城址探訪記(2013)

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11月18日 陸奥国へ城址探訪       
会津若松城にいく(福島県会津若松市追手町)

【歴史】
南北朝の頃、葦名氏によって黒川城が築かれたが、文禄元年(1592)蒲生氏郷が7層の天守閣を建て外郭を築き、黒川の地を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名しました。その後、城主は上杉から再び蒲生そして加藤となり、寛永16年(1639)加藤明成が天守閣を5層にし、北出丸、西出丸を増築して現在の城跡を完成させています。
『現地案内看板より本文抜粋』


向羽黒山城にいく(福島県大沼郡会津美里町)

【歴史】
向羽黒山城は永禄4年(1561)、黒川城を本拠とし主に会津地域を支配していた葦名盛氏によって築城された城跡です。葦名盛氏は家督を息子の盛興に譲り、隠居の城として向羽黒山城を築城したと記されています。天正3年(1575)に盛興がなくなったため盛氏は再び黒川城に戻り、向羽黒山城は廃城になったとされています。その後会津を支配した伊達氏や蒲生氏、上杉氏の時代にも城として機能していた可能性は十分に考えられ、城の設備がかなり厳重で、何らかの手を加えられているようです。
現地案内看板より本文抜粋

神指城にいく(福島県会津若松市神指町高瀬)

【歴史】
神指城は蒲生秀行が宇都宮に移封となった後、慶長3年(1598)に会津の領主となった上杉景勝が、重臣の直江兼続に命じて築城させた城です。しかし築城半ばであった神指城も、徳川家康による会津征伐の情報を得るなどの情勢の変化により工事は中断されます。そして関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)には上杉家は米沢30万石に転封となり、神指城は完成を見ないまま廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】大河ドラマ「八重の桜」で前半の舞台となった会津若松城を初めて訪れた。しかし月曜日だというのにこの混雑具合には甚だ困った。赤瓦の天守や門跡、石垣などの写真を撮ろうと思っても、必ず観光客が入り込むという人だかりで、これが休日だったらどんな混雑具合なのだろうと思いながら、せわしなく城内を散策した。昔、会津を訪れた知人が現地のタクシー運転手から「あんなところ復元の建物しかないよ」と言われたと言っていたが、そんな言葉を一蹴するこの賑わい。やはり大河ドラマの力は恐るべきものだ。来年の大河は「黒田官兵衛」であるため、来年には福岡城や中津城のような黒田官兵衛ゆかりの城も活気あふれる状態になるのだろうか?あまり関係はないが、ぜひ岐阜県の城址にもおこぼれを願いたいものだ。

会津若松城の復興天守閣

向羽黒山城一曲輪の土橋跡

神指城遠景

11月17日 越後国へ城址探訪       
新発田城にいく(新潟県新発田市大手町)

【歴史】
新発田城は慶長3年(1598)に越後蒲原郡6万石の領主として加賀大聖寺から移封された溝口秀勝が、上杉景勝と戦い落城した新発田重家の城跡を取り入れて築いたもので、版籍奉還まで約270年間、外様大名溝口氏の居城となってきました。菖蒲城、船形城、狐の尾引城などとも呼ばれ、江戸末期には事実上の天守閣である三階櫓や大手門をはじめとして櫓が11、主な門が5棟ありました。
『現地案内看板より本文抜粋』


村上城にいく(新潟県村上市二之町)

【歴史】
村上城は室町時代以来この地方の地頭本庄氏の根拠地でしたが、慶長3年(1598)国替えでこの地に入った村上頼勝が大改造を加え、その後、堀直竒、松平直矩によって本格的に築造され、三層の天守がその偉容を誇っていました。天守は寛文7年(1667)に落雷によって焼失し、以後、建立されませんでした。別名、舞鶴城とも呼ばれました。
現地案内看板より本文抜粋

大葉澤城にいく(新潟県村上市大場沢)

