城址探訪記(2015)

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12月28日 阿波・讃岐国へ城址探訪       
勝瑞城・勝瑞館にいく(徳島県板野郡藍住町勝瑞)

【歴史】
勝瑞は、室町時代に阿波守護細川氏によって守護所が置かれた地です。その後に阿波の実権を握った三好氏もまた当地を本拠としました。勝瑞城館跡は、三好氏の居館跡と推定されており、発掘調査では16世紀中葉頃から徐々に拡張し、最終的には幅10mを超す大規模な濠で区画された複数の曲輪からなる城館の姿が推定されています。基本的に平和な日々が続いた中世の勝瑞でしたが、天正期に入ると一気に激動の時代となり、この頃に勝瑞の防御のために土塁を持つ曲輪、勝瑞城跡が築かれます。天正10年(1582)8月、勝瑞へ攻め込んできた土佐の長宗我部氏との決戦である中富川の合戦で大敗を喫した三好勢は一ヶ月ほど勝瑞城館に籠城しましたが、城主の三好(十河)存保は持ちこたえることができず、開城して讃岐へ退きました。
『現地案内看板より本文抜粋』


引田城にいく(香川県東かがわ市引田)

【歴史】
引田城に関わる記述が見えるのは、江戸時代編纂の軍記物語『南海通記』にある応仁年間(1467〜69)に寒川氏が領したとあるのが初見です。戦国時代には阿波三好氏との攻防があり、引田城の城主は四宮氏、矢野氏など何度も変わりました。戦国時代の終わりごろの天正15年(1587)に、播磨国赤穂から豊臣秀吉の家臣である生駒親正が讃岐国を始めることとなりました。生駒氏は讃岐国支配の拠点とする高松城と並行して、慶長年間(1569〜1615)に西讃地方の支城として丸亀城、東讃地方として引田城を築きました。
『現地案内看板より本文抜粋』

撫養城にいく(徳島県鳴門市撫養町林崎北殿町)

【歴史】
天正13年(1585)蜂須賀家政が阿波に入国し、国内9ヶ所に城砦を設けた。阿波の九城という。撫養城は淡路渡海の押さえとして異母弟の益田内膳正忠を城番にし手勢300名を持って守らせた。寛永15年(1638)一国一城令により阿波九城は破却された。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】旅の最終日、この日訪れる予定だった徳島城は既に1日目に訪れてしまっていたため、代わりにどこに行こうか思案した結果、徳島と香川の県境にある引田城に行くことにした。これまで行った四国の城は石材が豊富に取れるためか石垣を利用した城が多い。引田城もそんな期待に反せず登城用の遊歩道を10分くらい進むと程なく西の郭の石垣が見えてきた。「期待した通りの石垣だ」と思って満足していると、さらに奥へと進んだ北の郭で待っていたのはさらに大規模な石垣群。「讃岐の東側にこんな立派な城があったなんて」と感激すると同時に、この3日間の疲れが吹っ飛ぶような清々しい気持ちになりました。2015年の締めくくりにこんな素晴らしい城に出会えるなんて本当に良い年となりました。

勝瑞城址の濠跡

引田城 北二の丸の石垣

撫養城の石垣

12月27日 阿波国へ城址探訪       
平島館にいく(徳島県阿南市那賀川町)

【歴史】
天文3年(1534)足利義冬は、阿波国の守護・細川持隆に迎えられて、平島庄の西光寺に入り、阿波公方を名乗った。その後10年のうちに、古津の地にあった城を修築し、移り住み居を構えた。その後270年あまりを経た文化2年(1805)になって、9代公方義根が家族と共に、阿波国を退去し京都へ戻るまで、人々は御所・平島館・公方館などと呼んだ。
『現地案内看板より本文抜粋』


牛岐城にいく(徳島県阿南市富岡町トノ町)

【歴史】
牛岐城の創建された時期は明らかでないが、戦国時代には阿波守護細川氏の家臣新開氏の居城であった。天正3年(1575)、土佐の長宗我部元親が阿波を侵攻し、周辺の諸城はすべて落城したが、牛岐城の新開道善だけは最後まで抗戦した。しかし天正8年(1580)に多勢に無勢でついに土佐軍の軍門に降った。阿波全土を平定した天正10年(1582)に長宗我部元親は道善を謀殺した後、弟の親康を牛岐城に配置し阿波南方の守備をさせていた。天正13年(1585)豊臣秀吉の四国攻略により四国を掌中にした秀吉は蜂須賀家政を阿波国の大名にした。家政は家臣である細山政慶を牛岐城の城代に任じて守らせた。政慶は間もなく牛岐の地名を富岡に改めたので富岡城と呼ばれるようになった。
『現地案内看板より本文抜粋』


日和佐城にいく
(徳島県海部郡美波町日和佐浦)

