東濃の戦国歴史
このページでは応仁の乱末期から江戸時代初期までの東濃で起った戦国時代史を中心に紹介していきます
【はじめに】
 当初、本ページの記述については、主に各市町村史を参考に内容をまとめていましたが、市町村史ごとに記述内容や年代が異なっている状況が見受けられ、特に小笠原氏の統治時代の様子や、武田氏や織田氏による東濃地域への介入時期などを時系列で整理することが難しい状況でした。これは武田氏の焼き討ちなどで当時の土岐氏や遠山氏に関する資料や寺院の過去帳などが欠損・散逸したことにも原因の一端があるようで、そのため通史自体の記述も信長公記や甲陽軍鑑などの軍記物に頼らざるをえない状況があったようです。
 しかし令和の時代になると、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の放映とそれに伴う大河ドラマ館の開館、または全国山城サミット恵那大会の開催などを機に、自治体や専門家による東美濃地域の戦国時代や城跡の様子をまとめたパンフレットが多数作成されたことで、これまでイメージすることが難しかった東美濃地域の戦国時代の情勢や国人領主の動きなどが明確にわかるようになりました。
 そのため、このページの記述についても、従来の市町村史の記述は残しつつ、パンフレットの文章を抜粋することで、なるべく最新の情報に更新をしているつもりです。新旧の情報が混じって読みづらい点もありますが、東濃地域の城址を巡る際の参考になればと思います。以下に参考にした文献を紹介します。

参考文献『多治見市史通史編上』/多治見市/1980年、『土岐市史(二)』/土岐市史編纂委員会/1971年、『土岐津町誌』/土岐津町誌編纂委員会/1997年、『瑞浪市史 歴史編』/瑞浪市/1974年、『串原村誌』/串原村役場/1968年、『中津川市史 中巻T』/中津川市/1989年、『美濃国恵那郡誌上編』/中津川市教育委員会/2006年、『遠山友政公記 苗木藩の初代大名』/苗木遠山史料館友の会/2010年/、『地域の中世20 中世美濃遠山氏とその一族』/横山住雄 著 岩田書院/2017年

パンフレット:『東美濃の山城』/東美濃歴史街道協議会、『戦国街道 歴史の巻 山城図鑑』/恵那市観光交流課、『戦国街 道歴史の旅 山城マップ』/恵那市、『
明智光秀が生きた時代の東美濃戦国史 山城をめぐる攻防』/恵那市大河ドラマ「麒麟がくる」実行委員会/2021年


【中世東濃の二大勢力】岩村城藩主邸太鼓櫓(復元)
 美濃国守護土岐氏といえば斎藤道三の国盗りで下剋上の対象となったことでも有名ですが、元は東濃西部を本拠地に活躍していた一族です。現在でも東濃西部には土岐市や土岐郡、土岐町といった地名が残り、室町初代守護である頼貞の時代には、東濃の地に政庁である大富館(土岐市)が置かれていました。しかし暦応2年(1339)、当時バサラ大名として名を馳せていた2代頼遠の時に、大富館が美濃国の東に寄りすぎているという理由から、京の都にも近い岐阜長森の地へ政庁が遷り、3代頼康の時代、文和2年(1353)には長森城から川手城へと再び政庁が遷されました。2代頼遠が政庁を岐阜長森へと遷した後も、東濃西部では土岐一族による領国経営がなされています。
 一方、東濃東部では、鎌倉時代に源頼朝の臣であった加藤景廉が恵那の遠山庄を賜り、2代景朝の頃から本格的に東濃に根を下ろしはじめました。いわゆる遠山氏の登場です。立場上は守護である土岐氏の被官でしたが、土岐氏の勢力が弱まるにつれ遠山庄以外にもその勢力を伸ばしていきました。戦国時代には岩村遠山家を本家とし、一族は多くの分家に分かれて栄え、その中でも岩村、明知、苗木、明照、飯狭、串原、安木の七家を七遠山(遠山七頭)といい、特に有力であった岩村、明知、苗木の三家を遠山三人衆といいました。尾張国を統一し、美濃国へ侵攻した織田家とは縁戚関係を結んでおり、国境に近い国衆として近隣の大勢力からも無視できない存在となっていたようです。