【歴史】
大葉澤城は、西の宮山から東の寺山にかけて東西約1000mにわたり、空堀、竪堀、大小の曲輪があり、16世紀の戦国時代、鮎川氏がその名を馳せた大要害です。特に南斜面の連続竪堀が50数条見え、ことのほかすばらしい防御施設をもった城跡です。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】初めて下越地方を訪れたこの日は幸運にも朝から晴れ模様。快適な気候の中で目的のお城を順当に巡る。それにしても上越から下越まで新潟にはいろいろな城があるものだと思いながら、この日の最後に訪れたのは大葉澤城。東海地方の人間から見ると全く無名の城であるこの城が、実はこの日一番のワクワク感に包まれた城となった。事前のリサーチにて連続した畝形阻塞という遺構が特徴の城址ということは知っていたが、聞くと見るのとでは大違い。我が東濃にも明知城という畝状阻塞が素晴らしい城址があるが、規模や形など明らかに大葉沢城の方に軍配が上がる。飛騨の広瀬城や美濃の篠脇城も素晴らしい連続畝堀の城だが、遺構の整備度や分かり易さという点でも大葉沢城の方が勝っているように思える。この築城技術は越前朝倉氏の城址でよく見られるが、まさか山形県に近い下越の地でこの技術を見ることができようとは。新発田城三階櫓の三匹の鯱といい、村上城の山上の石垣群といい、やはり新潟の城は色々個性があって面白いです。

新発田城の復元辰巳櫓

村上城の出櫓跡

大葉澤城の畝形阻塞跡

10月13日 美濃国へ城址探訪       
金山城にいく(岐阜県可児市兼山)

【歴史】
天文6年に斎藤道三の猶子である斉藤大納言正義が山頂に築城、烏峰城と称し、それまで中井戸の庄の地名を金山村と改めました。永禄八年(1565)織田信長は東濃経路の拠点として森可成を金山城主として以来森可成・長可・忠政父子三代の居城として栄えました。信長の小姓として有名な森蘭丸は可成の三男であり、この金山城で出生したと云われています。しかしそんな森一族も浅井・朝倉軍との戦いでは可成と長男可隆が、本能寺の変では三男蘭丸・四男坊丸・五男力丸が、小牧長久手合戦では二男長可が戦死したため、最後は六男忠政が家督を継ぐこととなります。そして森氏の松代転封後、慶長6年に金山城は解体されたようです。『現地案内看板より本文一部抜粋』


【日記】金山城はこのHPでも東濃の七名城と銘打って詳しく紹介している城址であるが、今回久しぶりに訪れてみていささか困ったことがある。それは以前訪れた時に存在していた筈の説明看板のうち、いくつかがなくなっているのだ。このHPで扱っている城址の説明文は現地の案内看板を参考にしている部分も多い。もし従来の説明看板が歴史認識の見直しなどにより撤去されたならば、このHPの説明文も変えなければならないかもしれない。金山城は江戸初期に廃城になっているため、伝承に頼る部分も多く、縄張の詳細を知ることは難しい。頼るべきは地元の説明看板だったのに。うーん、困った。

金山城址の出丸石垣

10月12日 尾張国へ城址探訪       
名古屋城にいく(愛知県名古屋市)

【歴史】
名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また、大坂(現大阪)方への備えとして、清須(現清洲町)から名古屋へ遷府を決定し、加藤清正・福島正則・前田利光等北国・西国の諸大名20名に普請(土木工事)を命じ、天守閣や諸櫓の作事(建築工事)は、慶長17年(1612)にほぼ完成した代表的な平城です。その後、明治維新をむかえるまで名古屋城は、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。『名古屋城配布パンフレットより本文抜粋』


【日記】晴天の中、5年ぶりに訪れた名古屋城。5年前とは大きく違っている点、それは、@本丸御殿復元工事が始まった事、Aおもてなし武将隊が登場した事、B空堀の鹿が激減した事である。特に今回、名古屋城に訪れて初めて気づいたことは本丸御殿再建による従来の有名撮影スポットの消滅である。名古屋城の画像を検索すると、小天守と大天守が寄り添うように一緒に収まっている画像が圧倒的に多く表示される。自分もこれまで名古屋城を訪れた時には必ずこのスポットで写真撮影していたのであるが、もうあのアングルで撮影できないと思うと少し複雑な気持ちになる。だからこそ一層、本丸御殿再建の成功を願わずにはいられない。そして再建後の新たな撮影スポットの誕生を願うばかりです。

