城址探訪記(2017)

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12月29日 上野国への城址探訪
上泉城へゆく (群馬県前橋市上泉町)

【歴史】戦国時代の赤城南麓地帯は、その大半が大胡領と言われており、大胡領は大胡氏によって領有されていた。上泉城は、大胡城の支城として築かれ、一族の上泉氏が在城していた。中世の末期、剣道史に名を残した上泉伊勢守信綱は、永正5年(1508)上泉城で生誕し、居城していたと伝えられている。
『現地案内看板より本文抜粋』


厩橋城(前橋城)へゆく (群馬県前橋市大手町)

【歴史】厩橋城が築かれたのは、15世紀のこと、初代城主は箕輪城主長野氏の一族前橋長野左衛門方業尉とされている。以後長野氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文21年(1552)小田原北条氏の勢力が上州におよび、永禄3年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の理由とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防が繰り返された。天正10年(1582)武田勝頼が敗死すると、織田信長の部将滝川一益が厩橋城に入り、関東管領を称した。しかし信長の急死によって、一益は本国に帰り、城は北条氏の手中に帰した。ついには、天正18年(1590)4月、小田原討伐軍の浅野長政に攻められて落城した。同8月関東に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城に封した。親吉は慶長6年(1601)甲府に移り、代わって川越から酒井重忠が入封、以後9代の間、酒井氏の藩政が続いた。
『現地案内看板より本文抜粋』

箕輪城へゆく (群馬県高崎市箕郷町)

【歴史】箕輪城は、明応・永正年間(1492〜1521)に長野尚業が築城し、子・憲業、孫・業政により強化されました。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した部将である。業政の死後、子業盛は父の意思を守り将兵一体となってまで戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9年(1566)武田勢の総攻撃によりついに落城するに至った。武田氏の時代は天正10年(1582)その滅亡にて終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を改修した。天正18年(1590)北条氏滅亡後徳川家康の重臣井伊直政を12万石でここに封して関東西部の要とし、城下町も整備した。その後、慶長3年(1608)直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀に至る歴史を閉じた。
『現地案内看板より本文抜粋』


白井城へゆく (群馬県渋川市白井)

【歴史】15世紀中頃に関東管領山内上杉憲実の信任が厚かった長尾景仲によって築かれたと考えられる。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家に攻略されて開城し、戦国の城としての役割を終えた。その後は徳川家康の関東入りに従い本多広孝・康重が城主となり、この頃に現在の姿に整備されたと考えられる。康重の岡崎移封後は戸田康長・井伊直孝・西尾忠永・本多紀貞と続くが、寛永元年(1624)紀貞の病没とともに廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


高崎城へゆく (群馬県高崎市高松町)

【歴史】高崎城は徳川四天王の一人である井伊直政によって築かれました。天正18年(1590)に箕輪城12万石に配置され直政は、新しい徳川体制に相応する場所に居城を移すため、慶長3年(1598)に所領であった西毛地方の中からこの地を選び、地名を和田から高崎と改め、城の名称も高崎城と名付けました。井伊直政は2年後に佐和山城18万石へ転封になってしまい、その後、高崎城主は短い期間で交代したため築城工事は中断されていましたが、安藤重博が工事を再開し元禄5年(1692)に完成しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】2017年の城巡りを一言で表すと、「再来」という言葉になるだろうか。今年訪れた多くの城が10年ぶりくらいに訪れるような場所ばかりだった。今回訪れた箕輪城もまさに9年ぶりに訪れた城だ。箕輪城ではこの9年の間に、城内の草木が伐採され、駐車場が増設され、城門が復元されるなど、前回訪れた時のイメージを良い意味で壊してくれるほどの整備がなされていた。しかもまだ整備途中であるようで、この日は本丸の立ち入りが禁止されていた。どうやら本丸の土塁を復元する整備工事をしているらしい。箕輪城はこの先もまだまだ発展していくようだ。このように今年再来した城址の多くで、箕輪城と同じような整備状況が見られた。いつまでこのお城ブームが続くかわからないが、2018年もこの流れが続いてほしいものである。

上泉城址


厩橋城の本丸土塁


箕輪城の西郭馬出虎口門(復元)


白井城の本丸桝形虎口


高崎城の東門と復元乾櫓

12月28日 下野国・上野国への城址探訪
唐沢山城へゆく (栃木県佐野市富士町)