【信濃守護・小笠原氏の東濃侵攻】
 戦国時代の始まりと言えば応仁の乱を連想する方が多いと思いますが、東濃の地でも応仁の乱に関連する重大な出来事がありました。文明5年(1473)、西軍に加担していた美濃国を代表する実力者・斎藤妙椿が、美濃の兵を率いて上京するという風聞を受け、東軍の細川方は延暦寺に命じてこれを防ぐ準備をさせると共に、東軍であった信濃守護・小笠原家長に命じ、木曽谷の木曽家豊と共に美濃国に向かわせ、美濃守護・土岐成頼を討たせようとしました。斎藤妙椿の伊勢出兵を機に、11月中旬、小笠原家長と木曽家豊は東濃(恵那郡〜土岐郡)に侵攻し、大井城と萩島城を攻略しました。これ以後、恵那地区内では天文年間(1533〜54)に至る期間まで、小笠原氏の支配が続いたと考えられます。この間、遠山庄を治めていた遠山氏の動向はよくわかっていません。また一説では、この小笠原氏の侵攻により、恵那郡北部の遠山氏(苗木を中心とした遠山氏)が衰退し、南部の岩村遠山氏の力が強くなったようです。

【遠山氏の婚姻政策】
 東美濃の有力国衆である遠山氏は隣国との間でいくつかの婚姻政策を進めています。明知の遠山景行のもとには、西三河広瀬の三宅氏の姫が嫁いでおり、東の隣国である下伊那郡の坂西氏のもとには明知遠山氏から姫を嫁がせています。また土岐久々利にも養子を入れています。岩村遠山氏では、城主の遠山景前が子の景任と直廉の室を織田家から迎え入れており、苗木の遠山勘太郎(直廉)の元へは織田信長の妹が嫁ぎ、岩村次期当主の遠山景任の元には織田信長の叔母が嫁いでいます。これにより織田氏との接点も作られていきます。ちなみに織田氏による遠山氏との婚姻政策については、元苗木藩士が記した『美濃国恵那郡誌上編(福田豊 著)』の中では、「遠山氏が三河の松平氏と結託して織田氏を攻めることを恐れたため遠山氏との縁組が画策されたのでは」という興味深い見解も示されていますが、遠山氏による武田氏と斎藤氏・織田氏との間での両属体制を整えるためとも推測できます。

【小栗信濃守の東濃侵攻と武田氏の影響】 ※『濃州小里記』を参考
 天文21年(1552)、土岐郡高山城主であった高山伊賀守の死去に伴い、可児郡御嵩城主である小栗信濃守が東濃に侵攻する動きを見せます。この情報をつかんだ岩村城主遠山景前は武田晴信(信玄)にこれを伝え、晴信は平井頼母と後藤庄助を大将として東濃に派遣しました。合戦の結果、後藤庄助は討死しますが、小栗信濃守は降伏し、戦功があった平井頼母には高山城が与えられることとなりました。『濃州小里記』では遠山氏が武田氏に小栗氏の侵攻の情報を伝えたと記されていることから、この時の東美濃の国衆は既に武田氏へ従属していたことが推測されます。天文23年(1554)の武田氏による南信濃の制圧により、国境を接する東美濃の国衆への脅威は一層強まり、遠山氏をはじめとする東美濃の国衆は武田氏との従属関係を強めていくことになります。

【遠山氏と三河勢力(今川方)との小競り合い】
 永禄元年(1558)、岩村衆が奥三河に侵入し、今川方の奥平氏を攻め立てたことにより、奥三河の名蔵舟渡橋で一戦となりました。この戦いでは、岩村衆山内采女の被官である後藤三右衛門が奥平氏の被官加藤甚四郎に討ち取られています。これより3年前の天文24年(1555)にも、足助の鱸氏が加茂郡小渡に砦を築く際、広瀬(三宅)右衛門と共に岩村衆も普請合力で出陣した帰路で、今川方の阿摺衆と一戦に及んでいます。この戦いでは敵方に領国である明知まで攻め込まれています。これに対し岩村城主の遠山景前は武田氏に援軍を求め、武田氏はこれに応じて岩村と苗木に兵を送っています。なおここに出てくる広瀬右衛門とは広瀬(豊田市)の地を治めていた三宅氏であると思われ、当時、明知遠山氏と三宅氏は縁戚関係を結んでいるため、広瀬右衛門と岩村衆が共に松平氏と敵対している鱸氏へ普請合力したようです。こうした動きから、岩村衆は天文24年(1555)前半には信玄に従属し、ほかの東美濃国衆もこれに倣ったと推測されます。