2008年の名古屋城
大天守と小天守のセット写真

9月21日 尾張国へ城址探訪       
犬山城にいく(愛知県犬山市)

【歴史】
犬山城は天文6年(1537年)現在の位置に天守が造営され、織田与次郎信康が城主となったが天文16年(1547年)岐阜の稲葉山城で戦死、その子織田十郎左衛門信清が城主となった。その後何代か城主がかわり文禄4年(1595年)石川備前守光吉が守った。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の後小笠原和泉守吉次が入城した。この石川、小笠原両氏の手によって、近世の犬山城が完成された。その後、平岩主計頭親吉のあと元和3年(1617年)成瀬隼人正正成が城主となってからは成瀬氏が継いで明治に至った。明治四年九代目正肥のとき廃藩置県で廃城となり天守を除くほかは殆ど取りこわされた。同24年濃尾震災で天守の東、南と西北の付櫓・城門がこわされたので、同28年旧犬山藩主正肥に城を修理するという条件で譲られ唯一の個人所有となった。平成16年4月からは個人所有から財団法人の所有となったが、それでも財団法人が所有する唯一の城となっている。
『犬山城パンフレットより本文抜粋』


【日記】ここ2,3日晴天が続いているこのタイミングに、木曽川越しの犬山城を撮影してみようと思い立ち、さっそく車で犬山城の対岸にある各務原市鵜沼へ。鵜沼駅横の駐車場からデジカメ片手に約2時間の散歩を試みる。まずは木曽川を挟んで岐阜県側を犬山橋からライン大橋を目指して歩き、次にライン大橋を渡って対岸の愛知県側へ移動、今度は犬山橋を目指して歩き、最終的にまた犬山橋を岐阜県側へ渡るというコースを歩く。見る角度によって太っちょになったり、スリムになる犬山城天守閣を楽しみながら気付いてみると約4kmの散歩もあっという間に終了。その間撮った天守閣の写真は120枚。これほどひとつの建物だけを中心に撮影したのは初めてのことで、別名白帝城の名が示すように、国宝犬山城は日本屈指の絵になる城郭なのだとあらためて実感した時間となりました。

木曽川と犬山城

犬山城天守閣

8月10日 陸奥国へ城址探訪       
涌谷城にいく(宮城県遠野郡涌谷町)

【歴史】
涌谷城は中世大崎氏の支族涌谷氏の居城でした。西南は江合川の内側に堀をめぐらし、東は深い沢と堤となる要害でした。天正19年(1591)に亘理重宗が入城し、以後277年間、仙台藩一門2万2千6百余石の涌谷伊達(亘理)氏の要害屋敷として知られました。
『現地案内看板より本文抜粋』


多賀城にいく(宮城県多賀城市)

【歴史】
今からおよそ1300年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果たしていました。周囲に塀(主に築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。平面形は不整方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁がありました。
現地案内看板より本文抜粋


【日記】今回の旅の最終目的として設定していた多賀城跡。当初は遺構を見ることよりも100名城スタンプを押すために立ち寄る意味合いが強かったのですが、考えが甘かったです。城としてよりも歴史として捉えた多賀城はとても面白い場所でした。何よりも屋外にいるボランティアガイドさんの多さにびっくり。暑い中、史跡のあらゆる場所で資料を持ったガイドさんが待機しており、聞きたい人には長く、さらりと流してしまいたい人には短くというように適切なガイドをしてくださいます。古代東山道の北の終点が多賀城でそれが岐阜県にもつながっていること、貞観年間の地震のこと、奈良時代から同じ場所に立っている城址碑を見に松尾芭蕉や正岡子規も訪れていることなど、長い歴史の雄大な話を聞きながら当初思っていた「簡単にすませてしまおう感」がいつの間にやら消えていました。もっと時間を取ればよかったと後悔したくらいです。多賀城は想像以上に面白い場所となりました。

涌谷城の模擬櫓

多賀城の正殿跡

8月9日 陸奥国へ城址探訪       
岩谷堂城にいく(岩手県奥州市江刺区)