【歴史】
安土・桃山時代にこの地の豪族日和佐の末裔、日和佐肥前守が長宗我部勢の侵攻を防ぐため、標高60mのこの地に城を築いたとされている。天正5年(1577)長宗我部勢の侵攻により落城し、日和佐肥前守一族は軍門に降った。
『現地案内看板より本文抜粋』

一宮城にいく(徳島県徳島市一宮町)

【歴史】
一宮城は暦応元年(1338)、小笠原(一宮)長宗による築城とされ、鮎喰川の清流を前に臨み、背後には重畳たる山岳を控える県内最大級の山城跡である。一宮氏の山城として整備されたが、天正10年(1582)、長宗我部元親の侵攻を受け、また天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐時には、豊臣秀吉と長宗我部元親との攻防の舞台となった。同年、豊臣秀吉の命により阿波に封ぜられた蜂須賀家政は一宮城を居城としたが、翌年、徳島城に移ると徳島城の支城として、家臣の益田長行に守城させた。元和元年(1615)の徳川幕府の一国一城令によって、寛永15年(1638)廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


川島城にいく(徳島県吉野川市川島町)

【歴史】
川島城は、安土桃山期に三好氏の家臣川島兵衛進が居城していたところである。その後、天正13年(1585)蜂須賀氏が重臣林能勝に兵300名をおいて阿波の西押えとした。しかし元和元年(1615)11月一国一城令が出て廃城となる。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】この日は宿泊先の徳島市から南方に向かって訪城をし、最後に徳島市西端の一宮城まで戻ってくるというコースを設定。しかし平島館、牛岐城と順調に廻れたため、当初予定になかった日和佐城まで南下することに変更。そのため日和佐城を出発し、徳島市西部の一宮城についたのは午後2時半近く。四国だから東日本よりも日没は遅いといっても県内最大級の山城をじっくり巡るうちに当然の如く陽は傾いてくる。思い出すのは昔、行き慣れている地元の城を探索中に日没のため一瞬帰り道がわからなくなるというプチパニック状態を経験したことだ。山城での日没の怖さは十分に分かっているつもりであるのだが、反面、思う存分この城を楽しみたいという好奇心もどんどん湧いてくる。心の中で恐怖心と好奇心とを戦わせながら、足早に山中を駆け回り、何とか満足のいくレベルまで城を探索することができた。時間は午後4時。でも思いのほか辺りはまだ明るい。心の中で「あと一城廻れるかもしれない」という好奇心がまた打ち勝ち、さらに西にある川島城へと車を走らせる。さすがに到着したのは午後5時過ぎであるため、夕暮れというよりも夜に入っているくらいの薄暗さの中、デジカメの高性能に助けられながら、川島城(模擬天守)の外観と吉野川の風景ををカメラに収めることができました。でもやっぱり日没は怖い。なんせ城跡だし・・・。

平島館跡

牛岐城の発掘石垣

日和佐城の模擬天守

一宮城の本丸虎口


川島城の模擬天守

12月26日 淡路・阿波国へ城址探訪       
洲本城にいく(兵庫県洲本市小路谷)

【歴史】
洲本城は大阪湾を望む約130mの三熊山(高熊山・乙熊山・虎熊山)の上に築かれた水軍の城で、山の麓には館と港がありました。最初16世紀前半に安宅氏によって山の上に築かれ、天下を狙う三好四兄弟の洲本会談や、羽柴秀吉の淡路攻めなどの舞台となりました。戦国時代から江戸時代に初期までの国内の城郭の様式を色濃く残した壮大な城です。天正13年(1585)から慶長14年(1609)までの24年間城主であった秀吉配下の武将脇坂安治によって、山の上に総石垣の城が築かれ山の麓の居館部分と結び、東西に約800m、南北に約600mにも及ぶ縄張の洲本城の原型が完成しました。その後阿波藩の蜂須賀氏の時代になって、山の麓の居館部分が新たに洲本城として整備されることになりました。
『淡路文化史料館の配布資料より本文抜粋』


徳島城にいく(徳島県徳島市徳島町)

【歴史】
徳島城は、天正13年(1585)に阿波国の領主となった蜂須賀家政によって建設されました。築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力しました。徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川に囲まれ、東は堀を設けた自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸、南麓の御殿、西麓には隠居した藩主等の済んだ西の丸からなる平山城でした。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】洲本城は模擬天守閣が建てられている城です。模擬天守閣というと史実と異なる建築物ということで、どんなに立派な建物であっても現存天守や復元天守、復興天守よりも見劣りがしてしまいますが、今回訪れた洲本城だけは訳が違います。昭和3年に建てられた日本一古い模擬天守閣は、戦前からの遺物として、自分の中では模擬天守のラスボス的な存在であり、次に続く昭和8年建造の郡上八幡城、昭和10年建造の伊賀上野城を引き連れた様は、もはや水戸黄門の世界を感じさせます。現在、展望台としての役目は引退しているようですが、いつまでも残しておきたい貴重な鉄筋コンクリート遺産です。もちろん城跡としても素晴らしいので、もっとテレビでも取り上げられても良いかもしれません。

