天下分け目の戦いに備えて家康の指示により改修された城
妻 木 城 
■場所:土岐市妻木町上郷 ■別名: ■築城年:康永元年(1342〜45)
■築城主:土岐頼基か ■城形式:山城 ■標高:409m  ■比高:190m
■城遺構:曲輪・横堀・竪堀・堀切・土塁・石垣・井戸・枡形虎口

妻木城は東濃西部で最大の勢力を誇った妻木氏の居城です。文献によると室町時代初期、妻木郷は美濃守護土岐頼貞の孫である土岐明智彦九郎頼重が治め、代々土岐明智氏の所領となりました。戦国時代、妻木城主は明智光秀と縁深い妻木籐右衛門広忠となります。しかし本能寺変後の山崎合戦にて籐右衛門広忠が自刃、その後を継いだ妻木頼忠・家頼父子の時に金山城主の森長可が土岐・恵那郡内の反森勢力の掃討をし、妻木城もこの時には森氏の勢力下におかれました。関ヶ原合戦で東軍についた妻木家頼は本領安堵され、7500石の交替与力格の旗本となります。この時に行政機能も山上の城から麓の館へと移りましたが、三代目頼次の時に後継なく断絶し、城も廃城となりました。現在の妻木城は、関ヶ原合戦に向けて徳川家康が下した城郭改修命令の跡が残る城として評価の高い城址です。特に山麓の御殿屋敷跡は江戸初期の陣屋形態を探る上で貴重な遺構といえます。なお松尾芭蕉がその良妻ぶりを詠んだことで有名な明智光秀の正室熙子は妻木氏の出自と云われています。

【戦国〜江戸時代の歴代城主】
→妻木廣忠→妻木貞徳→妻木家頼→妻木頼利→妻木頼次      万治元年(1658) 無嗣断絶
   ※断絶後の妻木郷は分家筋の上郷妻木氏と下郷妻木氏に分知、明治維新まで存続



@妻木城士屋敷跡・御殿跡(妻木陣屋跡)
中世の領主は敵からの攻撃を防ぐため館などを山上に設けていましたが、天下が統一されるにつれ山上生活の不便さを嫌い山麓に館を築くようになります。ここ妻木城でもおそらくそのような理由により関ヶ原合戦を境にして御殿や家臣屋敷が山麓に移されたと考えられます。妻木城の山麓遺構は山頂の遺構と共に県史跡に指定されており、苔むした石垣に区画されたかなり広い土地が段々に続いています。その規模や保存状態から判断して、岐阜県内の城址の中でもこれだけの山麓遺構が残されている城址は珍しいと思います。特に7500石を誇った妻木氏は、江戸初期に断絶しており、その遺構は江戸初期の有力旗本の陣屋形態を色濃く残していることが考えられ、学術的にも非常に貴重な遺構と言えます。御殿跡では当時の門跡や池跡、井戸跡といった遺構も確認することができ、屋敷跡だけでも十分に見応えがあります。
山麓の士屋敷跡石垣 御殿屋敷跡石段
妻木城士屋敷跡石垣 御殿屋敷跡の石段

御殿屋敷跡

御殿屋敷の石垣

蔵跡

御殿屋敷の井戸跡

御殿屋敷の門跡

崇禅寺山門(旧妻木城士屋敷門)

A妻木城の登城道
現在、山上の城址遺構への登城方法は2つあります。1つは山麓の御殿屋敷跡右脇から南方向へ伸びる道を進み、その終点から城山へ登っていく登山道、もう一つは名岐国際ゴルフ場妻木口を入ってすぐ、右方向へと伸びる林道を進み、林道終点の広場から城山に入っていく方法です。林道終点からは5分程度で一の曲輪にたどりつけます。山麓の登山道から一の曲輪までは30分程でたどり着くことができます。登山道の傾斜は厳しいですが、途中に見事な巨石群を見ることができ、自然の地形を利用した堅城であったことを実感しながら登ることが出来ます。

山麓からの登城道

山麓からの登城道で見られる巨岩

B太鼓櫓跡・南曲輪・主郭周辺遺構
妻木城の主要曲輪周辺には帯曲輪、南曲輪、蔵跡、太鼓櫓跡等がありますが、これらは北側を除いて堀切などにより尾根続きが分断されています。主郭の東南側はことに巨石が多く、天然の城壁・石門を形成しており、その間に帯曲輪を介在させるなど、自然の地形を巧みに利用しています。