【歴史】
岩谷堂城は柄杓ヶ城ともいわれますが、正式には岩谷堂要害屋敷の名で呼ばれました。万治2年(1659)の伊達(岩城)宗規入城以後、明治維新で破却されるまでの200年余り、岩谷堂伊達家5000石の居館として機能しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


胆沢城にいく(岩手県奥州市水沢区)

【歴史】
胆沢城は平安時代はじめの延暦21年(802)、陸奥国北半部を支配するため、坂上田村麻呂によって造られた古代城柵跡です。この造営には、相模・武蔵・上総など坂東諸国の浪人4000人が駆り出されました。これにより最後まで抵抗した胆沢の蝦夷の阿弖流為や母礼らは、田村麻呂に降伏しました。大同3年(808)には鎮守府が国府多賀城から分離して胆沢城へ移され、鎮守府胆沢城が成立します。陸奥北部とさらに北方支配の拠点とするため、鎮守府の官制を独立させ、胆沢城城司とするものでした。
奥州市埋蔵文化財センターパンフレット「史跡胆沢城跡」より本文抜粋

岩出山城にいく(宮城県大崎市岩出山)

【歴史】
応永年間(室町時代初期)大崎氏の家臣氏家弾正が築城し、天正19年(1591)豊臣秀吉の命を受けた徳川家康が伊達政宗のために榊原康政に縄張りさせ改築しました。城郭は外堀を巡らし、急峻な崖の上には土塁と内堀を備え、本丸、二の丸、三の丸も深い堀切で区画され、東西約800m、南北700mの大規模なものでした。政宗が慶長8年(1603)仙台の仙台城に移るまで12年間居城しました。その後第4子宗泰に1万5千石を与えて領主としました。
『現地案内看板より本文抜粋』


名生城にいく(宮城県大崎市古川大崎)

【歴史】
名生城はお奥州探題として広く東北地方を支配した大崎氏の本拠地となったところで、広大な段丘面を利用して築城され、規模・構想の雄大さは当時の大崎氏の権勢の大きさを示しています。しかし大崎氏は12代義隆を最後に滅亡、その後廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】数年前、山形県内をレンタカーで走っている途中に偶然通りかかった城輪柵を訪れてから、東北における「城柵」という遺構を初めて知った。それから秋田城、志波城、金沢柵、厨川柵など東北を訪れる度にどこかの城柵遺構に立ち寄っているが、今回も胆沢城という城柵跡に立ち寄った。興味のない人が見るとただの平原にしか見えないが、権威ある重要な遺構なのである。しかし自分も、おそらく城柵という知識がなければ、遺構の価値がわからずスルーしていたであろうと思う。やはり新しい知識を身につけることで自分の中での価値観を変えていくというのは大切なことだ。そしてこの日は、また新たな知識を身につけることができた。それは仙台藩における「要害」という知識だ。要害というと堅固な砦や障害になるものというイメージあるが、仙台藩でいう「要害」というのは、中世城郭をそのまま居館として使用したものを言うらしい。一国一城令の違反にならないのかと思うのだが、大藩である仙台藩では土地を与える地方知行制を取っており、あくまでも城ではなく要害という扱いであったらしい。「そういう手もあったのか」と逆に感心してしまうが、涌谷城や岩出山城をなど「要害」と位置付けられている遺構を見ると、「これは城だよ」と思ってしまいます。当時は徳川幕府から指摘されなかったのでしょうか。仙台藩、不思議です。

岩谷堂城の本丸址

胆沢城址

岩出山城の本丸内門跡

名生城の土塁跡?