【歴史】唐沢山城は、藤原秀郷公により1000年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱を鎮定し大功をたてられ、その功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで威勢を張られた。その後700年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として16世紀中頃に現在の形を整えたとされている。関東七名城の一つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の後も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかがわれる。
『現地案内看板より本文抜粋』


佐野城へゆく (栃木県佐野市若松町)

【歴史】佐野城は、別名「春日岡城」とも言われ、その地名は延暦元年(782)藤原藤成がこの丘に春日明神を祭ったことに由来すると伝えらえています。慶長7年(1602)、唐沢山城主佐野信吉は、当時この地にあった惣宗寺(佐野厄除大師)を移転させるとともに、築城と町割りを開始しました。佐野氏は、慶長12年(1607)唐沢山城を廃してこの地に移りましたが、同19年(1614)所領を没収されて改易となり、築城後間もなく城は廃城となってしまいました。
『現地案内看板より本文抜粋』

足利氏館跡(鑁阿寺)へゆく (栃木県足利市家富町)

【歴史】平安時代後期、源氏の祖、八幡太郎源義家の子義国、その子足利義康(足利氏祖)の2代にわたって堀と土手を築いて邸宅としました。鎌倉時代初期、建久7年(1196)に足利義兼建立。正安元年(1299)再建。開基、義兼7世の孫は足利尊氏にして京都室町に幕府を構え、幕府は15代230年続いた。境内地が足利氏宅跡として国の史跡に指定されている。
『現地案内看板より本文抜粋』


館林城へゆく (群馬県館林市城町)

【歴史】館林城は、「城沼」を自然の要害とした平城で、別名を尾曳城という。館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471)に上杉軍が赤井文六・文三の居城である立林(館林)城を攻略したという記録がある。その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つ巴の攻略の中で、長尾氏、北条氏などが館林城を支配するようになった。天正18年(1590)の徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となり江戸時代を迎えると、館林は利根川を押さえることができる東北方面への要所として、また徳川綱吉が5代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置付けられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】唐沢山城の駐車場に着くと何匹かの猫がいた。野良猫かと思って見ていると、どれも首輪をした猫ばかりであることに気づく。どうやら全部がこの城内で飼われている猫らしい。そのため妙に人馴れしていて愛くるしい。そして本丸を目指して歩いていく道中の所々でもやたらと出会う猫たち。これまでの城めぐり人生の中でもこれだけの猫に出会うのは初めての経験だった。猫島や猫カフェなどが流行っている現在、唐沢山城も「猫城」として売り出せば、もっと観光的に人が集まってくるのではないだろうか。そう思いつつ自分も猫の写真をたくさん撮影してしまいました。

唐沢山城の本丸石垣群


佐野城の大堀切


足利氏館跡の土塁と水堀


館林城の三の丸土橋門

12月27日 上野国への城址探訪
太田金山城へゆく (群馬県太田市金山町)

【歴史】金山城は、岩松(新田)家純が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。その後、下剋上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12年(1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。天正18年(1590)小田原北条氏の滅亡と共に廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


反町館へゆく (群馬県太田市新田反町町)

【歴史】反町館跡は、江田館跡と共に太田市を代表する館跡で、大規模な堀や土塁が残されています。築造は鎌倉時代から南北朝時代と推定されます。その後戦国時代になって三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと考えられます。新田義貞がここに住み、その後大館氏明、新田義興、矢内時英が住んだという伝承もあります。天正18年(1590)、豊臣秀吉の北条攻めで廃城したと伝えられます。
『現地案内看板より本文抜粋』

江田館へゆく (群馬県太田市新田上江田町)

