城址探訪記(2019)

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12月8日 美濃国への城址探訪
明知城へゆく (岐阜県恵那市明智町)

【歴史】明知城は岩村・苗木と共に三遠山と呼ばれた明知遠山家の居城です。宝治元年(1247)源頼朝の重臣、加藤次景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山家累代の居城となりました。天正2年(1574)武田勝頼が2万の大軍をもって東濃の諸城を攻略し、三河、尾張、遠江、駿河への拠点であった明知城を目指しました。信長は明知城を救援するため、兵3万を率い明知城の西方鶴岡山に布陣するも、動くことができず兵を引いたため、その後、援軍を失った明知城は落城しました。
『明知城案内看板より本文抜粋』


【訪城記】明知城は東濃地域の城址の中でも、ひときわ異彩を放つ城址である。大規模な畝状竪堀群や堡塁群、砦跡とされる小曲輪群など、周辺の城址では見られないような遺構が明知城には残っている。武田氏による改変か、織田家の影響か、とにかく凄い土木量であることは間違いない。さらに以前は草木が伸びて立ち入れなかったような場所まで最近は草刈りの手が入っており、今まで見られなかった遺構もよく観察できるようになりました。岩村城や苗木城が注目される東濃地域ですが、この明知城はこの2城にも勝るとも劣らない遺構だと思います。ぜひ訪れてほしいお薦めの城址です。

明知城址の畝状竪堀

11月3日 丹波国への城址探訪
福知山城へゆく (京都府福知山市字内記)

【歴史】福知山のまちは、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が城を築き、城下町整備に着手したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。中世には天田郡の豪族、塩見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれています。丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張りを行い、治世に反抗的な近隣寺社を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられています。光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入りました。光秀没後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続きました。関が原合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木植昌と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで続きました。
『現地案内年表を参考に本文作成』


園部城へゆく (京都府南丹市園部町小桜)

【歴史】元和5年(1619)、但馬の出石から移封となった初代園部藩主小出吉親は約2年間を費やして園部陣屋を築きました。歳月を経て、折しも戊辰戦争の際、最後の園部藩主小出英尚は明治新政府から園部陣屋をより堅固な園部城として整備する許可を受け、明治元年から2年(1868〜69)にかけて櫓門・巽櫓のほか、小麦山山頂に三層の櫓などを築きました。
『現地案内看板より本文抜粋』


丹波亀山城へゆく (京都府亀岡市荒塚町内丸)

【歴史】亀山城址は、天正3年(1575)織田信長から丹波攻略を命じられた明智光秀がこの地に城を築いたことに始まります。慶長15年(1610)徳川家康が命じた「天下普請」で藤堂高虎による五層の層塔型天守が出現、亀山城は近世城郭として完成し、亀山藩ができます。
『現地案内看板より本文一部抜粋』

【訪城記】丹波・丹後地域は明智光秀やその娘・細川ガラシャと関りが深い地域であるため、来年の大河ドラマ放送を前に至る所で明智光秀のPRがなされていた。東濃地域も明智光秀の前半生に関わる地域として盛り上がっているが、やはり表舞台に登場してから関わった丹波・丹後地域の方が何かと資料も残るため、様々な企画を立てやすいのではないかと考えると、地元の大河ドラマ館よりも福知山の大河ドラマ館の方に興味がひかれてしまいました。

福知山城天守


園部城址の櫓門


丹波亀山城址の天守台跡

11月2日 丹後国への城址探訪
建部山城(建部山堡塁砲台跡)へゆく (京都府舞鶴市字下東、字喜多)

【歴史】建部山は、別名『丹後富士』と呼ばれ、標高316mの舞鶴湾を望む山です。平安時代には笛原寺が建てられ、南北朝時代には山城がつくられました。室町時代には、丹後守護となった一色修理大夫満範が建部山城に入城しました。明治32年(1899)には、舞鶴重砲連隊(陸軍)がロシアへの備えとして建部山堡塁砲台が築造され、頂上付近には軍の施設が整備されたが、終戦とともに使われなくなって今に至っています。
『現地案内看板より本文抜粋』


宮津城へゆく (京都府宮津市)