8月8日 陸奥国へ城址探訪       
仙台城にいく(宮城県仙台市)

【歴史】
仙台城は初め千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代末から室町時代の中頃にかけて島津氏が陸奥守として居城したといい、室町時代末には国分氏が一時居城したと伝えられています。伊達政宗が自然林と断崖と川に囲まれた天然の要害青葉山に築城を開始したのは関ヶ原合戦直後、慶長5年(1600)のことである。この時、地名は千代から仙台に改められました。二代忠宗は寛永15年(1638)二の丸を造営、その後も整備拡充と被災を繰り返しながら幕末に至りました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】七夕まつり最終日ということもあってか、思いのほか仙台城は混んでいた。しかし仙台城自体は有名な城の割には大手門脇櫓くらいしか復興建築物も見当たらない。仙台城という遺構を純粋に見た場合、これだけ集客力がある理由は何だろうと思った。「石垣の博物館」としての位置づけは城好き人間にとってはそれだけで訪れる価値が十分あるが、城に対して特別な思い入れがない人は、この城のどこに観光価値を見い出しているのだろう。仙台を象徴する青葉城に来たという満足感か、伊達政宗に魅かれてか、武将隊を見るためか、景色を眺めるためか、とにかくこんなにも人を集めることができる仙台城は凄いと感じた。

仙台城の大手門跡

7月28日 伊賀国へ城址探訪       
上野城にいく(三重県伊賀市)

【歴史】
天正13年(1585)、伊賀国を領した筒井定次が三層の天守を築き、北に表門を構えた。慶長13年(1608)、筒井定次が失政を理由に改易された後、藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治城から移り、自ら縄張を指図、本丸を30mの高石垣で囲み、筒井古城を大拡張しました。しかし竣工直前の五層大天守は、慶長17年(1612)の暴風雨で倒壊し、そのうち大阪夏の陣で豊臣方が滅亡したので城普請は中止され、城代家老が執政することとなりました。
『現地無料配布パンフレットより本文抜粋』


【日記】今回3度目の伊賀上野城への訪問。伊賀上野城と言えば何と言っても高石垣。いつも訪れる時と同じように高石垣の上から水掘を覗き込む。高低差約23mの光景は、いつ来ても身のすくむ一方、魅力的な眺めだ。しかし一緒に行った人が何気につぶやいた一言、「柵がないと怖くて近づけない」。そうなのだ。考えてみると、なぜこんなに危険な箇所なのに柵がないのだろう?大きな石材が等間隔で並べてあるのが柵代わりなのかもしれないが、冷静に考えるとこれはやっぱり危ない!これまではそんなこと考えたこともなかったが・・・。しかし、もしここに柵ができたら観光地になりうるのだろうか?またリーピーターとしてもう一度来ようと思う人がいるのだろうかと考えると、やはりこの危険ではあるが身のすくむ景色が上野城の最大の魅力なのだと思う。出来るならこのままの姿でいつまでも存在してほしい。

伊賀上野城の高石垣

6月23日 飛騨国へ城址探訪       
荻町城にいく(岐阜県大野郡白川村)

【歴史】
荻町城は南北朝の頃に南朝の公家達が隠れ住んだ城と云われています。その後、内ヶ島為氏が信州より白川郷に入り帰雲城を築城した時、家臣の山下大和守氏勝が代々の居城としました。氏勝は天正の大地震により内ヶ島氏が滅亡した後は徳川家に仕えています。遺構は本丸の北・南・西の三面は絶壁となっており、特に腰曲輪などは設けない居館式の城であり珍しい様式と伝えられています
『以前あった現地案内看板より本文抜粋』


帰雲城にいく(岐阜県大野郡白川村)

【歴史】
帰雲城は寛正の初め(1460頃)内島上野介為氏によって築かれた城です。4代氏理の時代、天正13年(1585)旧11月29日、東海・北陸・近畿に及ぶ広範の地域を襲った巨大地震によって帰雲山に大崩落が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられている。埋没前の帰雲城の位置は確認されていない。
現地案内看板より本文抜粋


向牧戸城にいく(岐阜県高山市荘川町)

【歴史】
向牧戸城は寛正のはじめ(1460)将軍足利義政の命を奉じた内ヶ島上野介為氏が信濃国松代から白川郷に入り、当地に城を築き、白川郷はもとより川上郷、小島郷、さらには越中国砺波までを領する勢力の拠点となった所です。寛正5年(1464)内ヶ島氏は保木脇に帰雲城を築いてこれに移り、向牧戸城は家臣の川尻備中守氏信が城主となり、郡上郡及び高山方面からの侵入に対する備えとなりました。天正13年(1585)豊臣秀吉の命により、飛騨攻略に向かった越前大野城主金森長近が飛騨に入り、最初に攻められた向牧戸城は落城しました。
現地案内看板より本文抜粋