洲本城 日本最古の模擬天守

徳島城大手門

11月21日 美濃国へ城址探訪       
細野城などにいく(岐阜県土岐市)

【歴史】
細野城の築城については具体的資料に乏しいが、おそらく天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦時、或いは慶長5年(1600)関ヶ原の合戦時に築城されたと考えられる。関ヶ原合戦時には隣の柿野村で、東軍の妻木勢と西軍の田丸勢が戦ったとの記録がある。領主については不明であるが、城が位置する細野村は、室町期には妻木氏が、江戸期には岩村藩が治めている。立地から三河国側との関連性が強いと考えられるが詳細は不明である。
『現地案内看板より本文抜粋』

【日記】本日の登城は前回から始めた東濃城址の再探訪企画第2弾。今回は土岐市の城址、特にここ数年ずっと訪れてみたかった細野城への登城が入っています。細野城は文献に登場しない城址ですが、喰い違い虎口を有するという実に謎めいたお城なのです。これまでは登り口の情報がなく、道中不得手のため訪れるのを躊躇していたのですが、山登りをしている方のブログで細野城の記事を発見し、やっと今回の登城を思い立ちました。実際訪れてみると地元の方の熱心な整備活動のおかげで、所々に案内表示が施されており、当初の心配はどこ吹く風、道に迷うことなく城址に辿りつくことができました。途中、土岐市最高峰の鶴岡山山頂にも立ち寄りながら、整備の行き届いた素晴らしい城址を楽しみました。その後訪れた妻木城、高山城でも整備が行き届いており、1日を通して充実した城址巡りができました。それにしても城址の整備活動をしておられる地元の方のパワーはどこに行っても凄いです。大変頭が下がると同時に感謝の気持ちでいっぱいです。

細野城の堀切跡

11月3日 美濃国へ城址探訪       
刈安城などにいく(岐阜県瑞浪市)

【歴史】
刈安城は別名萩之島城といい、信濃守護小笠原氏が東濃に侵攻してきた応仁・文明の乱の時に大井城と共に落城したといわれています。城下には江戸時代の中仙道が通っており、もともと旧東山道を守る目的で存在した砦の可能性があります。城址は権現山にあり、小笠原氏の侵攻後は元亀年間に再建され西尾道永が守ったといわれています。

【日記】この秋は、城址探訪記で紹介していないだけで、県内の城址を散策したり、全国山城サミットに行ったりと自分の中ではお城ライフを楽しんでいる。ただ最近になってこのHPの存在意義を考え直した時、東濃地域により特化した情報をもっと扱わないと駄目だと反省し、HPのレイアウトの見直しや一段落していた東濃のマイナーな城址巡りを写真の撮り直しを含めて行おうと思い立った。その手始めにこの日は瑞浪市の刈安城、戸狩城、鶴ヶ城、釜戸陣屋跡などを巡ってみた。鶴ヶ城以外は案内表示も乏しく、中世城館報告書や岐阜県の山城の解説書を参考にしないと不安になるような城址ばかり。しかし山中に良好に残っている堀切や土塁等を見つけては感嘆の声をあげるなど、この日は久しぶりに地元で楽しい城めぐりができました。

城址に鎮座する刈安神社

10月12日 紀伊国へ城址探訪       
太田城にいく(和歌山県和歌山市太田)

【歴史】
来迎寺は岡山県高松城、埼玉県忍城と共に日本三大水攻めのひとつに数えられる太田城の本丸跡と伝えられる場所である。天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めに際し、太田党は太田左近宗正を大将として、約5千人が太田城に立てこもり、10万余人の秀吉軍に対して強く抵抗したため、秀吉軍は城を取り囲む総延長5〜6kmにも及ぶ堤を築き、水攻めをおこなった。
『現地案内看板より本文抜粋』


和歌山城にいく(和歌山県和歌山市一番丁)

【歴史】
和歌山城は天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を統一し、弟秀長の領地としましたが、その際、虎伏山の地を選び自ら縄張りし藤堂高虎等を普請奉行として本丸及び二の丸を築城させたのに始まります。翌14年から秀長の城代、桑山重晴が在城し、若山又は和歌山の城というようになりました。慶長5年(1600)浅野幸長が37万石をもってこの国の領主となり、その後弟長晟がこれを継ぎましたが、この間逐次城郭を整備しました。元和5年(1619)徳川家康の第十子頼宣が55万5千石を領して入城し、以来250余年御三家のひとつとして大いに栄えました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】和歌山城への訪城も実に13年ぶり。前回訪れた時に整備前だった西の丸庭園の御橋廊下も見事に復元されています。今回は時間もたっぷりあったのでボランティアガイドの方に案内をしていただき、西の丸や二の丸跡について説明していただきました。話が弾んでくると地元の方ならではのプチ情報や昔の様子などを聞くことができ、あらためてボランティアガイドという存在の有難さを感じました。昨日の大坂城の喧騒とは違い、穏やかな天気の中で久しぶりにゆったりした時を過ごすことができました。