【東濃での織田氏・武田氏の衝突】
 武田方となった岩村遠山氏の影響もあり、弘治年間(1555〜)や永禄年間(1558〜)には、土岐郡(東濃西部)の勢力も武田方として取り込まれていったようです。この時代の土岐郡の神箆城主(鶴ヶ城)は延友氏ですが、延友氏は武田方であった岩村遠山氏から派遣された一族でした。また土岐郡の高山城主は、先の合戦で武田氏の大将であった平井氏がつとめています。こう考えると永禄年間初期の東濃は、ほぼ武田氏の影響下に置かれていたようです。このような状況の中、永禄8年(1565)には、高野口(瑞浪市土岐町鶴城)付近で、東濃攻略を本格化させた織田勢との間に小競り合いが起こります。郷土誌(市史)などで見られる永禄年間に起こった土岐氏ゆかりの定林寺などが焼き討ちにあっている事件は、これらの小競り合いに関連したもののようです。なおこの頃、土岐郡の小里氏などの国衆が織田方に転じています。永禄8年(1565)頃の東濃西部の情勢は、武田氏から織田氏へと従属関係が変化した時期となるようです。

【織田氏と武田氏との縁戚関係】
 永禄8年(1565)、美濃の斎藤氏と敵対する織田氏、上杉氏や今川氏と敵対する武田氏は、後顧の憂いをなくすため互いに同盟を結ぶことになります。その折に苗木の遠山勘太郎と信長妹との間に生まれた娘(信長の姪)が、信長の養女として武田勝頼へと嫁ぎました。この時嫁いだ遠山夫人は、後に武田家の世継ぎとなる信勝を生んでいます。このように遠山氏は武田氏と織田氏との関係構築に重要な役割を果たすことになります。


【東濃勢力図の転換点 遠山兄弟の死】
 武田氏と織田氏との同盟関係も長くは続かず、武田氏の東三河侵攻(徳川氏への攻撃)をきっかけとして次第に崩れていくこととなります。そのような中、元亀3年(1572)には、それまで武田方であった苗木城主の遠山直廉と岩村城主の遠山景任が相次いで亡くなるという歴史的大転換が起こります。このことは上杉文書にも「遠山兄弟令病死ニ付、此度信玄打不慮候」と記されるほど、武田氏にとっては大きな痛手であったようです。この遠山兄弟の死を契機に、東濃では2人の外戚でもあった織田氏が後継者の配置に介入するなど、東美濃における織田氏の影響力が強くなっていきます。

【岩村城をめぐる織田と武田の攻防】
 元亀3年(1572)景任の病死に乗じた織田信長は、遠山一族を調略して味方に付け、10月には岩村城に信長四男(五男とも)である御坊丸を嗣子として庶兄の信広と共に送り込み、岩村城を織田方と転じさせた。しかし翌月には遠山七頭が反発し、織田勢を城から退去させ、単独で武田方に転じてしまった。これに対して織田方は、12月に明知や小里など東美濃の織田方国衆に岩村城を攻めさせた。

【元亀3年(1572)の上村合戦】

 元亀3年(1572)12月、武田氏は織田方に転じた恵那郡南部に向けて高遠城将秋山虎繁を侵入させた。恵那郡東部は信長の勢力圏であるが、家康の勢力圏奥三河と接し、信玄の伊那谷とも接する要衝の地であった。このため奥三河の土豪、作手の奥平・田峯の菅沼・長篠足助の鈴木越後父子・武節の河手・名倉の戸田などと、東美濃の領主層である明知の遠山景行・景玄父子・苗木の遠山勘太郎・小里の小里光忠・光明父子をはじめ、串原・妻木氏などが集結し、その兵数5000ばかりが秋山軍2000と、12月29日上村において合戦した。上村とは矢作川上流の上村川に木ノ実川・飯田洞川が合流する付近を中心とし、各川の源流部までを含む地域を指す。美濃・三河連合軍は、秋山軍の劣勢を侮りその先鋒隊に総掛かりで突撃した。これを見た秋山は自ら手兵を率いて連合軍の右に廻り側面から切り崩し、本隊と挟撃して混乱するところを討ちに討った。三河勢は支えきれず戦場から離脱、そのほとんどが敗走し、残った美濃勢は500名近い戦死者を出して大敗した。殊に侍大将の景任の負傷、景行父子の討死に続き、小里内作光次・角野賦助・同角八・苗木の吉村源蔵などの外、名だたる豪勇の士30余騎を失った。翌年、武田24将のひとり秋山虎繁が城主として岩村城に入った。