【日記】昨日の高山からの帰り、今日はせっかくなので世界遺産の白川郷まで足を延ばし、そのまま車で下道を走りながら東濃まで帰ることにした。白川郷の戦国時代と言えば内ヶ島氏。荻町城址から白川郷を眺めた後は、庄川沿いの帰雲城址、旧荘川村の向牧戸城址と内ヶ島氏ゆかりの城址を巡る。これだけの行程だけでもそれなりの距離があるはずなのに、戦国時代の内ヶ島氏は富山県砺波までもを勢力下に治めていたというから、考えてみると以外に大勢力だったことがわかる。そんな勢力がせっかく豊臣政権下で生き残る道が開けた矢先に天正大地震で滅亡したのは実に惜しまれる。東濃の苗木遠山氏が小大名として江戸時代末まで存続していたのを考えると、生き残っていたら一体どのくらいの勢力まで成長したのだろうか。江馬氏といい、三木氏といい、戦国時代の飛騨を彩った三大勢力がどれも大名として生き残れなかったのは本当に残念なことでならないとつくづく思います。

荻町城の土塁跡

帰雲城址推定地に立つ石碑

向牧戸城の堀切跡

6月22日 飛騨国へ城址探訪       
高山城にいく(岐阜県高山市)

【歴史】
高山城は金森入国以前は「天神山城」と呼ばれていました。飛騨の守護代である多賀出雲守徳言によって文安年中(1444〜49)に築城され、永正年間(1504〜21)には高山外記が在城していました。天正13年7月(1585)、金森長近は秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜りました。城地として天神山古城跡を選定し、築城は天正16年(1588)から始め、慶長5年(1600)までの13年間で本丸、二の丸が完成し、以後は子の可重によって更に3年で三の丸が築かれました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】今日は仕事の打ち合わせのため高山へ。打ち合わせまでの時間が少し空いたので久しぶりに高山城址への登城を試みる。それにしても高山城址にはそれなりに石垣が残っているのに、城としての知名度が思いのほか低いのはどうしてだろう。近隣の松倉城の方が図鑑などでは露出度が高いのではないだろうか。その理由は県内屈指の観光地に埋もれてしまっているからなのか、江戸期途中で城の役目が急に終わったためなのか。いずれにしても、もう少し日の脚光を浴びてもよい城です。

高山城本丸屋形跡の石垣

6月8日 尾張国へ城址探訪       
小牧山城にいく(愛知県小牧市)

【歴史】
織田信長は永禄6年(1563)、美濃攻略のため清州城から小牧山へ移り、山全体を城域とし、多数の曲輪を設けました。要所には重臣の館を置き、南方に大手道を開き、南西中腹には馬場を設けたといわれます。また小牧山南麓から西麓に城下町を形成しました。しかし永禄10年(1567)に美濃の斎藤龍興を攻略して岐阜城へ移り、小牧山城は廃城となりました。天正12年(1584)、豊臣秀吉と信長の二男信雄・徳川家康連合軍とが小牧山で対陣し、小牧市北部に陣を敷いた秀吉に対して、家康軍は小牧山城を主陣地とし、小牧山東方にも砦を築いて対抗し持久戦となりました。現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつ、新たに土塁や堀を築くなどして改修された家康軍の陣城の跡です
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】14年ぶりに小牧山城へ訪れた。最近の小牧山城は詳細な発掘調査も行われ、史跡公園として活気づいている。14年前に訪れた時と比べると史料館もリニューアルされ、明らかに公園自体が明るくなったような気がする。また所々に発掘状況を示した案内表示が建てられているのも嬉しい。昔、愛媛の道後公園(湯築城址)に行った時に、こんな公園が近くにあったら面白いのにと思ったことがあったが、東濃から近い小牧山がこのように様変わりしているとは想像もしなかった。名古屋城や犬山城とならぶ尾張を代表する城址である小牧山城。やはり三英傑に関わる城は面白い。