太田城址碑

和歌山城復興天守と御橋廊下

10月11日 摂津国へ城址探訪       
大坂城にいく(大阪府大阪市中央区大阪城)

【歴史】
信長の後を継いだ豊臣秀吉が新たに大坂を手に入れ本願寺後に入るが、天正11年(1583)天下統一を狙う秀吉は新たに大規模な築城工事に着手、やがて三国無双と評される豪壮な城郭を完成させたが、この城も秀吉の死後17年を経た慶長20年(1615)大坂夏の陣の兵火にかかって全焼してしまった。夏の陣後、大坂は一時松平忠明の領するところとなったが、将軍秀忠はまもなく直轄地とし、元和6年(1620)から大坂城の大規模な修築工事を完成させ、寛永6年(1629)に完成したが、わずか36年後落雷のため天守が焼失し、以後江戸時代を通じて天守は再建されなかった。
『大坂城パンフレットより本文抜粋』


【日記】10年ぶりに訪れた大坂城。前回は真夏の訪問だったため、暑さに負けて城の隅々まで見られませんでしたが、今回は10月という事もあり前回見ていない箇所を重点的に見て廻りました。隅々まで城を見てあらためて気付くのは大坂城の偉大さです。石垣の美しさ、枡形の多さ、石材の大きさ、大坂城を見た後は名古屋城も熊本城も少し手狭に感じてしまいます。しかし最も驚いたのは大坂城内にいる外国人旅行者の多さ。他の方のブログで外国人が多いとの情報は得ていましたが、予想以上の人の多さに今回は写真を撮るのもひと苦労でした。

大坂城 重なり合う石垣美

10月3日 美濃国へ城址探訪       
岐阜城にいく(岐阜県岐阜市金華山)

【歴史】
岐阜城は、かつて、稲葉山城と称していました。金華山頂に最初城を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政で、戦国時代には斎藤道三の居城であったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄十年(1567年)八月、不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、その地名も「井の口」を岐阜と改め大胆な構想のもとに善政を施し、天下統一の策源地としてからでした。しかし慶長五年(1600年)九月、関ヶ原合戦の際、信長の孫秀信が西軍に味方したため東軍に攻め入られ、激戦の末落城しました。翌慶長六年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移されました
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】岐阜城に訪れるのは1年9ヶ月ぶり。前回と同様、仕事で岐阜市へ来た翌日の訪城でした。しかしいつ来ても岐阜城で聞こえてくるのは天守展望階に登ってくる訪問者の感嘆の声。この日もみなさん口々に360度の絶景を楽しんでいました。しかし考えてみると美濃国は手軽に360度の絶景が見られる城が充実しています。岐阜城を筆頭に郡上八幡城や苗木城などその絶景さは多くのブログやホームページ、旅雑誌で紹介されているほどです。岐阜城に訪れる度、美濃国の城の魅力を改めて感じてしまいます。

岐阜城からの眺望

8月24日 播磨国へ城址探訪       
姫路城にいく(兵庫県姫路市)

【歴史】
姫路城は府中に築かれた城で、16世紀中頃に黒田重隆・職隆父子が、御着城の端城として築いたとみるべきでしょう。天正8年(1580)、羽柴秀吉は播磨国を平定すると、織田信長の命により姫路城を築きます。この時、三重天守を持つ石垣造りの城郭となりました。慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の戦功で播磨国を与えられた池田輝政は、城を大改修します。羽柴時代の縄張りを踏襲しつつ、5重天守や高石垣を築き、規模も大きくしました。姫路城が完成するのは、池田氏のあと城主となった本多忠政の時代です。元和4年(1618)には西の丸を増築し、三の丸の御殿も整備しました。その後、城主は松平氏、榊原氏など親藩や譜代の大名が歴任し、酒井氏のとき廃藩置県となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】11年ぶりに訪れる姫路城。整備後、まだ漆喰が白く輝くうちに行かなければという思いで訪れました。前日から姫路城近くのホテルに泊まり、暗くなってからライトアップされた天守閣の撮影を開始。翌朝は7時台から訪城し、青空に白く輝く天守群を撮影。9時からの開城に対し、8時15分くらいからゲートの前に並び、開城したらあまり人が映らない様に素早く城門や櫓の勇姿をひたすら撮影しました。しかしさすがラビリンス姫路城。撮影しているうちに今どの方角に向かって進んでいるのかも分からなくなり、家に帰ってからの写真整理に物凄く苦労してしまいました。城の白さは堪能したので、次回はもっとゆっくり方角を確かめながら歩きたいものです。