【歴史】江田館は、江田行義の館跡と伝えられています。行義は、新田義重の子・義季の四世の孫で、新田義貞の鎌倉北条氏討伐に参加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてました。西国を転戦後、備後国で農業を営み、以後足利氏の目をしのび、9代にわたり姓を「守下」に改めていましたが、10代目の大膳が、文禄年間(1593年頃)祖先のこの地に移転してきたと言われています。戦国時代には、反町館跡と共に金山城の出城として改修され、金山城主由良氏の四天王の一人、矢内四郎左衛門の居城となりました。天正年間には、小田原北条勢が金山城攻略に先立ってこの出城を奪い、金山城攻撃の拠点としました。その後、北条氏の滅亡と共に廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】城巡りをしていると、その土地ならではの起点となる年号が存在することに気づく。「天正18年」、今回の旅ではやたらとこの年号がいく先々で目に付いてくる。西暦に直すと1590年となるが、この年は小田原北条家が滅亡した年である。つまり関東の支配者が北条氏から徳川氏になる分岐点となった年である。今回の旅で最初に訪れた太田金山城の説明看板でも、やはり天正18年が廃城の年だと書かれていた。そしてその後に訪れた反町館や江田館でもこの年号を境に何かしらの変化が起きているようだ。自分の中では今まであまり意識したことのない天正18年。今回の旅で、関東を巡る時にはこの年号を意識した方が良いことを学びました。

太田金山城の大手虎口


反町館の土塁跡


江田館の土塁跡

11月23日 三河国への城址探訪
吉田城へゆく (愛知県豊橋市今橋町)

【歴史】吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。
『現地案内看板より本文抜粋』


二連木城へゆく (愛知県豊橋市仁連木町)

【歴史】二連木城は、戦国の世に入った明応2年(1493)に田原城主戸田宗光により築かれた。その後、この地は多くの戦場となり天正18年(1590)城主戸田泰長のときに廃城となった。城は、朝倉川を臨む段丘端に築かれ、約600uの本丸を始め、本丸北に蔵屋敷、東に二の丸、さらに二の丸を取り囲むように東曲輪と南曲輪がある。それぞれを土塁と堀で隔てられていた。
『現地案内看板より本文抜粋』

牧野城へゆく (愛知県豊川市牧野町丁畑)

【歴史】牧野城は、戦国時代に東三河地方に勢力をふるった牧野氏が最初に築城した城として名高い。築城は応永年間(1394〜1428)に遡り、足利将軍義持の命により新補地頭となった田口(田内)伝蔵左衛門成富が、四国の讃岐からここ三河国中条郷牧野に来往し、城を構えたといわれている。成富の子成時(古白)はこの地方で勢力を拡大していき、明応2年(1493)に一色城の城主波多野全慶を討ち、同年瀬木城を築き、名も地名をとって牧野と称するようになったとされる。その後成時は永正2年(1505)に今橋城を築いてこの城に居を移し、同年牧野城は廃城になったと伝えられる。
『現地案内看板より本文抜粋』


一宮砦へゆく (愛知県豊川市一宮町宮前)

【歴史】永禄年間(1558〜69)、今川氏真は牛久保城に着陣して、松平方の本多信俊等が守る一宮砦を大軍で包囲しました。松平元康は、小勢でその攻囲を突破し、砦を救援しました。これは、家康の武勇談の一つとして『一宮の後詰』と呼ばれています。砦跡は、豊川の流れを望む段丘端に位置し、砦の中心部分を囲む土塁や堀、防御に適した出入口の様子などが良くわかります。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】一宮砦の竹藪を散策していると、背後から「あっちにすごい堀切がありますよ」という声が聞こえてくる。振り返ってみると竹を杖代わりにしている一人の男性が立っていた。「たしか城跡に入った時には周囲に誰もいなかったはずなのに、どこからこの人は現れたんだ」と心の中で思いながら、男性が示した場所に行ってみると、そこには確かに立派な堀切があった。その後、再び男性が現れ、「この堀切の先は進めそうですか」と聞いてくる。「竹林が道を塞いでいるので難しいです」と答えたが、その男性は堀切の先をひるまず進んでいった。その後、友人とあの人は誰だったのだろうと話しながら、とりあえず『竹の杖をもった城の仙人』ということにしておこうということで決着した。手にメモ帳を持って探索していたその人はおそらく城郭研究家であろうが、またどこかで仙人に会ってみたいものだ。

吉田城の本丸鉄櫓(模擬復興)

二連木城の土塁跡

牧野城の土塁跡

一宮砦の堀切跡

11月12日 甲斐国への城址探訪
新府城へゆく (山梨県韮崎市中田町中条)