【岩村城の女城主の伝承】
 景任の跡を継いだ御坊丸は幼少のため事実上の城主格となったのは景任夫人であった。この女性は信長の叔母とされており、織田家が遠山家と縁を結ぶために政略結婚によって遠山景任の室となったが、才色兼備の女性であったとされている。武田方では岩村城が織田方に転じたことを知ると、再び岩村城奪還を企図し、秋山虎繁に東美濃を攻めさせた。上村合戦の後、岩村城を包囲した秋山虎繁であったが、天然の要害である岩村城は連日連夜の攻撃にも耐えてなかなか落ちず、女城主と侮っていた虎繁も手を焼いた。そこで秋山は一計を案じ、景任未亡人との結婚、御坊丸の継嗣約束、城兵の助命等を条件に和議を持ちかけた。打開策を見出したい籠城側もこれを承諾し、結果として一夜で織田方の岩村城は武田の美濃における前線基地となってしまった。しかしこの岩村城開城は、旧景任直臣衆(遠山七人衆)と一門衆との対立に端を発した開城であったようである。秋山虎繁は岩村城へ入ると、和議の条件を違え、城主である御坊丸を武田軍の人質として甲斐へ送ってしまった。

【武田勝頼の東濃諸城攻略】
 天正2年(1574)、武田勝頼は東濃における織田方の諸城を攻めさせた。上村合戦の後、明知城の家督は若年の孫一行が継ぎ、援軍として坂井越中守が一族を率いて入城した。天正2年(1574)正月、武田家を継いだ勝頼は、初戦の舞台に遠山領を選んだ。勝頼は27日に岩村城に進出し、明知城と串原城(大平城)を囲んだ。この時一夜城に陣を構えたと伝えられている。木曽口からは木曽勢が阿寺城を攻撃した。迎え撃つ明知城には明知一行や坂井一族(このとき越中守は不在)のほか飯羽間友信など近隣の諸将も入城して籠城体制を整え、信長の後詰を待った。報を受けた信長は、2月1日に濃尾の軍勢に出陣を命じ、自身は嫡子信忠とともに6日に神箆城に入った。そして、明知城や一夜城を望む鶴岡山に陣城を築き(スワヶ根の砦)、勝頼との決戦に臨もうとした。ところがまもなく明知城では飯羽間友信が城内で謀反を起こした。坂井一族はことごとく討ち果たされ、10日以前に落城してしまう。串原城もほぼ同時に落城した。信長は遠山領の防衛をあきらめ、境目の神箆城に河尻秀隆、小里城に池田恒興を置き、両城の普請を命じて24日に岐阜に帰陣した。勝頼は、父信玄が失陥した領土の奪還に成功し、大いに武威を示したのである。

【織田信忠の岩村城攻略】
 武田勝頼は天正3年(1575)5月、長篠合戦で織田・徳川連合軍に歴史的惨敗を喫し、武田の威勢は転落し始めた。同年11月、信長は織田信忠を総大将とした二万の軍勢を岩村城奪還、武田勢一掃のため差し向け、自らは一万の兵を率いて後詰として神箆城(鶴ヶ城)に着陣した。このことによる武田勢の動揺から信忠は予想外の早さで東濃の大半を回復することができたので、信長はひとまず岐阜へ戻った。信忠は岩村城が要害であるので無理押しを避け、厳重な包囲網を配備して兵糧攻めに入ったため、城内に兵糧も尽き、城兵も戦い疲れた岩村方は「城兵の助命」を条件に開城した。しかし信長は岐阜に謝罪に来た秋山虎繁らを許すどころか磔にしたため、これに怒った岩村城では再び戦いが始まったが、織田勢はこれを散々に討ち破った。捕らえられたおつやの方も、間もなく信長の命により岐阜で処刑された。そしてこれ以降は、岩村城には遠山氏以外の勢力が配置されることになります。

【本能寺の変と東濃】
 天正10年(1582)、京都本能寺にて織田信長が明智光秀に討たれた事により、織田家臣団は混乱状態に陥ります。この時、信濃川中島四郡を領有していた森長可は本能寺の変の一報を聞くや、急遽、海津城から旧領の金山城へ退散する事となりました。しかし苗木城主遠山友政は肥田玄蕃允やその他の東濃諸豪と通じ、木曽谷の木曽義昌と示し合わせて長可を木曽谷の険で襲撃しようと画策しましたが、森長可は機知によって何とかその場を切り抜け、無事金山に帰参を果たします。そしてこの時の出来事が後の中濃・東濃平定戦に繋がる遠因ともなっていくようです。なお明智光秀討伐後の清須会議により、美濃国は信長の三男である織田信孝が領することとなりました。東濃の領主たちはこの後、美濃国主である織田方と敵対する羽柴方との間で再び揺れ動いていくこととなります。