小牧城模擬天守

5月12日 尾張国へ検定受験       
日本城郭検定にいく(愛知県犬山市)

【日記】日本城郭検定なるものが存在するのを知ったのは、第1回日本城郭検定が既に実施された後であり、第2回検定が5月に開かれるとわかるや早速2月の内に犬山会場の3級と2級検定に申し込んだ。迎えた当日、試験会場には受験番号100という席まであり、思ってた以上に検定を受ける人がいるんだなあと感心するのも束の間、どうやら犬山だけでも3会場あるようで恐るべき城人気に驚くばかり。さらに会場にいた受験者の多くが公認テキストである日本城郭検定基本問題集の本を持参し、事前勉強をしている光景を見てまたびっくり。一般的な城郭本しか持ってこなかった自分が珍しいくらいだ。これで今日の検定問題の何割かがこの基本問題集から出ていたら、この先いったいどのくらい販売部数を伸ばすのだろうと想像しながら、自分も今後買うべきか迷ってしまった。肝心の検定問題はといえば、城の歴史、構造、エピソードなど様々な要素が詰め込まれた問題で城好きの人なら楽しみながら受験できるような内容で満足。

検定を受けて思ったこと・・・書物から知識を得ることも大事だが、やはり現地に行って実際に見て触れた記憶には敵わないという実感。検定問題を解いていて迷った時に頭に浮かぶのは本の活字よりも、頭に浮かんでくる城の映像と博物館の資料展示の記憶。これに勝るものは無し。上級試験を受けるためにも、さらに多くの城を回ることにしようという気持ちを改めて強くした日となりました。


試験会場の看板

5月5日 三河国へ城址探訪       
古宮城にいく(愛知県新城市作手)

【歴史】
古宮城は武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信房に命じ元亀2年(1571)に築城したと伝わります。城址は南北約200m、東西約250mの独立した小山全体からなっています。古宮城は南東北の三面が湿地になっており、西方は塞之神城に通じ主要部が東西に分かれた一部別郭式の要害堅固な城でした。愛知県内唯一の甲州流築城といわれています。要害を誇った古宮城も天正元年(1573)に奥平・徳川連合軍の手によって落城しています。
『現地案内看板より本文抜粋』


亀山城にいく(愛知県新城市作手)

【歴史】
亀山城は応永31年(1424)奥平貞俊が築城して、川尻城からここに移りました。その後、貞久・貞昌・貞勝・貞能・貞昌(後の奥平信昌)の5代が居城としています。天正元年(1573)8月、貞能・貞昌父子は古宮城に本拠を持つ武田勢の攻撃を受けましたが、石堂ヶ根・田原坂等に転戦してこれを敗走せしめました。天正3年(1575)、この戦功によって奥平貞昌(信昌)は織田信長から長篠城主を命ぜられました。同年5月には長篠・設楽ヶ原の戦いが勃発し、長篠城は武田勢1万5千の猛攻を受けましたが、貞昌はよく籠城に耐え、織田・徳川連合軍の援軍を得て大勝しました。戦後、貞昌は信長の一字をもらい信昌と改名し、新城に築城してこれに入り、家康の長女、亀姫を嫁に迎えました。慶長7年(1602)、信昌の第4子松平忠明が父祖の旧領であるこの亀山城へ作手藩1万7千石の藩主として8年間居城しています。
現地案内看板より本文抜粋

川尻城にいく(愛知県新城市作手)

【歴史】
川尻城は応永年間(1394〜1428)に奥平貞俊によって築城された中世の平山城です。標高570m、比高差40mの独立丘で、山上の本丸は東西75m、南北32mの楕円形をしており、当時は周囲に土塁をめぐらせていたと考えられます。後に貞俊は川尻城が手狭となり、より広い清岳に亀山城を築いて移りました。
『現地案内看板より本文抜粋』


文殊山城にいく(愛知県新城市作手)

【歴史】
文殊山城は亀山城主奥平氏の砦城で、元亀年間(1570〜1572)に武田氏との和睦の証として、塞之神城と共に築くはずでしたが、延引したため武田氏より強談に合い、奥平氏が城を一夜にして築いたので一夜城ともいいます。
『現地案内看板より本文抜粋』