姫路城 現存天守閣群

8月23日 安芸・備後国へ城址探訪       
広島城にいく(広島県広島市中区)

【歴史】
毛利氏は、南北朝時代から郡山城を居城とする一領主でしたが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽邸・大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正17年(1589)鍬入式を行いました。築城工事は穂田元清・二宮就辰を普請奉行として急ピッチで進められ、天正18年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしました。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、輝元に代わって安芸・備後二ヶ国の領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。
『広島城入城パンフレットより本文抜粋』


三原城にいく(広島県三原市)

【歴史】
三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10年(1568)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで、天正10年(1582)前後と、慶長元年(1596)のころ偉容を整えたといわれる。城は、海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】広島城の二の丸表御門から突起物のあるフェイスマスクのようなものを付けた1人の女性が出てくる。何かのコスプレをしているのは理解できたが、なぜ広島城をわざわざコスプレして歩くのか?と思いながら、二の丸表御門を潜るとコスプレをした人々がそこ等彼処に佇んでいるではないか。城を目的に来た自分からはその光景を受け入れるのに時間が掛かったが、どうやら何かのイベントをやっているらしいことが分かった。ホテルのネットで調べたら、どうやらこの日は「コスカレード鯉城7」というコスプレイベントが開催されていたようだ。今までいろいろな城を訪れたが、まさかコスプレイベントに出くわすとは!城よりもそちらの方が記憶に残った訪城でした。

広島城 復興天守

三原城 天守台

7月20日 近江国へ城址探訪       
彦根城にいく(滋賀県彦根市)

【歴史】
関ヶ原合戦後、石田三成旧領十八万石を得た井伊直政は、佐和山城を廃し新城彦根城の建設に取りかかった。工事は十二大名に役夫を割り当てる天下普請で実施され、直政亡き後、築城工事は二代直継に引き継がれた。徹底的に近江国内にあった旧城郭の部材を再利用したと伝えられ、天守は大津城天守閣、天秤櫓は長浜城、太鼓門は佐和山城、西の丸三重櫓は小谷城から運ばれたという。国宝に指定されている天守は、三重三階で、付櫓から階段を利用して一階に入る構造となっている。外観意匠は、極めて華美で切妻破風、入母屋破風、唐破風を多用し、最上階に回縁高欄が廻り、二層・三層目に華頭窓、一層目のみ下見板張りという、変化に富んだ姿を今に伝えている。
『新人物往来社発行 別冊歴史読本93 新・日本名城図鑑 より本文抜粋』


【日記】今回の彦根城の訪城は、同行者20人程に対して自分がガイド役を務めるというものでした。普段一人で好きな箇所を好きな時間だけ費やして巡っているため、限られた時間の中で彦根城の魅力を伝えるという企画はなかなかの難題です。「破風」、「華燈窓」、「打ち込みハギ」という用語説明から、「天秤櫓」や「天守」をはじめとする観賞ポイント、さらには「登り石垣」の構造説明など自分が面白いと思う話題を中心に1時間程のガイドをしました。後から思うと随分マニアックな説明をしたもんだと思いながらも、何人かが登り石垣の話を面白そうに聞いていたので結果オーライでしょうか。

西の丸三重櫓下の登り石垣

5月10日 美濃国へ城址探訪       
苗木城にいく(岐阜県中津川市苗木)

【日記】苗木城の進化が止まらない。行くたびに新たな整備の手が入っている。暗かったトイレがリニューアルされ、絶景を遮っていた木々が伐採され、所々に新たな石垣が復元されている。この日、特に目を引いたのは二の丸的場跡の整備.11月に訪れた時にはブルーシートから石積みが一部見えているだけの状態だったのに、現在は通路から的場方向に一直線に伸びる石垣が新たに増築されている。一昨年に整備された帯曲輪の石積み群といい、復元整備というよりは城を造っているという言葉の方が相応しいくらいの見事な整備っぷりである。最近は苗木城に観光バスで乗りつける団体客が増えているというが、ここまで整備されてしまうと1人100円くらいの入場料を徴収しても全く文句は出ないのではないかと思います。少額の有料化により、さらなる史料館の充実や城跡の整備に利用してほしいものです。

苗木城二の丸的場跡

5月6日 尾張国へ城址探訪       
古渡城にいく(愛知県名古屋市中区橘)