 
こぼれ話ですが、明智光秀の正室は妻木氏の出自とされています。本能寺の変後、光秀と縁戚関係にあった妻木氏にも、何らかの罪が及ぶのが妥当だと思うのですが、その後も妻木氏は同じ東濃西部の地に留まっています。謀反人につながる一族が、以後も変わらず東濃の地を治めて続けているのは考えてみると不思議なことです。名門の細川家でさえ細川忠興の正室である細川ガラシャ(光秀の娘)を一時幽閉したのですから、妻木氏はどのようにしてこの難局を乗り切ったのでしょうか?地元の郷土史研究家の方は「本能寺の変を境にして血筋が替わったのでは」という仮説を立ててみえました。つまりそれまでの妻木氏が廃されて、代わりに領土を与えられた人物が、妻木という名跡もそのまま引き継いだのではというのです。名跡を継ぐという行為は武田二十四将の馬場信春や山県昌景の例でもわかるように珍しいことではないと思うので、一つの仮説として考えてもよいのではないでしょうか。

【森長可の中濃・東濃侵攻】

 本能寺の変後、森長可は敵対勢力の討伐を画策し、まず可児郡・加茂郡を平定すると、次は東濃地域へと矛先を向けました。土岐郡高山城主平井頼母に対しては、開城退去の使者を送り要求しましたが、これに応じなかったため自刃に追いこみ、一族を放逐しました。一説には平井頼母は森長可に対し降伏をしたという説も残っております。次に妻木城主妻木頼忠にも臣従するよう使者を遣わし要求しましたが、頼忠は拒否したので7月14日、家臣豊前市之丞を将とし、二百余騎をもって攻めさせました。頼忠は城兵を督して奮戦しましたが、到底勝てる見込みはなく和議にもちこみ、長可の下に降りました。なお、妻木氏も最初から抵抗することなく降伏したという説もあります。この長可の猛威に驚いた明知の遠山利景や小里の小里光明は城を棄てて徳川家康の下へ逃走しました。


【森長可の苗木城攻略】
 長可は苗木城主遠山友政にも使者を立て謝罪服従を促しましたが、友政はこれを拒否して使者を追い返してしまいます。そのため長可は幸田孫右衛門を大将として三千の兵を与え、苗木城を攻めさせました。8月5日森軍は東山道を東進し、和知・蛭川を経て苗木表へ進撃しようとしました。苗木方総勢八百余騎は城を出て、法政寺坂で迎撃しようとしましたが、森軍の先鋒隊八百ばかりが進んできたので、坂の上の山に兵を伏せ、敵が坂にかかった所へ一度に攻め下り、混乱する森軍を討ちに討って敗走させました。大将孫右衛門も討たれたので、森軍はやむなく金山へ撤退していきました。
 天正11年(1583)5月、長可は再び苗木城攻略に動きます。これに対して友政は大手に七百騎・搦手に五百余騎を配し、天然の要害に立て籠もりました。一方、長可も5月8日に出陣、大手の先鋒二千五百余騎が東山道を経て大井中津川宿に着陣し、搦手勢二千五百余騎も和知より細目を経て、高山血洗川の線に5月9日着陣しました。10日は軍議を行い、11日から搦手の方で戦いが始まりましたが、苗木城は東側大手に木曽川があり、森軍の攻撃は大手・搦手が別々に攻撃を仕掛けることになりました。搦手側は15日には搦手門まで攻め入ったが撃退され、苗木城には一歩も足を踏み入れることができませんでした。大手側も木曽川の水量が多くて渡河はできず、水量の引くのを待つ一方、搦手側の攻撃を強めさせ、落合から渡河して側面を突くよう別働隊を迂回させたりしました。大軍に包囲されて数日が過ぎた城内では森軍の後詰めに秀吉の大軍が来援するという情報が入り、友忠・友政は重臣を集めて改めて軍議した結果、主君を脱出させ後日再興を図ることになりました。20日の朝、搦手側の森勢が急に強襲を仕掛けはじめ、落合から川を渡ってきた敵が右翼側面を突き、一方大手側も筏や船で次々と城山の麓に取り着き、大手の坂道を攻め登りました。友忠・友政父子はこの騒ぎの中、坂下村へ退却し妻籠を経て遠州に向かいます。途中友忠は病死しましたが、友政は徳川家康の指示で榊原康政に預けられ、上州館林に住み時節の到来を待つこととなります。かくて森長可に反した諸将は全て討たれるか国外退去となり、長可は可児・加茂・土岐・恵那四郡十二万七千石の領主となり、秀吉に属して東濃の大勢力となったのです。