塞之神城にいく
(愛知県新城市作手)

【歴史】
塞之神城は来歴の不明な城です。伝説も含め、古くは元亀年間(1570〜1573)に武田氏によって、奥平氏との和睦の際に合議によって築かれたともいわれ、また奥平氏が作手に来往する以前の米福長者時代に存在したとの推定もされています。いずれにせよ二時期にわたる構築が指摘されており、主郭とその東西の虎口部分、二の曲輪と堀切を含むその付属部分と普請の程度に明らかな差異がみられます。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】スギ・ヒノキ花粉の猛威も終息し、やっと城めぐり再開となったGW後半、愛知県新城市の旧作手村を訪れた。作手は東濃にも縁深い山家三方衆のひとつ奥平氏が治めた地であり、市町村合併するかなり以前から城址の観光資源化に力を入れているイメージがある。実際に訪れてみると約1.4km圏内に6つの城址が存在しているという環境もさることながら、それらをウォーキングコースとしてつなぎ、城址の縄張図のついた散策パンフレットまで作る力の入れようは凄い。そしてそれらを整備してみえる地元の方たちの志もまた凄い。さらに武田家が築城をおこなった最南端の地であるという歴史も凄い。こんなに凄い作手の城址なのに、GWの真っただ中、最も公園化された亀山城以外で出会った人は誰もおらず、静かに城址の散策ができたというのは良かったのだが、なんだかもったいない気がしてならなかった。そんな城址の中でも個人的には塞之神城の素朴な山城さが落ち着きました。

古宮城の空堀群

亀山城の本丸跡

川尻城の模擬冠木門

文殊山城の模擬物見台

塞之神城の土橋跡(中央部分)

2月17日 美濃国へ城址探訪       
苗木城にいく(岐阜県中津川市)

【日記】テレビの影響力は凄いもので、金曜日と土曜日に、NHKの城跡を紹介する番組で苗木城が取り扱われた途端、今日の苗木城は普段見たことがないくらいの盛況ぶりである。おそらく昨日もそうであったであったと思われるが、予想以上の賑わい方である。昨年の2月に訪れた時には、人に出会うことは全くなかったのに、今日は昼が近付くにつれ、どんどん人が増えてくる様子。城址の駐車場も、史料館の駐車場も普段見たことがないくらいに多くの他県ナンバーで埋まっていた。苗木城の静かで鄙びた感じは好きであるが、個人的には苗木城の素晴らしさがもっと多くの人に認識されることで観光地として活性化し、その結果、復元建造物のひとつでも建ってくれれば、それはそれで良い方向ではないかと思っている。風吹門か大門くらいなら石垣美の景観を損ねることなく、城ファンにも許してもらえるのではないかと思うのですが無理でしょうか。

最近整備された仕切門下の石段

1月12日 近江国へ城址探訪       
鎌刃城にいく(滋賀県米原市)

【歴史】
鎌刃城は鎌倉時代に箕浦庄の地頭であった土肥氏の居城として築城されたと伝えられています。城跡は村から離れた山中に立地しており、在地支配の城ではなく、軍事的な目的のためにのみ築かれた城のようです。鎌刃城は江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから「境目の城」として室町時代に築城されたと考えられます。城跡の規模は県内でも有数のものであり、鎌刃城が「境目の城」として重要視されていたことがうかがえます。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】2013年最初の訪城は滋賀県にある「境目の城」鎌刃城からスタートです。・・・が、新年早々なめてました。この日は根本的にどこの城に行こうかはっきり決めていなかった中での思いつきの訪城であり、当然のごとく登城口などのリサーチもほとんどしていない状態。さらに追い打ちをかけたのは、登城道にある小石や落葉や雪。いつも以上に滑りやすい状況の中、なんとかバランスを保とうと慎重に歩いたゆえに、想像以上に体力を消耗し、体の節々も痛いという結果が待っていました。やはり訪城には綿密なリサーチは欠かせません。この鎌刃城の教訓を踏まえながら、2013年の訪城を進めていこうと思います。今年はどんな城に出会えるのだろうか。

鎌刃城主郭の枡形虎口跡

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