【歴史】宮津城は天正8年(1580)に細川藤孝・忠興親子により築城されました。以後20年間、細川氏はこの城を根拠地として丹後一国を支配します。関ヶ原合戦の際、この城は一旦焼かれますが、江戸時代初め、時の宮津藩主京極高広により再建され、以後藩主は変遷しますが、幕末までほぼ同規模の縄張を有しました。
『現地案内看板より本文一部抜粋』


弓木城へゆく (京都府与謝郡与謝野町字弓木)

【歴史】弓木城は、稲富氏が室町時代後期以降根城とし、丹後国守護一色氏が最期の拠点とした丹後地方を代表する中世山城ですが、その詳しい歴史はわかっていません。天正10年(1582)織田信長の命令を受けた細川藤孝、忠興父子の丹後攻略により、一時丹後一色氏は弓木城に立籠りましたが、抗戦の甲斐なく滅亡しました。
『現地案内看板より本文一部抜粋』

【訪城記】建部山城は丹後守護一色氏の居城としてゲームなどにも登場し有名である。守護クラスの居城は結構険しい山が多いが、やはり建部山城も比高300mを超える山城跡で登城するのに1時間ほどかかる。現在の城址は中世遺構というよりも明治時代に整備された砲台跡となっており、木立の中に埋もれる光景は、それはそれでインパクトがある。品川台場跡が続100名城に選ばれているように、舞鶴港湾を守る防衛拠点という意味で言えば、近代の城址の部類に入るのだろうか。個人的には中世遺構を確認したかった。

建部山堡塁砲台跡の弾薬庫


宮津城址の太鼓門


弓木城址の土塁

10月20日 信濃国への城址探訪
松岡城へゆく (長野県下伊那郡高森町下市田)

【歴史】松岡城跡は高森町の南部、天竜川を望む標高560mの段丘先端部に立地する。築城は南北朝の戦乱の頃といわれ、その後戦国時代に大きな修築が加えられたと考えられる。およそ200年間にわたって市田郷領主松岡氏の本拠地となり、天正16年(1588)同氏の改易により廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


大島城へゆく (長野県下伊那郡松川町元大島)

【歴史】平安時代末、南信濃源氏片桐氏の一族が大島郷に分知されたことに起こった大島氏がこの一帯を領有・統治し大島城・北の城・沼の城などを築いたことに始まります。南信濃攻略をうかがっていた甲斐の武田氏は天文23年(1554)に伊那郡に侵入し、ここを手中にした武田信玄は秋山信友を飯田城に置き伊那谷を統治しました。元亀2年(1571)上洛に動き出した武田信玄は伊那郡の大島城を東海地方攻略並びに上洛の拠点とするため郡代の秋山信友に命じて大修築をおこないました。現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による馬出や三日月堀、3つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような空堀が当時のままに残されています。
『現地案内看板より本文抜粋』


名子城へゆく (長野県下伊那郡松川町元大島)

【歴史】平安末期、船山城の片桐氏の族、片桐景重が名子に分知して上野台に住み、名子氏を称したが、この名子城は非常時における要塞として築かれたものである。その後、名子氏8代450年間相伝したが、天正10年(1582)2月織田氏の伊那郡攻略によって落城した。
『現地案内看板より本文抜粋』


船山城へゆく (長野県下伊那郡松川町上片桐)

【歴史】船山城跡は、平安時代末から室町時代に至る四百有余年にわたり、伊那地方に栄えた信濃の名族、片切氏によって築城されたものであり、天正10年(1582)に織田氏の侵攻によって落城したと言われるまで同氏の本拠地になっていたところである。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】武田家臣の秋山虎繁が東濃に侵攻した時には下伊那郡から攻めてきたように、東濃と下伊那郡は隣り合っている。そのため長野県の中でも結構お手軽に遊びに行ける地域である。伊那郡の城と言えば河岸段丘を利用して築かれた城郭が谷を囲むように点在するのが特徴です。また城址からの眺望も素晴らしいところが多いです。この日は以前訪れたことのある大島城と松岡城の他に、名子城と船山城を新たに訪れ、東濃地域ではお目にかかれない河岸段丘の城をじっくりと堪能した1日となりました。

