明に命じ小里城のの築造をさせました。しかし工事半ばの天正三年十二月、信忠を将とする織田勢は猛攻の末、岩村城を含む武田方の諸城砦を次々と攻略したため、小里城築城の必要もなくなり、工事もまた途中で打ち切られました。本能寺の変後、東濃は森長可の支配となり、小里氏は徳川家康をたよって三河小原に逃れ住みました。その後関ヶ原合戦を経て旧領を回復しましたが、元和九年、後継者なく小里氏は断絶し、城の機能も停止しました。小里城は時代により古小里城、新小里城、小里城山と場所を少しずつ違えて築城されています。ここで扱っている小里城山は山麓に御殿屋敷と山頂に砦を構えた山城です。山頂の石塁は不等辺多角形をしていたので安土城の試作の跡かと云われていましたが、最近の調査では否定的な見解が主流になっています。
|
【戦国〜江戸時代の歴代城主】
→小里光忠→小里光次→小里光明→小里光親→小里光重 元和9年(1623) 無嗣断絶 |
|
|
|
@登城口と東砦跡
県道66号線多治見恵那線から県道20号線瑞浪大野瀬線に入り南下していくと、前方上空に突如巨大な橋が見えてきます。小里城大橋です。この小里城大橋へ進む交差点の数十m手前に小里城山城址の案内看板と登城口を見つける事ができます。登城口から続く道を進んでいくと付近には石積みをいくつか確認することができ、さらに進むと突き当りには山麓遺構である御殿場跡の入口とされる大手門跡の石垣が見えてきますが、この大手門を入らず手前を左方向に進んでいくと東砦跡に到達します。東砦跡は御殿場跡と自然地形で区切られた場所にあり、縄張図では山に向かって連郭式に連なる曲輪群となっています。そしてこの曲輪群の上方では明瞭な堀切を確認することができます。ただし東砦跡一帯は、近年の地元の方の熱心な整備のおかげで、新たに一般の人でも見学することが可能となった区域ですので、夏場など下草が生い茂る時期には足を踏み入れるのは難しいかもしれません。 |
|
|
|
小里城の登城口 |
|
東砦跡の堀切と土橋 |
|
|
|
登城道途中の石垣群 |
登城途中の石垣群 |
東砦跡の堀切(谷部) |
A小里氏御殿場跡
御殿場跡は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功により、旧領地を回復した旗本小里氏が陣屋を構えたとされる場所で、主に3つの平坦面(曲輪)から成っています。伝大手門跡の石垣を過ぎると左右に曲輪とわかる敷地が広がっており、さらにその左手上段にも曲輪と確認できる敷地が広がっています。上段の曲輪には小里氏御殿場跡の碑が建てられており、城主の居館があったことを示しています。小里氏は元和9年(1623)に末期養子が認められず断絶となり、小里城も廃城となったため、陣屋としての使用期間も短いですが、江戸初期に断絶した旗本の陣屋跡として御殿場跡は岐阜県においても貴重な遺構といえます。なお小里氏の断絶の様子については郷土の軍記物『濃州小里記』に詳しく記載されています。 |
|
|
|
伝 大手門跡 |
|
御殿場跡の碑 |
|
|
|
伝 大手門跡横の石垣 |
御殿場跡の下段曲輪 |
御殿場跡の上段曲輪 |
B山上遺構への登城道
小里城は典型的な根小屋式山城で、御殿跡の背後の見上げる高所に山城があります。現在の登山道は谷の西側の尾根伝いにあり、非常に急峻な登城道となっています。登城道を上っていくと多くの巨岩を見る事ができます。さらに山頂部の入口は虎口のようになっており、自然の地形と巨岩を巧みに利用した光景がみられます。 |
|
|
|
山頂への登城道 |
|
山頂への登城道の巨岩(木戸のかわりか?) |
B山上の曲輪群(二の曲輪・大手曲輪・腰曲輪・帯曲輪)
目線を上に向けて石垣のようなものが見えてくるとそこはもう山頂です。山頂の遺構は主郭である一の曲輪を中心に、大手曲輪、二の曲輪、腰曲輪、帯曲輪などが周囲を取り巻いています。曲輪の名称については後世のものかもしれませんが、実際に現地へ赴くと主郭を取り巻くいくつかの平坦面を確認することができます。
|
|
|
|
大手曲輪 |
二の曲輪入口部 |
二の曲輪側面の石垣 |
|
|
|
二の曲輪 |
一の曲輪の一段下の曲輪 |
腰曲輪 |
|
|
|
帯曲輪 |
帯曲輪側面の石積み |
帯曲輪側面の石積み |
C山上の主郭跡
比高180mに現存する山頂遺構は主に上下2つの曲輪で構成されているようで、上段の曲輪には安土城天守台のような穴蔵式の石塁が残り、下段の曲輪には多くの花崗岩が散在しています。下段の曲輪は石切場として使われていたのか、散在している花崗岩には16世紀後半の改築時の痕跡かはわかりませんが、石材加工途中のタガネの跡などが残ったままになっています。また上段の曲輪にある不等辺多角形の石塁は安土城の天守台と似ているため、もしかしたら小里城で安土城の試作をしたのではないかという戦国ロマンあふれる学説がしばらく言われていましたが、近代に入ってから数回ほど積み直しがなされているため、現在では否定的な見方が強くなってきました。しかしそれでも小里城は東濃における対武田防衛の手段として信長の命により改築されたという歴史を持つ重要な城址であり、実際は改築途中で計画中止になったと云われていますが、これもまた小里城の魅力のひとつとなっています。小里氏は江戸時代初期に断絶し、居城も以後廃城となったため、山上と山麓に分かれる遺構は戦国〜江戸時代への移行期における城郭の変遷を垣間見ることが出来る貴重な遺構として、近隣の妻木城と共にその城郭構造が注目されています。
|
|
|
|
伝 天守台(北西側) |
|
伝 天守台内部(穴蔵部分) |
|
|
|
伝 天守台内部口 |
伝 天守台(南東側) |
伝 天守台(東側)と石割れ石材 |
|
|
|
伝 天守台内部(穴蔵部分) |
一の曲輪跡 |
一の曲輪跡(散在する石材) |
|
|
|
石割れ跡の残る石材 |
主郭からの眺望 |
主郭周辺の巨石群 |
|