【歴史】新府城は、天正9年(1581)に武田勝頼によって築城された。城は未完成であったが、同年の9月頃には友好諸国に築城が報じられ、12月24日に躑躅ヶ崎館(武田氏館跡 山梨県甲府市)からの移転が行われた。しかし、天正10年(1582)3月3日、勝頼は織田軍侵攻を目前にして自ら城に火を放ち退去し、3月11日に田野(山梨県甲州市)において、夫人と息子信勝ともに自害し、武田氏は滅亡した。その後、同年に徳川氏と北条氏による甲斐国争奪をめぐる天正壬午の戦いがおこり、徳川家康は新府城を本陣として再利用した。
『現地案内看板より本文抜粋』


谷戸城へゆく (山梨県北杜市大泉町谷戸)

【歴史】谷戸城跡は、平安時代末期に逸見清光が築城したと伝えられている。逸見の地を本拠とした清光は多くの男子に恵まれ、その子らが甲斐国内で勢力を扶植したことから、次の代では甲斐国の広い範囲を甲斐源氏が支配することとなった。なかでも武田信義は平家討伐に功を上げ、後に戦国大名となる武田家の基礎を築いた。城は、流山とよばれる小山を利用して築かれており、北に巡らせた横堀と西側を流れる西衣川で区画している。城内は山頂部の一の郭を中心に、二の郭から五の郭までを同心円状に配し、西側の山裾には館が置かれていたと想定される六の郭が広がる。
『現地案内看板より本文参照』


【訪城記】城址巡りの際には、よくその土地の郷土資料館や歴史博物館を訪れます。主な目的は事前に城址の情報や資料を入手することですが、その他にも、その土地でしか発行されていないお城に関する小冊子を買い求める等の目的があります。この日も谷戸城の麓にある考古資料館で小冊子を眺めていると、10年以上前に発行された「北杜市の戦国時代」という小冊子を見つけ、迷わず購入。当初、時間が余ったため立ち寄った谷戸城でしたが、予想以上に整備された城址と共に貴重な小冊子とも出会い、思いのほか心躍る1日となりました。

新府城の乾門桝形虎口跡


谷戸城の帯郭と土塁跡

10月30日 近江国への城址探訪
観音寺城へゆく (滋賀県近江八幡市安土町石寺、桑実寺)

【歴史】観音寺城は、近江の守護佐々木六角氏の本城であって、中世の代表的な大山城である。築城は長い年月を経て応仁2年(1468)に完成し、さらに弘治年間鉄砲に備えて大々的に石塁が改修されている。永禄11年(1568)9月、織田は当城に入城したが城は元のままに残し、佐々木氏に守らせたが天正10年(1582)安土城とともに滅亡した。
『現地案内看板より本文抜粋』


八幡山城へゆく (滋賀県近江八幡市宮内町)

【歴史】豊臣政権下の天正13年(1585)、羽柴秀次に近江43万石が与えられ、この八幡山に八幡山城が築かれました。本丸および二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸の城郭施設は標高283mの山頂に位置し、居館群は標高130mの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。天正18年(1590)に秀次が尾張清州に移った後は、京極高次が代わって、2万8千石で城主となり、秀次が自害する文禄4年(1595)に聚楽第と同じく破却されました。
『二の丸資料館の解説文より本文抜粋』

秀次館へゆく (滋賀県近江八幡市宮内町)

【歴史】八幡山城を特徴づけるのが、山頂城郭部分とは分離して築かれた南山麓の居館群で、谷地形の中央部分、標高約130mの地点から雛壇状に築かれています。秀次館跡は、その雛壇状の居館部分の最上部に位置します。ほぼ中央に巨大な内桝形の虎口が設けてあり、その両側は、西側で二段、東側では四段の高石垣を構えています。
『二の丸資料館の解説文より本文抜粋』


敏満寺城へゆく (滋賀県犬上郡多賀町敏満寺)