松岡城址の二の堀跡

大島城址の三日月堀跡

名子城址の土塁跡

船山城址の空堀跡

10月6日 美濃国への城址探訪
久々利城へゆく (岐阜県可児市久々利)

【歴史】守護土岐氏の一族である土岐久々利氏は、南北朝時代から戦国時代にかけて周辺地域を支配しました。『金山記全集大成』によれば、初代康貞から代々土岐三河守・悪五郎を襲名したといいます。土岐悪五郎は、天文17年(1548)に烏峰城(のちの美濃金山城)主の斎藤妙春を討って中・東濃地域を支配します。しかし天正11年(1583)に美濃金山城主の森長可(森蘭丸の兄)に討たれ、久々利城は落城しました。
『現地案内年表を参考に本文作成』


明智長山城へゆく (岐阜県可児市瀬田)

【歴史】康永元年(1342)に美濃源氏の土岐頼兼が名字を「明智」と改めて、初代明智家棟梁となり、明智荘瀬田の当地に明智城を築城した。以来およそ215年間、ここに山城を構えていたが、弘治2年(1556)に当時の美濃国の支配者、斎藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、義龍に攻められて落城した。
『現地案内看板より本文抜粋』


美濃金山城へゆく (岐阜県可児市兼山)

【歴史】天文6年に斎藤道三の猶子である斉藤大納言正義が山頂に築城、烏峰城と称し、それまで中井戸の庄の地名を金山村と改めました。永禄八年(1565)織田信長は東濃経路の拠点として森可成を金山城主として以来森可成・長可・忠政父子三代の居城として栄えました。信長の小姓として有名な森蘭丸は可成の三男であり、この金山城で出生したと云われています。しかしそんな森一族も浅井・朝倉軍との戦いでは可成と長男可隆が、本能寺の変では三男蘭丸・四男坊丸・五男力丸が、小牧長久手合戦では二男長可が戦死したため、最後は六男忠政が家督を継ぐこととなります。そして森氏の松代転封後、慶長6年に金山城は解体されたようです。
『現地案内看板より本文一部抜粋』

【訪城記】来月に迫った「全国山城サミット」や来年のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」、続100名城スタンプラリー、城アプリのイベントなどのため、可児市全体が慌ただしくなっている。そのためか他県ナンバーもよく見かけるようになった。城の楽しみ方も人それぞれで、自分のように城跡の探索をする人、城には行かず城アプリの位置ゲームのポイントを回る人、続100名城スタンプや御城印を集めるのがメインの人など、城の周辺には実に多くの人が溢れていて面白い。可児市の知名度は、城ファンの中ではもはや全国区ですね。

久々利城址の主郭部


明智長山城址の伝馬場跡


美濃金山城址の米蔵跡

9月17日 越前国への城址探訪
金ヶ崎城へゆく (福井県敦賀市金ヶ崎町)

【歴史】金ヶ崎城は敦賀湾に突き出た丘の上に築かれた中世の城である。北・西・南の三方を海に囲まれ、東に連接する天筒山城に続く尾根にも要害(城戸)を設けた難攻不落の城であった。元亀元年(1570)信長は京から近江・若狭を経て越前に侵攻した。激戦の末、天筒山城を陥落させ、金ヶ崎城の朝倉景恒に降伏を迫り、城を接収した。信長は城を修築し、朝倉攻略の拠点とする構えをみせたが、近江の浅井長政が反旗を翻して越前国境に迫っていると知り撤退した。「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる織田信長の撤退戦である。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】城巡りで全国各地に出掛ける時にお世話になることが多いローカル鉄道。そのため城の知識に混じって、鉄道の知識も自然と身についてきます。敦賀も鉄道の歴史があふれる街。金ヶ崎城の麓にある赤レンガ倉庫の横には、昔、小浜線を走っていたキハ28系3000番台が展示してあります。城と鉄道のコラボ、何気にかっこいい。

金ヶ崎緑地から金ヶ崎城址遠望

8月28日 尾張国への城址探訪
名古屋城へゆく (愛知県名古屋市中区本丸)

【歴史】名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は、江戸幕府を開いた徳川家康の九男です。慶長14年(1609)、家康自ら築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され、17年に大小の天守や各櫓が完成しました。慶長20年(1615)に本丸御殿、元和3年(1617)には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。
『名古屋城パンフレットより本文抜粋』