【森長可の東濃平定戦のおさらい】
 ・上恵土城主 長谷川氏→交戦、自害 ・大森城主 奥村氏→交戦、逃亡 ・久々利城主 久々利氏→謀殺
 ・根本城主 若尾氏→降伏 ・高山城主 平井氏→謀殺あるいは降伏 ・妻木城主 妻木氏→降伏
 ・小里城主 小里氏→逃亡 ・明知城主 遠山氏→逃亡 ・苗木城主 遠山氏→交戦、逃亡


 結果として抵抗した久々利氏は滅亡、苗木遠山氏、明知遠山氏、小里氏などは徳川家康を頼って東濃の地を落ち延びていきました。一方、森氏に従った妻木氏などは東濃に踏みとどまり、以後は森氏の与力として天正12年(1584)の小牧長久手合戦では羽柴方として参戦することとなります。


【天正12年(1584)小牧長久手合戦と東濃地域】
 天正12年(1584)3月に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の間で小牧長久手の合戦が始まりました。森長可も秀吉軍の主力として尾張国に出陣しましたが、初戦の羽黒の戦いで敗北してしまいました。これを受けて家康は、三河で待機する東美濃国衆に直ちに東美濃へ攻め込むよう命じました。遠山(延友)佐渡守とその子半左衛門尉、明知一行は23日に明知城を攻略し、次いで4月8日には岩村城を攻撃しました。また、小里光明は6月には小里城を奪還しています。東美濃の戦いは徳川方優位で進みますが、10月に石川数正を主将として行われた土岐市北部での戦い(高山表での戦い)では敗北を喫し、半左衛門尉が戦死しています。11月には秀吉と家康が和睦し、東美濃は森領とされたため、遠山氏や小里氏は再び退去し家康を頼りました。この後、東美濃は豊臣大名森忠政の分国となって検地などが進められ、国衆領は完全に解体されました。


【関ヶ原合戦勃発 再起を図る東濃領主たち】
 豊臣秀吉の死により、五大老であった徳川家康と五奉行であった石田三成との対立が本格化し、慶長5年の関ヶ原合戦が勃発します。美濃国においては主に西軍につく領主が多かったようです。関ヶ原合戦当時の東濃の領主を見てみると、一大勢力を誇っていた森氏は信州川中島への国替えの為すでに東濃を去っており、岩村城には田丸直昌、苗木城には川尻直次、妻木城には妻木家頼が配置されていました。なぜか森氏の与力扱いであったはずの妻木氏が森氏の国替えに追従せず、東濃の地に残っています。小牧長久手合戦の後に何があったのでしょうか。先を見越した徳川家康の策謀なのでしょうか。この時期、妻木氏の元には徳川家康から合戦に備えて居城を修築するよう書状が届いています。結果として東濃では西軍に味方した田丸氏と川尻氏に対して、妻木氏は東軍に味方しています。さらには、以前、森長可のために東濃の地を追われ徳川家に身を寄せていた苗木遠山氏、明知遠山氏、小里氏などの旧領主たちが家康の命により援軍として東濃に派遣され、旧木曾家臣団と協力して合戦に参加しています。東濃における関ヶ原合戦の始まりです。

【東濃での関ヶ原合戦@ 苗木城の奪回】
 関ヶ原合戦に際して家康と決別した苗木城主川尻直次は岩村城主田丸具忠と語らい、家老関治兵衛を城代とし、自らは西上して石田三成の麾下に入った。関ヶ原合戦が始まると、徳川家康は旧領を追われ家康方に逼塞していた旧苗木城主遠山友政、旧明知城主遠山民部・旧小里城主小里彦五郎などに故城の奪還を命じた。友政は苦節十八年、ようやく時節が到来したと勇躍して帰国、木曽路から山村・千村・馬場・小笠原の加勢を得た千七百余騎軍勢で故城を望む落合に本陣を置き、関治兵衛に対し岩村城の開城を迫った。友政はその後六百余騎を先発させ木曽川瀬戸の渡しを押し渡り故領に入り、夜に入って遠近の村々から松明をかざして集まり、篝火を焚き城を目指して押し寄せた。この有様を見た関治兵衛はわずかの城兵では支え切れぬと悟り、明朝敵が総攻撃を仕掛ける前に城を明けて退出することを下知し、夜中のうちに残らず落去した。翌8月16日朝、友政は無血開城を果たし、合戦後に苗木城主一万一千石を賜り、旧領を回復したのであった。