【歴史】敏満寺遺跡は、名神高速道路の多賀サービスエリア一帯に分布し、青龍山を御神体として12〜15世紀頃に繁栄した寺院の遺跡です。戦国時代、永禄5年(1562)浅井長政の攻撃を受けた久徳氏に味方したため長政に攻められ、当時120以上あったというは坊舎はほとんど炎上焼失してしまいました。さらに元亀3年(1572)には織田信長の命に応じなかったことから、残りの坊舎をことごとく焼かれ、寺領も取り上げられ、衰微の一途をたどっていったのです。慶長年間の17世紀初頭には残った礎石も彦根城普請のため運びさられました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今年度、続100名城のひとつに八幡山城が選定された。八幡山城については、約10年前に友人と初めて訪れた時、ロープウェイに乗った多くの観光客と共に頂上付近を一回りしたという記憶だけしかない。そのため今回なぜ、名城ひしめく滋賀県の城の中から、続100名城として八幡山城が選ばれたのかが不思議だった。10年の歳月を経て、あらためて山頂の要塞化された城郭部分と山麓の石垣で固められた屋敷群を観察し、前回感じなかった八幡山城の凄さと100名城に選定された理由を思い知った。思い返してみると10年前の自分は、豊臣秀次=殺生関白というイメージで八幡山城を見ており、ダークなイメージの城址として見学していただけのような気がする。この日は10年前の自分を反省するとともに、豊臣一門の凄さをあらためて感じとった1日となりました。

観音寺城の大石垣

八幡山城の本丸石垣

秀次館(屋敷群)の石垣

敏満寺城の土塁

10月9日 遠江国への城址探訪
諏訪原城へゆく (静岡県島田市金谷)

【歴史】諏訪原城は、天正元年(1573)武田勝頼が、東海道沿いの牧ノ原台地上に普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと「甲陽軍鑑」等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、「諏訪原城」の名がついたと言われています。諏訪原城は、大井川を境として駿河から遠江に入る交通・軍事上で重要な場所にあり、当時徳川方だった高天神城攻略のための陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担いました。天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち、「牧野城(牧野原城)」と改名され、武田方となった高天神城を攻略するための城として活用されました。天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。 
『現地案内看板より本文抜粋』


勝間田城へゆく (静岡県牧之原市勝田)

【歴史】応永年間に勝間田定長が築城したと推定されている勝間田城は、中世の代表的な山城で、牧ノ原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、堀切が設けられ南東部の昆根には他の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。文明8年(1476)の落城後、この城が再び使われたとする記録は見当たらないが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が認められる。
『現地案内看板より本文参照』


【訪城記】諏訪原城の散策中、二の曲輪に入ったところでカモシカ3匹が草を食んでいる場面に出くわした。「あっカモシカ!」という声に一瞬こちらを警戒したのも束の間、再び何事もなかったかのように下草を食み始め、3分後には深い絶壁の空堀を軽快に降りたかと思うと、そのまま空堀の藪中に消えていった。それまで下草がなければもっと素晴らしい遺構が見えるのにと感じていたのが、カモシカに出会ったことで、下草があることを喜んでいる動物もいるのだということを知りました。城址でのカモシカとの出会いはこれで2度目でしたが、今回は複数のカモシカに出会った貴重な経験となりました。

諏訪原城で出会ったカモシカ


勝間田城 本曲輪の土塁

9月10日 信濃国への城址探訪
松代城へゆく (長野県長野市松代町)

【歴史】松代城は甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との川中島の合戦の時に、武田方の前線基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3年(1560)頃、普請が完了したものと伝えられています。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃に二の丸・三の丸を整備し、土塁を築き直したものと考えられています。元和8年(1622)に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。
『松代城パンフレットより本文抜粋』


【訪城記】岐阜県の隣ということもあり、長野県の城址には城めぐりを始めたころの早い段階から訪れている。今日訪れた松代城も11年ぶりの来訪となります。前回訪れた時にはまだ真新しかった再建建物も、11年の時を経るとすっかり景色に馴染んでしまい、少し拡張整備されたことを差し引いても、以前とは全く違った城址に来たような気分になります。松代城は周辺の城下町も含めて何度でも訪れたい城址です。

松代城の復元太鼓櫓

8月28日 蝦夷ヶ島(和人地)への城址探訪
五稜郭へゆく (北海道函館市五稜郭町)

【歴史】五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、中世ヨ−ロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡とよばれる5つの突角が星形の五角形上に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明示2年5月に集結する箱館戦争の舞台となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】北海道最後の城めぐりは五稜郭。言わずと知れた北海道を代表する城です。この日も海外からの団体さんが早い時間から訪れており、デジカメ写真に人が入らないように先回りするのに一苦労。しかし観光客よりも目立ったのが五稜郭の周囲を歩く人々。ウォーキングを楽しむ人、通勤・通学をする人、散歩する人など市民公園としての五稜郭の姿が垣間見られました。こんな城址公園が地元にあれば、週末ごとにウォーキングするのにと思いながら、しばらく城内の散策を堪能しました。