【訪城記】3年に1回ほどの割合でお城のガイドを頼まれることがある。今回もそのような機会をいただき、小雨の中、名古屋城を訪れた。自分がガイドをする時には、なるべく歴史的なことよりも構造的な側面から城の魅力を伝えるようにしていますが、今回も空堀と水堀の比較、桝形の構造、藩主の脱出ルート、石垣の刻印の話などを織り交ぜながら、1時間半のガイドを終えました。しかし名古屋城の魅力は到底1時間半では語れず、城マニアとしては消化不良のガイドでした。

名古屋城 天守と小天守と本丸御殿

8月24日 越前国への城址探訪
勝山城へゆく (福井県勝山市平泉寺町)

【歴史】勝山城の名が歴史に登場するのは、天正8年(1580)柴田勝家の一族、柴田勝安が、加賀の一向一揆を討伐し袋田村に城を築き、勝山城と名付けたのが最初である。その後天正11年(1583)には、丹羽長秀の老臣成田重政、慶長5年(1600)には、結城秀康の家臣林定正、寛永元年(1624)には、結城秀康の六男直基、同12年(1640)には七男直良とそれぞれ入封するが、いつの時点まで城が存在していたかは不明である。
『現地案内看板より本文抜粋』


白山平泉寺へゆく (福井県勝山市平泉寺町)

【歴史】白山神社は白山の開祖・泰澄大師の創建にかかる。白山信仰の中心地で、古くは白山平泉寺と呼ばれた。平安時代以降白山登拝の拠点である白山三馬場の一つとして隆盛を極めた。中世の最盛期には社領九万石・四十八社・三十六堂・六千坊とうたわれ、戦国時代には一乗谷の朝倉氏とともに越前における一大勢力であった。惜しくも天正2年(1574)折から係争中の一向一揆のため放火せられ全山一時に灰燼に帰した。
『現地案内看板より本文抜粋』


越前大野城へゆく (福井県大野市城町)

【歴史】越前大野城は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城です。織田信長の部将、金森長近により天正年間(1573〜1593)の前半に築城されました。亀山を利用し、外堀・内堀を巡らし石垣を組み、天守閣を構えるという中性の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛政7年(1795)に再建されました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】約17年ぶりに勝山城博物館に訪れた。勝山城は、史実と違う場所に建てられた城郭風の博物館という位置づけですが、その姫路城を模したといわれる日本最大級の模擬天守閣が放つ異様さは、何度見ても、もの凄いインパクトがあります。最近はこのような建築物が新しく建てられることもないため、ある意味貴重で一見の価値ある模擬天守閣だと思います。

勝山城博物館



白山平泉寺の拝殿



大野城の天守閣

8月7日 備前・備中国への城址探訪
庭瀬城へゆく (岡山県岡山市北区庭瀬)

【歴史】室町時代の末頃、備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝場城とも呼ばれた。一帯は泥沼地で非常な難工事であった。その後宇喜多の重臣戸川肥後守達安が入り、古城を広げ城下町を整えた。元禄12年(1699)板倉氏の居城となり明示を迎えた。
『現地案内看板より本文抜粋』


撫川城へゆく (岡山県岡山市北区撫川)

【歴史】撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。この城は永禄2年(1559)に備中成羽城主三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(1582年)には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、当時の城主井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多の支配下になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。戸川氏は安風(4代目)で断絶しますが、その弟達富が撫川領分を継ぎ「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けれれていますが、もともとは一体の城でした。
『現地案内看板より本文抜粋』


岡山城へゆく (岡山県岡山市北区丸の内)

【歴史】備前国邑久郡から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573)の秋であった。石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。その子八郎秀家は、天正18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597)天守閣が落城するにおよんで城普請は完成した。これが豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城である。秀家の築いた天守閣は、2階建ての建物を大中小の3つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城」の別名がある。
『現地案内看板より本文抜粋』


備中高松城へゆく (岡山県岡山市北区高松)