【東濃での関ヶ原合戦A 妻木氏の奮戦】
 関ヶ原合戦に際して西軍側についた岩村城主田丸直昌は老臣田丸主水に城を任せ大阪に急行した。東濃地方には古くから遠山系・土岐系諸将が割拠していたが、織豊時代に領国を追われて徳川の庇護を受けていた。それが関ヶ原合戦となると失地回復とばかりに一斉に蜂起、東軍の旗色を明らかにし、殊に妻木家頼は蜂起の首謀者でもあった。田丸主水は妻木城に近い土岐津・高山に砦を築き、諸将の扇動を封じ鎮圧しようとしたが、家頼は三河伊保の丹羽氏信らを誘い田丸領各所に放火してますます抵抗した。8月12日の多治見境での合戦、8月20日の柿野での交戦・田丸勢の高山城退却を経て、9月1日家頼は父傳入とともに高山に侵入し城攻めを図ったが、田丸勢は城に火を放ち土岐砦へ退却して立て籠もった。家頼は田丸勢の退路を遮断するため瑞浪寺河戸に砦を築き孤立させた。この時、土岐砦には田丸直昌の娘婿の福岡氏や嵐氏が立て籠もっていたとされる。またこの時、参陣していた小里氏と田丸方との小競り合いは清水・一日市場の戦いと呼ばれる。ちなみに大阪で田丸直昌が降伏すると、土岐砦も開城したようである。

【東濃での関ヶ原合戦B 田丸方の退去】
 田丸領内である明知城・小里城は岩村城の支城となっていたので両城には城番が居城していたが、遠山利景・小里光親は妻木家頼の支援を得て連合し、まず8月末から明知・小里両城の攻撃を始め、ついに9月2日明知城を、翌3日に小里城を奪回し、利景・光親はようやく故城に入ることができた。連合軍はさらに残る田丸の本城岩村城を攻めようとしたが、要害のため性急には攻略が難しく包囲して監視している最中、関ヶ原合戦が終わり、東軍の勝利によって城主田丸直昌も東軍に降り孤軍岩村城を守備していた城代田丸主水も利景に城を明け渡して退去した。

慶長5年(1600年)
8月未明
 
遠山友政が苗木城奪還
8月12日 田丸方兵300が多治見・池田に出動 妻木頼忠・家頼父子これを迎え撃つ
9月 1日 妻木父子、田丸方高山砦にせまる 田丸主水は高山砦を焼いて土岐砦に退く
9月 2日 小里・明知遠山連合軍が明知城を奪還
9月 3日 小里・明知遠山連合軍が小里城を奪還
9月15日 関ヶ原において東軍勝利
9月18日 徳川秀忠軍が東濃を通過し西上する
9月23日 東軍が大坂城へ入る
9月25日 田丸方が土岐砦を開城する(城主直昌はすでに大坂で降伏)
岩村城を開城する(妻木氏に城を明け渡すのを嫌い、苗木遠山氏に渡す)
参考文献『中津川市史 中巻 T』

【東濃での論功行賞】
 関ヶ原合戦での東軍の勝利により、東濃の領主層に対しても論功行賞が行われました。西軍であった田丸家と川尻家は領地没収、東軍に味方した妻木氏は本領安堵、東軍として参戦した苗木遠山氏、明知遠山氏、小里氏はめでたく旧領復帰を果たしました。ここで残念に思うのは妻木氏です。東濃で唯一の東軍として田丸軍と合戦に及んだにも関わらず本領安堵(約7500石)に留まったため、惜しくも近世大名の仲間入りを果たすことが出来ませんでした。あとどこかで2500石いただけなかったのでしょうか?東濃における3番目の近世大名の誕生を思うと残念です。もしかしたら小牧長久手合戦の時に豊臣方の森氏与力として参戦していたのが災いしたのでしょうか。因みに東濃の要衝である岩村城には東濃の国人領主ではなく、譜代大名の大給松平氏が新たに入封することになりました。

【徳川初期幕藩体制下における主な東濃領主と石高】
 徳川幕藩体制下において美濃国は主要街道筋に位置することや尾張藩に隣接する土地として重要視され、反乱防止や商業権益の確保等の理由もあって意図的に細分化されたようです。美濃国に大藩が存在しないのはそのためです。東濃の地もこの例外ではなく、主要な岩村城には譜代の家臣を入封させたり、一部を尾張藩領や天領として細分化させたため狭い地域に小大名や旗本や御家人が乱立するという状況になりました。主な領主は次の通りです。戦国時代に信州木曽谷を拠点としていた木曽衆も、この時新たに東濃の地で領土を賜りました。

