城址探訪記(2019)

※黒字は歴史をグレーの文字は管理人の勝手なコメントです。


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  城址探訪記2013


8月7日 備前・備中国への城址探訪
庭瀬城へゆく (岡山県岡山市北区庭瀬)

【歴史】室町時代の末頃、備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝場城とも呼ばれた。一帯は泥沼地で非常な難工事であった。その後宇喜多の重臣戸川肥後守達安が入り、古城を広げ城下町を整えた。元禄12年(1699)板倉氏の居城となり明示を迎えた。
『現地案内看板より本文抜粋』


撫川城へゆく (岡山県岡山市北区撫川)

【歴史】撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。この城は永禄2年(1559)に備中成羽城主三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(1582年)には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、当時の城主井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多の支配下になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。戸川氏は安風(4代目)で断絶しますが、その弟達富が撫川領分を継ぎ「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けれれていますが、もともとは一体の城でした。
『現地案内看板より本文抜粋』


岡山城へゆく (岡山県岡山市北区丸の内)

【歴史】備前国邑久郡から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573)の秋であった。石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。その子八郎秀家は、天正18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597)天守閣が落城するにおよんで城普請は完成した。これが豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城である。秀家の築いた天守閣は、2階建ての建物を大中小の3つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城」の別名がある。
『現地案内看板より本文抜粋』


備中高松城へゆく (岡山県岡山市北区高松)

【歴史】高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)の中国役の主戦場となった城跡として有名である。城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今回は本当に久しぶりに岡山を訪れました。岡山は城巡りを始めた約20年ほど前にはよく訪れていましたが、今回はその頃よりも知識を身につけての訪城となります。この日に廻った庭瀬城や撫川城、高松城はいわゆる「沼城」と称される構造を持つ城です。自分が住んでいる東濃は山地であるため、そもそも平城自体が少ない上に、さらに沼を利用した城となると、簡単にはお目にかかれない遺構です。それらの遺構を見学する中で何よりも驚いたのが、庭瀬城址付近の民家の光景。民家が堀の水面とほぼ同じ標高に建てられており、特に堤防のようなものもなく、庭に小舟でも置いておけば、すぐさま舟での移動ができるような感じでした。かつての大垣城や津城もこのような光景だったのかと思いながら、沼城の面白さを堪能しました。

庭瀬城址の水堀跡



撫川城址の石垣



岡山城の復興天守閣



高松城址 本丸跡

5月3日 美濃国への城址探訪
大桑城へゆく (岐阜県山県市大桑)

【歴史】建久年間(1180〜1198)に山県氏流大桑太郎が大桑郷に領を構えて定住していましたが、大桑太郎領地没収後に、代わって逸見義重が入封し数代に渡って大桑城に居住しました。14世紀末から15世紀末にかけては美濃国守護であった土岐氏の一族が大桑に住み、天文4年(1535)になると大桑城は土岐氏の府城として機能することとなります。東濃の地から美濃国守護として大富館→長森城→川手城→大桑城と府城を移した土岐氏にとって大桑城は最後の府城となりました。大桑城は斎藤道三の国盗りの舞台となり再三にわたって攻撃を受け、天文21年(1552)ついに落城となり、美濃守護土岐頼芸は東国に落去となりました。
『現地案内年表を参考に本文作成』


黒野城へゆく (岐阜県岐阜市黒野)

【歴史】黒野城跡は加藤氏の居城で、7面積17.523u、本丸築堤の高さは5.4mあり、その周囲の濠は水をたたえて昔の面影をよく残しています。西南の入口付近には今でも城門の礎石があり、周辺には惣門口、木戸、二之丸、井之上、徳田屋敷などの地名が残っています。加藤光泰は、始め斎藤龍興に仕えていましたが、斎藤氏滅亡後は織田・豊臣氏に仕え甲斐国甲府城主として、24万石を領したが朝鮮の陣中で没しました。その子貞泰は幼なかったため領地を減封され、文禄3年(1594)甲府城より黒野城に移って4万石を領した。関ヶ原合戦には東軍に属し、慶長15年(1610)まで15年間、居城としていたが同年伯耆国米子6万石に移封となり、黒野藩は短期間で終わりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】約16年ぶりに訪れた大桑城は、近年になり林道が整備されたため、お手軽に主郭近くまで車で登れるようになりました。またこれまでの登城道も、16年前と比べて格段に整備が行き届いているため、以前は確認することが難しかった遺構も明瞭に観察することができるようになっています。今回いつものように縄張図を参考に、主郭下の登城コースから少し外れた帯郭跡や石垣を観察していると、自分より先にその場を訪れ観察している一人の女性がいた。さらに場所を変え、他の登城者があまり入っていかない西南側の腰曲輪群跡に下りて行くと、先程と同じ女性がまた先に来ていて熱心に遺構の観察をしていた。最近は山城でも若い女性のグループと出会うことが多くなりましたが、それでも普通の見学路から外れて一人熱心に観察している女性に出会ったことに衝撃を受けるとともに、妙に感激してしまいました。