伝 太鼓櫓跡の石積み

伝 太鼓櫓跡の土壇

主要曲輪下西側の土塁跡

主要曲輪下の井戸跡

伝 釜屋跡

伝 蔵跡

伝 南曲輪跡

主要曲輪下東側の土塁跡

主郭下の帯曲輪跡

B二の曲輪・三の曲輪

二の曲輪虎口跡
主郭である一の曲輪周辺には多くの曲輪が設けられていますが、その中でも二の曲輪と三の曲輪は比較的広い面積をもった曲輪です。一の曲輪→二の曲輪→三の曲輪と連郭式になっている位置関係から主要な曲輪だったことがわかります。三の曲輪の北側は訪れた人に眺望を楽しんでもらうため木々が伐採されています。ここから見る土岐市を中心とした眺望は絶景で、晴れた日には遠くに御嶽山や白山などを眺めることができます。二の曲輪の入口は曲折した枡形虎口になっています。二の曲輪と一の曲輪は城山の頂上部を上下二段に削平したもので、下段に二の曲輪、上段を一の曲輪としたものです。発掘調査によりかつて建物があったことを示す礎石も見つかっています。現在は神社の鳥居が建っています。

二の曲輪跡

三の曲輪跡

三の曲輪跡からの眺望

C城内の巨石群
城内で見られる巨石群は人が積んだように見えますが、これは節理という現象によるものです。マグマが地下で冷えて花崗岩になる時に、収縮して等間隔の割れ目(節理)が多数できます。地表に現れた時、風化浸食によって四角形の塊に分かれ、あたかも人が積んだよう見えます。

南側の巨石群

東側の巨石群

石割跡のある巨石

D一の曲輪
城山頂上部の下段、二の曲輪の東隅の登り口を上がると上段に妻木城の本丸曲輪(一の曲輪)が広がっています。一の曲輪には現在、旗立岩、物見杉などの伝承遺構と案内看板、八幡神社の社が鎮座しています。全体的に観ると本丸曲輪へと続く登城ルートは基本的に北側に限定されています。当初は東西に長い縄張りであったと考えられていますが、関ヶ原の戦いの際に東軍についた妻木氏が西軍の岩村城田丸軍に対する防備を固めるため、堀切や横堀によってコンパクトに再編成したとされています。現在の一の曲輪址は文化財保護法制定以前の時代に石垣の積み直しや礎石の移動などがなされているらしく、現在見られる石垣が本来の姿を成していたかは、厳密には確定できないそうです。山麓の御殿跡についても同様です。子どもの頃見た石垣の風景とは少し違っているいう地元の方のお話も聞きたことがあります。

一の曲輪跡への入口

一の曲輪石垣跡

伝 旗立岩

一の曲輪跡

伝 物見杉

伝 旗立岩の裏側

一の曲輪下の石積み

主郭の切岸

E主要曲輪を分断する堀切と旧城域
関ヶ原の戦いに備えて妻木城は防御機能を高めるために縄張を再編していますが、結果として城域が縮小されたため、いくつかの曲輪が掘切や土塁などにより主郭と遮断されました。(財)土岐市埋蔵文化センター発刊の『妻木城妻木城址・士屋敷跡発掘調査報告書』にも、「関ヶ原合戦以前の妻木城には10を越える主要な曲輪が点在していましたが、本丸周辺の曲輪のみが掘切によって外部から区分けされた」と記してあります。現在でもその時に遮断された曲輪群を見ることができますが、観光用に整備がされておりませんので散策するには少々難があります。しかしながら山中に足を踏み入れてみるとそこには明らかに人工的に削平された曲輪の痕跡があり、また堀切と思われる遺構もありました。しかし遮断されているだけあってこれらの曲輪群には案内表示等はなく、また普段は人が立ち入らないエリアのため野生動物に遭遇する危険性があります。そのため散策するには十分な注意が必要であり、あまりお薦めはしません。

旧 大手口

旧 曲輪跡

旧 馬場跡か

西曲輪方面を分断する堀切

南曲輪方面を分断する堀切

旧曲輪側で見られる堀切

<妻木城へのアクセス>
駅からバス、
後は徒歩
JR多治見駅前から東鉄バス妻木線に乗り、「妻木上郷」バス停で下車。バス停前の道を南進し、突き当りを左折。次の三叉路で右折すると春日神社を経て県道388号線に出るので、県道を左折するとしばらくして右手に御殿屋敷跡が見えてくる。御殿屋敷跡の右端の道を進むと登城口があります。
 
車での場合
土岐市内の国道19号線泉池ノ上町の信号交差点を多治見方面から見て右折(南進)し、県道19号線に入ります。県道19号線を約7.5km、15分程走ると県道388号線との分岐点となりますので、ここを右折し県道388号線を300m程進むと左手に御殿屋敷跡があります。昔は屋敷跡の前にスペースがありここに駐車できましたが、現在は柵があり駐車できません。史跡表示が建っているすぐ奥に登城口に入っていく細道があります。この道の突き当りに妻木城の登城口がありますが車を止められる場所があるかは不明です。もうひとつの登城口としてはゴルフ場横の林道が知られています。先ほどの県道19号線との分岐を右折せずそのまま1.5km程直進すると、右手に名岐国際ゴルフ倶楽部への入口がありますのでここを右折し、さらにすぐ林道への分岐がありますので、林道方面へ右折します。林道の終点に広場があり、ここが駐車場となっています。登城口は駐車場に面した山側にあります。

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