【歴史】
天文11年(1542)頃、信長の父織田信秀は、経済的基盤となる熱田を掌握し、東方の今川方に備えるため、このあたり(名古屋別院)に築城した。城は東西140m、南北100mの平城で、周囲に二重の堀が巡らされていたといわれる。天文17年(1548)、信秀は末盛城に移り、この城は廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


末盛城にいく(愛知県名古屋市千種区城山町)

【歴史】
天文17年(1548)織田信秀はこの地に城を築き、古渡城から移った。守山城を守る弟信光と連携して、三河の今川方に対する備えのためであった。天文21年(1552)、信秀はこの城で病死し、三男信行が城主となった。その後、信行は、兄信長と対立し、稲生原の合戦を起して敗れ、永禄元年(1558)清州城で謀殺された。城は翌年廃城となったといわれる。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】今回訪れた末盛城はとても面白い城址です。城址のある場所は、地下鉄東山線の覚王山駅と本山駅の間というかなりの市街地にあるはずなのに、規模の大きい空堀が周囲を取り巻いているという珍しい光景を見ることができます。以前から名古屋市内の空堀が残る城として知ってはいましたが、実際訪れるとその規模は想像以上です。空掘だけ見ていると、関東の滝山城を思い浮かべてしまう程の見事な遺構です。大都市名古屋の繁華街・栄から地下鉄で10分の場所にあるにも関わらず、これ程の中世城址が残っているなんて、ここは日本の中でも奇跡の場所です。さすが尾張の国を代表する織田家の城。すばらしいです。

古渡城址碑

末盛城の空堀跡

4月27日 紀伊国へ城址探訪       
鵜殿城にいく(三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿)

【歴史】
築城当時は河口を出入りする船や、沖を航行する船、街道の人の往来等によって、その時代の情勢を知るうえで重要な位置にあったと思われる。室町時代に入ると、紀伊半島の武士団は、南北両朝に分かれ戦ったので、鵜殿城は軍事的にも重要な存在だった。鵜殿氏は興国4年(1341)南朝方から北朝軍に転じたため川奥の南朝勢から攻撃を受けることになり、租野谷以北の南朝軍が押し寄せた。興国4年9月に北朝軍に勝利した南朝軍は、鵜殿城に押し寄せ、戦いは日夜4日に及び、南朝軍を追い返した。
『現地案内看板より本文抜粋』


赤木城にいく(三重県熊野市紀和町赤木)

【歴史】
赤木城の築城年代については、「紀伊風土記」には天正年間、藤堂高虎と羽田長門守の両人が北山代官の時に築板と記されている。また「倉谷家文書」には天正16年(1588)豊臣秀長の北山攻めの後、築城したとある。藤堂高虎は天正13年(1585)の紀州攻めの際、北山入りし、文禄4年(1595)四国伊予三郡を与えらるまでの11年間、北山付近に在居し、この間2度の北山の陣で一揆方を成敗したり、北山材の切り出しを行っているので、この頃に現在の城郭に整備したものと考えられる。
『現地案内看板より本文抜粋』


鬼ヶ城本城にいく
(三重県熊野市木本町)

【歴史】
大永初年(1521)、この辺の一帯を治めていた有馬和泉守忠親が山頂に隠居城を築きました。標高153mの山頂に築かれた城は東西30m、南北330m、堀切を3ヶ所、城廓を十数ヶ所有するこの地方最大規模の山城でした。
『上記は「世界遺産鬼ヶ城・鬼ヶ城センター HP」の紹介文を掲載』

【日記】今回、自分を東紀州の旅に向かわせた最大の要因は赤木城を訪れることにある。赤木城は観光パンフレットに載っているにも関わらず、城マニアを除いては、御世辞にも高い知名度だとは言えない。名築城家の藤堂高虎が手掛けた総石垣の城ならば、我が東濃の岩村城や苗木城などを凌ぐ人気を誇っても良さそうなものであるが、知名度がいまいち低いのはその辺鄙な土地柄のせいであろうか。昔、参加した歴史講習会で講師の方が「現在のアスファルト道路ではなく、当時の街道が走っていた場所を想定しながら、城の立地を考えないといけない」とおっしゃられていたが、赤木城こそがまさにそれに該当する城なのだろう。現在は辺鄙な山間部の集落でも、当時においては重要な統治や経済、軍事の拠点だったのだ。もっと赤木城の素晴らしさをみんなに知ってもらいたいものだが、竹田城のように人が押し寄せて近づきづらくなってしまうことだけは避けてほしいものです。でもここは本当に素晴らしい良い城ですよ。

鵜殿城主郭跡の土塁

赤木城主郭跡の虎口

鬼ヶ城本城の主郭跡

4月26日 紀伊国へ城址探訪       
新宮城にいく(和歌山県新宮市新宮)