【歴史】高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)の中国役の主戦場となった城跡として有名である。城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今回は本当に久しぶりに岡山を訪れました。岡山は城巡りを始めた約20年ほど前にはよく訪れていましたが、今回はその頃よりも知識を身につけての訪城となります。この日に廻った庭瀬城や撫川城、高松城はいわゆる「沼城」と称される構造を持つ城です。自分が住んでいる東濃は山地であるため、そもそも平城自体が少ない上に、さらに沼を利用した城となると、簡単にはお目にかかれない遺構です。それらの遺構を見学する中で何よりも驚いたのが、庭瀬城址付近の民家の光景。民家が堀の水面とほぼ同じ標高に建てられており、特に堤防のようなものもなく、庭に小舟でも置いておけば、すぐさま舟での移動ができるような感じでした。かつての大垣城や津城もこのような光景だったのかと思いながら、沼城の面白さを堪能しました。

庭瀬城址の水堀跡



撫川城址の石垣



岡山城の復興天守閣



高松城址 本丸跡

5月3日 美濃国への城址探訪
大桑城へゆく (岐阜県山県市大桑)

【歴史】建久年間(1180〜1198)に山県氏流大桑太郎が大桑郷に領を構えて定住していましたが、大桑太郎領地没収後に、代わって逸見義重が入封し数代に渡って大桑城に居住しました。14世紀末から15世紀末にかけては美濃国守護であった土岐氏の一族が大桑に住み、天文4年(1535)になると大桑城は土岐氏の府城として機能することとなります。東濃の地から美濃国守護として大富館→長森城→川手城→大桑城と府城を移した土岐氏にとって大桑城は最後の府城となりました。大桑城は斎藤道三の国盗りの舞台となり再三にわたって攻撃を受け、天文21年(1552)ついに落城となり、美濃守護土岐頼芸は東国に落去となりました。
『現地案内年表を参考に本文作成』


黒野城へゆく (岐阜県岐阜市黒野)

【歴史】黒野城跡は加藤氏の居城で、7面積17.523u、本丸築堤の高さは5.4mあり、その周囲の濠は水をたたえて昔の面影をよく残しています。西南の入口付近には今でも城門の礎石があり、周辺には惣門口、木戸、二之丸、井之上、徳田屋敷などの地名が残っています。加藤光泰は、始め斎藤龍興に仕えていましたが、斎藤氏滅亡後は織田・豊臣氏に仕え甲斐国甲府城主として、24万石を領したが朝鮮の陣中で没しました。その子貞泰は幼なかったため領地を減封され、文禄3年(1594)甲府城より黒野城に移って4万石を領した。関ヶ原合戦には東軍に属し、慶長15年(1610)まで15年間、居城としていたが同年伯耆国米子6万石に移封となり、黒野藩は短期間で終わりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】約16年ぶりに訪れた大桑城は、近年になり林道が整備されたため、お手軽に主郭近くまで車で登れるようになりました。またこれまでの登城道も、16年前と比べて格段に整備が行き届いているため、以前は確認することが難しかった遺構も明瞭に観察することができるようになっています。今回いつものように縄張図を参考に、主郭下の登城コースから少し外れた帯郭跡や石垣を観察していると、自分より先にその場を訪れ観察している一人の女性がいた。さらに場所を変え、他の登城者があまり入っていかない西南側の腰曲輪群跡に下りて行くと、先程と同じ女性がまた先に来ていて熱心に遺構の観察をしていた。最近は山城でも若い女性のグループと出会うことが多くなりましたが、それでも普通の見学路から外れて一人熱心に観察している女性に出会ったことに衝撃を受けるとともに、妙に感激してしまいました。

大桑城址 主郭下の石垣




黒野城址 堀と土塁

4月22日 信濃国への城址探訪
砥石城へゆく (長野県上田市上野)

【歴史】砥石城は本城を中心に北に桝形城、南に砥石城、西南に米山城の四要害から構成されている堅固な連郭式の山城である。築城年代は明らかではないが、戦国時代、坂城の村上氏が小県方面へ進出する拠点としていた。天文19年(1550)村上義清が武田晴信(信玄)の軍を大敗させ、世に「武田の砥石崩れ」と言われたが、翌20年真田幸隆(幸綱)は調略を用い、独力で攻略した。やがて幸隆の子昌幸は、この城を居城としたが、天正11年(1583)上田城に移った。それ以後も上田城外護の要害として重要視された。
『現地案内看板より本文抜粋』