五稜郭タワーから見る五稜郭

8月27日 蝦夷ヶ島(和人地)への城址探訪
館城へゆく (北海道檜山郡厚沢部町字城丘)

【歴史】館城は、松前藩が慶応4年(1868)9月1日に築城に着手し、明治元年(1868)10月25日に完成した城であるが、天守閣を構えた城ではなく、陣屋の様相を呈したもので、着工後わずか75日で徳川脱走軍の攻撃を受け陥落した城で松前藩最後の城である。松前藩は、藩の内乱、拓地観農、徳川脱走軍の攻撃など藩内事情により、地理的に便利な厚沢部村館に急遽移城を決め、館城を築城したもので、城としては未完成の状態で徳川脱走軍の攻撃に遇い、戊辰戦争の終焉の戦場となり灰燼に帰したものである。
『現地案内看板より本文抜粋』


洲崎館へゆく (北海道檜山郡上ノ国町北村)

【歴史】長禄元年(1457)の戦いで功を挙げた武田信広が上ノ国守護であった蠣崎季繁の幼女である安東政季の娘を妻とし同年築いた館である。その後信広は地の利と景勝を誇る夷王山のふもとに勝山館を築き松前藩300年の基を作った。この館は武田・蠣崎氏が道南和人社会の中で支配者として成長する基礎を固めたところであり、更に和人勢力の移り変わりを知ることのできるところとして大変重要な遺跡である。又この館は北海道の館の中でただ一つ成立年代が明らかである。
『現地案内看板より本文抜粋』


花沢館へゆく (北海道檜山郡上ノ国町勝山)

【歴史】15世紀頃、和人・渡党と称される本州系の人々が、北海道南部への進出の拠点として築いた道南12館といわれている館のひとつです。この頃の渡島半島は津軽の安東氏が「下之国」、「松前」、「上之国」に守護を置いて支配していたといわれています。下之国守護は茂別舘、松前守護は大館、上之国守護は花沢館にいてそれぞれの地域を治めていました。本道最古の記録である「新羅之記録」には、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いの際に館主蠣崎季繁や客将の武田信広がこの館を固く守ったということが書かれています。
『現地案内看板より本文抜粋』


勝山館へゆく (北海道檜山郡上ノ国町勝山)

【歴史】勝山館跡は、松前藩祖の武田信広が1470年頃に天の川左岸の標高100mの丘陵に築いた山城です。また勝山館跡は武田(蠣崎)氏が「松前」に進出し、さらに豊臣秀吉・徳川家康の公認を得て、安東氏から独立を果たした16世紀末〜17世紀初頃まで機能していました。
『勝山城跡観光パンフレットより本文抜粋』


比石館へゆく (北海道檜山郡上ノ国町館野)

【歴史】畠山重忠の一族ともいう厚谷将監重政が1440年頃渡道し築いたと伝える。1457年コシャマイン軍の攻撃で陥落、後復興された。この時館主重政は川下に身を投じ、川の主、大鮫となったともいう。厚谷氏は蠣崎氏に仕え寛永年中、貞政が一命を捨て藩主公広を救った功により久遠場所を領した。道南十二館中現存する五館のひとつ。比石はアイヌ語ピツウシ、石の多い所の意。
『現地案内看板より本文抜粋』


福山城(松前城)へゆく (北海道松前郡松前町松城)

【歴史】福山城は、松前城とも呼ばれ、北辺警備の重要性から幕府が特旨をもって嘉永2年(1849)松前家17世崇廣に築城を命じ高崎藩の兵学者市川一学の設計により安政元年(1854)完成した。城郭の規模は本丸、二の丸、三の丸に分かれ三層櫓1、二層櫓3、城門16、砲台7からなっている。構造形式は平城、わが国最北に位置し最後の遺構として史跡に指定されている。
『現地案内看板より本文抜粋』


茂別館へゆく (北海道北斗市矢不来)