【歴史】
新宮城は、関ヶ原合戦の後、和歌山城主となった浅野幸長の家臣・浅野忠吉が新宮領を与えられて、慶長6年(1601)に築城を開始した城である。元和元年(1615)の一国一城令でいったん廃城となるが、同4年、再建を許され、再び築城が始まる。元和5年(1619)、浅野氏に代わり徳川家康の十男頼宣が紀州に入国し、同時に頼宣の付家老として、新宮に水野重仲が入った。重仲は忠吉の築城工事を継続し、寛永10年(1633)、城は完成をみる。以後、明治の廃藩置県により廃城となるまで紀州藩新宮領支配の中枢として機能した。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】15年ぶりに新宮城にやってきた。以前訪れた時は、まだ趣味として城めぐりを始める前であり、城=建物という知識しか持ち合わせていない普通の人間だった。当時はただ時間潰しに登って景色を眺めた高台でしかなく、夏に登って疲れた思い出と大きめの石が積んである公園という記憶しか残ってない。当然写真なぞは1枚も撮っていないという今思うと大変もったいない事をしていたものだ。しかし城めぐりを始めるうちに石垣のある城の素晴らしさに気づくようになると、大きな石の公園として記憶していた新宮城が、次第に自分の中で再び訪れたい場所だと思うようになってきた。今回は石の公園ではなく、城址としての認識で、時間をかけてゆっくりと本丸・鐘ノ丸・松ノ丸・水ノ手・二ノ丸を見て回った。以前には整備されていなかった水ノ手の炭倉跡など、他の城にはない唯一の遺構を見ながら、15年かかって新宮城の素晴らしさを認識した1日となりました。

新宮城水ノ手曲輪跡

2月14日 尾張国へ城址探訪       
小牧山城にいく(愛知県小牧市)

【歴史】
織田信長は永禄6年(1563)、美濃攻略のため清州城から小牧山へ移り、山全体を城域とし、多数の曲輪を設けました。要所には重臣の館を置き、南方に大手道を開き、南西中腹には馬場を設けたといわれます。また小牧山南麓から西麓に城下町を形成しました。しかし永禄10年(1567)に美濃の斎藤龍興を攻略して岐阜城へ移り、小牧山城は廃城となりました。天正12年(1584)、豊臣秀吉と信長の二男信雄・徳川家康連合軍とが小牧山で対陣し、小牧市北部に陣を敷いた秀吉に対して、家康軍は小牧山城を主陣地とし、小牧山東方にも砦を築いて対抗し持久戦となりました。現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつ、新たに土塁や堀を築くなどして改修された家康軍の陣城の跡です
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】『小牧山城で3段目の石垣を発見!14日に現地説明会』というニュースがテレビやYahoo!等で発信されたためか、今日の小牧山の主郭部分はかなりの人々で混雑している。テレビクルーの姿も見られ、狭い区画内に人々がひしめき合っている様は、地元で行われる発掘説明会とは雲泥の差。さすが信長関連の城址は凄いです。今回の説明会ではこれまでに見つかっていた2段の石垣のさらにその下で3段目の石垣が取り巻いていることがわかったこと、またその形状は腰巻石垣となっていることなどが説明されました。しかし考えてみると自分が小牧山城に目を向けるようになったのはつい最近のこと。小牧山城は信長が本拠とした城のひとつですが、他に本拠城であった清州城、岐阜城、安土城と比べると在城期間の短さもあってか正直昔から少し見劣りする気がしてました。しかしここ何年かの発掘調査の成果で、小牧山城が実は石垣で固められていた城という事がわかり、自分の中での興味も俄然湧いてきました。近江国ならまだしも永禄年間の尾張国でこれほど大量の石垣で固められた城郭があったなんで驚きです。こんなに素晴らしい城郭が東濃のすぐお隣に存在していたなんて。そりゃ美濃国が信長の下に従うわけです。

主郭部分 1段目、2段目の石垣群

主郭部分 3段目の石垣群

2月1日 美濃国へ城址探訪       
加治田城にいく(岐阜県加茂郡富加町加治田)

【歴史】
加治田城は戦国時代は却敵城とも呼ばれていました。織田信長の侵攻に備え、斎藤方である関城主長井道利を盟主として、堂洞城主の岸信周、加治田城主の佐藤忠能は反信長の盟約を結んでいました。犬山城を攻略した信長は、永禄8年(1565)木曽川を渡り鵜沼城、猿啄城を攻め落とし、岸氏が守る堂洞城へと進軍してきました。この時、信長方に寝返った加治田城の軍勢が北面の加治田から攻め入り、堂洞城は落城しました。佐藤忠能は堂洞城落城後には信長家臣の斎藤新五と共に、関城主長井道利の反撃を衣丸で迎え撃ち、翌日に関城も落城しました。中濃三城の陥落後、信長の命により斎藤新五が佐藤忠能の養子となり加治田城主を継ぎました。その後の加治田城は天正10年(1582)の加治田兼山合戦をしのぎましたが、森長可の領地となり廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