大桑城址 主郭下の石垣




黒野城址 堀と土塁

4月22日 信濃国への城址探訪
砥石城へゆく (長野県上田市上野)

【歴史】砥石城は本城を中心に北に桝形城、南に砥石城、西南に米山城の四要害から構成されている堅固な連郭式の山城である。築城年代は明らかではないが、戦国時代、坂城の村上氏が小県方面へ進出する拠点としていた。天文19年(1550)村上義清が武田晴信(信玄)の軍を大敗させ、世に「武田の砥石崩れ」と言われたが、翌20年真田幸隆(幸綱)は調略を用い、独力で攻略した。やがて幸隆の子昌幸は、この城を居城としたが、天正11年(1583)上田城に移った。それ以後も上田城外護の要害として重要視された。
『現地案内看板より本文抜粋』


上田城へゆく (長野県上田市二の丸)

【歴史】上田城は、真田昌幸によって天正11年(1583)から築城が開始された平城である。城郭自体の規模はさほど大きくはないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防衛陣地としている。この上田城の特性は、天正13年(1585)と慶長5年(1600)の2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。しかし、真田氏の上田城は、関ケ原合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓や石垣は、寛永3〜5(1626〜28)にかけて仙石忠政によって新たに築き直されたものである。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】砥石城塞群の米山城から砥石城へと向かう道中、急な斜面に延々と続く丸太の階段を見て思わず辟易した。この果てしなく続く階段に疲れが倍増する一方、「よくこれだけの資材を運んだものだ」とこの城を整備された方々の熱意に圧倒された。滑りやすい登城道の所々に設置された虎ロープやわかりやすい説明看板、そしてこの果てしなく続く階段も、この城を訪れる人々がケガをしたり迷わないようにと考えられて整備された結果である。昨年訪れた真田本城もそうであるが、この辺りの城址はとても見やすく整備されていて、歴史的にも訪れるのが楽しみな城址が多い。またぜひ訪れてみたいものです。

砥石城 本城の石垣


上田城 南櫓と西櫓

2月23日 武蔵国への城址探訪
江戸城へゆく (東京都千代田区千代田1)

【歴史】江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】20年近く城巡りをしているのに、今回人生で初めて江戸城跡に訪れました。せっかく来たので、午前中は皇居一般参観に参加し、富士見櫓や伏見櫓、宮殿などを間近で見学しながら、午後に一般公開部分の遺構を見て回りました。朝からの見学に費やした時間は4時間半程度だったにもかかわらず、まだまだ見るべき部分を残しており、やはり江戸城跡を見て回るには1日掛かりの行程だとつくづく思い知らされた訪城となりました。そしてこの日は皇太子殿下のお誕生日でしたが、参観中に皇居ガイドの方から、「来年からは祝日となるため一般参観できない日になり、2月23日に参観できるのはこれが最後です」という説明を受けて、改めて平成最後の貴重な日に訪れたのだなあと感慨深くなりました。

江戸城 富士見櫓(現存)

1月13日 近江国への城址探訪
小谷城へゆく (滋賀県長浜市湖北町伊部)

【歴史】小谷城は大永4年(1524)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573)までの50年間、浅井氏が根城としたところであり、六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。またこの城は信長の妹お市の方の住した所であり、その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもある。落城後、木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町、寺院等が今浜(長浜)に移される。
『現地案内看板より本文抜粋』


虎御前山へゆく (滋賀県長浜市湖北町別所)

【歴史】虎御前山は標高224mの独立丘陵で八相山ともいう。虎御前山には古墳時代から奈良時代にかけてのものと推定される円墳や前方後円墳の遺構が数多くあり、戦国時代にはこの古墳を利用した砦が築かれていた。蜂屋頼隆陣が築かれていた北山古墳や、元亀3年(1572)、織田信長が小谷城攻撃のため築いた砦跡があり、堀秀政、木下秀吉、滝川一益などの諸将も砦を築いていた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今年の城初めは、近江の国を代表する山城のひとつである小谷城からスタートです。小谷城へは約13年ぶりの訪城となります。小谷城は以前からとても整備された素晴らしい中世城郭でしたが、特に2011年の大河ドラマ「江」や日本100名城の選定の影響もあり、さらに見やすく整備されています。13年前は小雨がぱらつく6月の訪城であったため、少しずつ色を深める新緑にしとしと降る雨が落城の物悲しさを演出して、とても風情があったことを覚えています。その時は遺構から少し外れた月所丸まで辿り着くも、あまりの薄暗さと繁茂する下草におじけづいて帰ったのですが、この日は「こんなところまで整備されているのか!」と感嘆するほど月所丸の内部まで整備されており、思わず城域を超えた先まで足を踏み入れて探索してしましました。今年もよい訪城のスタートが切れました。

小谷城 月所丸の土塁跡



虎御前山の織田信長陣地跡

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