上田城へゆく (長野県上田市二の丸)

【歴史】上田城は、真田昌幸によって天正11年(1583)から築城が開始された平城である。城郭自体の規模はさほど大きくはないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防衛陣地としている。この上田城の特性は、天正13年(1585)と慶長5年(1600)の2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。しかし、真田氏の上田城は、関ケ原合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓や石垣は、寛永3〜5(1626〜28)にかけて仙石忠政によって新たに築き直されたものである。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】砥石城塞群の米山城から砥石城へと向かう道中、急な斜面に延々と続く丸太の階段を見て思わず辟易した。この果てしなく続く階段に疲れが倍増する一方、「よくこれだけの資材を運んだものだ」とこの城を整備された方々の熱意に圧倒された。滑りやすい登城道の所々に設置された虎ロープやわかりやすい説明看板、そしてこの果てしなく続く階段も、この城を訪れる人々がケガをしたり迷わないようにと考えられて整備された結果である。昨年訪れた真田本城もそうであるが、この辺りの城址はとても見やすく整備されていて、歴史的にも訪れるのが楽しみな城址が多い。またぜひ訪れてみたいものです。

砥石城 本城の石垣


上田城 南櫓と西櫓

2月23日 武蔵国への城址探訪
江戸城へゆく (東京都千代田区千代田1)

【歴史】江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】20年近く城巡りをしているのに、今回人生で初めて江戸城跡に訪れました。せっかく来たので、午前中は皇居一般参観に参加し、富士見櫓や伏見櫓、宮殿などを間近で見学しながら、午後に一般公開部分の遺構を見て回りました。朝からの見学に費やした時間は4時間半程度だったにもかかわらず、まだまだ見るべき部分を残しており、やはり江戸城跡を見て回るには1日掛かりの行程だとつくづく思い知らされた訪城となりました。そしてこの日は皇太子殿下のお誕生日でしたが、参観中に皇居ガイドの方から、「来年からは祝日となるため一般参観できない日になり、2月23日に参観できるのはこれが最後です」という説明を受けて、改めて平成最後の貴重な日に訪れたのだなあと感慨深くなりました。

江戸城 富士見櫓(現存)

1月13日 近江国への城址探訪
小谷城へゆく (滋賀県長浜市湖北町伊部)

【歴史】小谷城は大永4年(1524)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573)までの50年間、浅井氏が根城としたところであり、六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。またこの城は信長の妹お市の方の住した所であり、その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもある。落城後、木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町、寺院等が今浜(長浜)に移される。
『現地案内看板より本文抜粋』


虎御前山へゆく (滋賀県長浜市湖北町別所)

【歴史】虎御前山は標高224mの独立丘陵で八相山ともいう。虎御前山には古墳時代から奈良時代にかけてのものと推定される円墳や前方後円墳の遺構が数多くあり、戦国時代にはこの古墳を利用した砦が築かれていた。蜂屋頼隆陣が築かれていた北山古墳や、元亀3年(1572)、織田信長が小谷城攻撃のため築いた砦跡があり、堀秀政、木下秀吉、滝川一益などの諸将も砦を築いていた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今年の城初めは、近江の国を代表する山城のひとつである小谷城からスタートです。小谷城へは約13年ぶりの訪城となります。小谷城は以前からとても整備された素晴らしい中世城郭でしたが、特に2011年の大河ドラマ「江」や日本100名城の選定の影響もあり、さらに見やすく整備されています。13年前は小雨がぱらつく6月の訪城であったため、少しずつ色を深める新緑にしとしと降る雨が落城の物悲しさを演出して、とても風情があったことを覚えています。その時は遺構から少し外れた月所丸まで辿り着くも、あまりの薄暗さと繁茂する下草におじけづいて帰ったのですが、この日は「こんなところまで整備されているのか!」と感嘆するほど月所丸の内部まで整備されており、思わず城域を超えた先まで足を踏み入れて探索してしましました。今年もよい訪城のスタートが切れました。

小谷城 月所丸の土塁跡



虎御前山の織田信長陣地跡

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