◆岩村藩  大名格 松平家乗 約20000石(譜代大名) ◆苗木藩  大名格 遠山友政 約10500石(外様大名)
◆妻木領  旗本格 妻木家頼 約7500石 ◆明知領  旗本格 遠山利景 約6500石
◆小里領  旗本格 小里光親 約3500石 ◆釜戸領等 旗本格 馬場昌次(木曾衆) 約1600
◆久々利領 旗本格 千村良重(木曾衆) 約3000石

【武家諸法度 幕藩体制強化策と東濃への影響】
 <一国一城令>
 慶長20年閏6月(1615年)、徳川幕府は幕藩体制強化策のひとつとして一国一城令を発布し、これによって全国に2万と言われた城郭は激減しました。東濃地方も例外ではなく、存続が許された城は岩村城と苗木城のわずか2城だけとなってしまいます。しかし美濃国の中でもたった5城(他は加納城、大垣城、八幡城)しか存続が許されなかったのに対し、その中の2城が恵那郡に集まっているところに、東濃の歴史の面白さがみられます。これは美濃国で領地を与えられた支配大名の石高が少なかったせいもありますが、美濃国にわざと大藩を設けなかった徳川幕府の意図が幸いした結果とも言えるのではないでしょうか。そして岩村城、苗木城とも廃城になることもなく無事に明治維新まで存続しました。特に苗木城の遠山氏は1万石の小藩ながら城持ち大名として、江戸時代を通じて一度も転封されることがなかった珍しい大名でした。
  一国一城令で残った岐阜県の城の詳細はこちら

 <末期養子の禁>
 明治維新まで存続した領主がいる一方で、江戸時代初期には「末期養子の禁」という幕藩体制強化策により東濃から消えることになった領主もありました。「末期養子の禁」とは大名が死去した時点で正式に跡継ぎを決めていなかった場合、慌てて養子を迎え、家門の存続を図るということを禁じた政策です。現代と比べると医療技術も乏しかった時代には藩主が急逝するということはたいして珍しい事ではなく、特にお殿様が若くして亡くなり、実子もなく、跡継ぎもまだ定めていなかった場合には、この「末期養子の禁」により御家断絶という厳しい現実が待っていました。東濃でもこの「末期養子の禁」により古参の旗本であった小里氏が元和9年(1623)に、東濃最大の旗本であった妻木氏が万治元年(1658)にそれぞれ御家断絶と相成り、わずかに分家を残して、残された領地は天領や尾張藩領となってしまいました。この政策により江戸初期には全国的にも多くの取り潰しが行われましたが、これら大名・旗本の改易や減封、御家断絶といった処分は、失業浪人の増加という社会問題を生み出し、このことが原因の一端ともなり由井正雪の乱なども起こりました。しかし乱の平定後、幕府は失業浪人対策として、末期養子の禁を緩和する方向に切り替えることとなりました。


【解体される城址と現在】
 武士の時代も終わり明治の世となると、当然のごとく城の存在意義もなくなり、日本各地で解体払い下げが行われました。東濃の城も例外ではなく岩村城や苗木城も解体払い下げが行われ、現存する遺構もわずかに移築転用された城門などを残すのみとなりました。
 現在、苗木城は国史跡、岩村城は県史跡として整備され、岩村城では藩主邸跡に太鼓櫓等が復元されています。また江戸初期に廃城となった妻木城や小里城、明知城なども中世城郭の趣を残しながら、城郭遺構として登城が楽しめるように整備されています。さらに2007年1月に選定された『日本百名城』では、岐阜県の名城として、天下の岐阜城と並び、東濃の岩村城が選出されています。2017年に選定された『続日本百名城』では、岐阜県から郡上八幡城、大垣城の他に、苗木城や美濃金山城も選出されています。


東濃の城址については下記の史料館で詳しく知ることが出来ます。

 ◎岩村歴史資料館(恵那市岩村町)・・・・・・・・・岩村城、岩村藩などについての展示  入場料300円
    ※日本100名城スタンプ設置場所
 ◎苗木遠山史料館(中津川市苗木)・・・・・・・・・苗木城、苗木藩などについての展示  入場料330円
    ※続日本100名城スタンプ設置場所
 ◎しろやま妻木公民館(土岐市妻木町)・・・・・・・妻木城、妻木領などについての展示  入場無料
 ◎戦国山城ミュージアム(可児市兼山)・・・・・・・金山城などについての展示      入場料210円
    ※続日本100名城スタンプは隣の可児市観光交流館に設置            (2館共通券310円)  
 ◎可児郷土歴史館(可児市久々利)・・・・・・・・・可児市内の城址についての展示    入場料210円
                                           (2館共通券310円)

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