今城にいく(岐阜県可児市今)

【歴史】
今城は、天文年間(1532〜1555)に、小池家継が築城したといわれている。比較的規模の小さい山城であり、土塁に囲まれた曲輪がほとんど破壊されずに残っている。永禄8年(1565)に中濃を平定した織田信長は、森可成を金山城主とし東美濃の旗頭とした。小池氏は可児市南西部を支配していた地方豪族であったが、この時期に信長に帰順し、森氏の家臣になったとされる。天正10年(1582)に信長が本能寺の変において討たれると、それまで森氏に従っていた東濃の武将たちはこぞって反旗を翻し、小池氏も同様に反抗したが、森長可に鎮圧され、長可の命により今城を立ち退き、帰農したといわれている。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】なんだこの整備度は・・・。これが今回訪れた加治田城と今城の感想だ。地元の方を除いて城マニアや余程の歴史好きでない限りその存在を知らないのではないかと思われるような2城の整備度がすごい。過去に登城された方々のHPやブログから「整備されていて訪れやすい」という情報は持っていたが、実際に訪れてみてその想像以上のレベルに感動してしまいました。冬場とは言え、登山道として整備されている加治田城では林道の下草刈りが完璧で、倒木もなし。道に迷わないように標識と見取り図が何ヵ所かに立っていて親切すぎるくらいのおもてなし。今城などはもはや山城の雰囲気はなく開放的でベンチがあれば座って本でも読みたくなるくらいの史跡公園と化している。晴天の中、先週訪れた猿啄城のように汗だくになることもなく、快適な山城ウォークを楽しむことができました。ただどちらの城でも人と出会うことはなく、道中が少し心細くなる登城でした。せっかくの整備が惜しい。

加治田城の登山林道の案内板


今城の登城口

1月24日 美濃国へ城址探訪       
猿啄城にいく(岐阜県加茂郡坂祝町勝山)

【歴史】
猿啄城は、記録によれば、応永の頃(1407)西村豊前守善政の城であったという。下って享禄3年(1530)より田原左衛門の居城となる。天文16年(1547)同族の多治見修理は謀叛して城を奪い、以後18年間在城したが、永禄8年(1565)織田信長は丹羽長秀に命じて中美濃を攻めさせ、その緒戦で先陣の河尻鎮吉によって落城した。このとき、信長は幸先よしと猿啄の地名を勝山と改称、以後勝山城となる。功により河尻鎮吉は勝山城主となるが、天正3年(1575)岩村城へ移るに及んで廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】今まで何度も猿啄城址の前を車で通り過ぎているが、その急峻な山の頂にある展望台をみて登城するのをためらっていた。大変な目をして登ってもそれに見合う遺構や歴史的思い入れがあまりないというのが理由だが、今回は山歩きをされている方のブログを偶然見ていたら登ってみたくなり、初めての登城となりました。山歩きをされている方のブログで紹介されているだけあって、城目当てで頂上に来ている人よりも、圧倒的に山歩き目的で訪れるハイカーの方が多い。城址から延びる尾根づたいに隣の山へ向かう人々もかなりいるため、人の流れも速い。岩村城でもこれだけの人と出くわすのは稀である。今まで城址という価値観でしか見ていなかった猿啄城ですが、ここはハイカーの間では有名な山歩きコースなのだということがよくわかりました。

猿啄城址の二重櫓風展望台

1月11日 近江国へ城址探訪       
佐和山城にいく(滋賀県彦根市佐和山町)

【歴史】
佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期に近江源氏佐々木定綱の6男時綱が、佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝える。その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境目の城ととして攻防が繰り返された。やがて湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開されることになる。信長・秀吉の時代にも佐和山城は近江の要衝を守る城として重視された。信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、安土城築城までの間、佐和山城が安土城の機能を維持した。秀吉の代も、堀秀政、堀尾吉晴、そして五奉行石田三成と、佐和山城に重きを置く姿勢は変わらなかった。関ヶ原の戦い後に落城し、やがて廃城と化しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】2015年の訪城は佐和山城からのスタートとなりました。佐和山城は石田三成の居城として歴史的にも有名ですが、訪れてみると関ヶ原から思いのほか佐和山が近いことに驚きます。関ヶ原の合戦は三成の居城のすぐそばで行われていたんですね。佐和山城は破却さた時、石垣や建物が彦根城建築に使われたこともあり、遺構がほとんど残っていない印象を持っていたので、今まで訪れる意欲が低かったのですが、実際に訪れてみると城域は広く、とても見ごたえのある城址です。西の丸では発掘調査が行われている模様で、今後、城域がどのような発見があるのか目の離せない城になりそうです。

佐和山城本丸の石積み(中央の石)

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