【歴史】茂別館は、嘉吉3年(1443)津軽十三湊城主・安東太郎盛季が館を造ったのに始まるといわれ、南の大館と北の小館から成っている。大館は、西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られ、東は空濠を巡らしている。また小館は、西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は、自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】この日は北斗市から厚沢部町、江差町、松前町へと抜け、函館市を目指す行程。このルート上では道南十二館といわれる城址を多く見ることができます。道南十二館については、時代的・地理的な背景からも、あまり技巧的な遺構は期待できませんが、この日巡ったどの城址でも案内看板と城址碑が必ず設置されており、さらにはどの城址でも登城道が整備されていたことに驚きました。こんなに訪れやすい城址なのに、またもや誰にも出会うことがなく、その分ゆっくり見られて嬉しいやら、これだけの整備がもったいないやら、とても複雑な気持ちでした。

館城址の百間壕跡

洲崎館の空堀跡

花沢館の切岸

勝山館の建物群跡

比石館跡

福山城復興天守閣と本丸御門

茂別館の土塁跡

8月26日 蝦夷ヶ島(和人地)への城址探訪
松前藩戸切地陣屋へゆく (北海道北斗市野崎)

【歴史】戸切地陣屋は、安政2年(1855)幕府に命じられ松前藩が築いたものです。構造は、四稜郭で亀が首を出した形をしており六つの砲座があります。郭内には17棟の建物があり、約120人で守備していましたが、完成から13年後の明治元年(1868)箱館戦争の時、相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼き払っています。
『現地案内看板より本文抜粋』


四稜郭へゆく (北海道函館市陣川町)

【歴史】明治2年(1869)春、五稜郭にたてこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約3kmの緩斜面台地にも様式の台場を急造した。これが四稜郭である。四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空壕をめぐらし、郭内には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。旧幕府脱走軍は士卒約200名と付近の村民約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。
『現地案内看板より本文抜粋』


旧東照宮 権現台場跡へゆく (北海道函館市神山)

【歴史】東照宮は、元治元年(1864)五稜郭が完成した時、その鬼門(東北)の守護神とするため、日光東照宮から分祀された日高様似の等樹院から東照大権現を分霊して、上山村に建てたのが始まりである。明治元年(1868)五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は、翌2年五稜郭北面守備のため四稜郭を急造、さらに五稜郭との重要な結節点にあたる東照宮に砲台(権現台場)を設けた。しかし同年この砲台は新政府軍の攻撃を受け、東照宮も社殿を焼失した。
『現地案内看板より本文抜粋』


志苔館へゆく (北海道函館市志海苔町)

【歴史】志苔館は、函館市の中心部から約9km離れた標高25m程の海岸段丘南端部に位置している。松前藩の史書「新羅之記録」によると、室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。康正2年(1456)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたといわれている。戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正9年(1512)4月16日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


宇須岸河野館へゆく (北海道函館市弥生町)

【歴史】享徳3年(1454)津軽の豪族安藤政季に従って、武田信広、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言う。政通は、当時宇須岸と呼ばれていたこの地に館を築いたが、これが宇須岸河野館で、その大きさは東西35間、南北28間と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれる。この河野館に由来して、「箱館」という地名が生まれたと伝えられている。永正9年(1512)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後100年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今回は人生初の北海道への旅。曇天から晴天へと変わる中、土曜日という観光客が押し寄せる週末なのに、本日訪れた戸切地陣屋、四稜郭、志苔館で出会った人物はわずか3人。しかも城めぐりをしているのは明らかに自分ひとりの状態。城マニアから見ると独特な縄張を持つこれらの城址に観光客が来ないことにショックを受けながらも、誰にも邪魔されることなく心ゆくまで城内、館内の隅々を堪能した幸せな1日となりました。

戸切地陣屋跡の空堀

四稜郭の土塁

権現台場跡の土塁

志苔館跡の土塁

宇須岸河野館跡

7月23日 信濃国への城址探訪
小諸城へゆく (長野県小諸市丁)

【歴史】小諸城の起りは、平安時代から鎌倉時代にかけて小室太郎光兼が、現城址の東側に館を築き、またその後、大井光忠が小室氏の勢力を押さえて鍋蓋城を築き、その子光為がさらに出城として乙女坂城を構えたが、武田信玄の攻略により落城。信玄はこの地が重要であることから山本勘助と馬場信房に命じて築城したのが現在の小諸城である。その後滝川一益、松平康国が城址になり、さらにその後、仙石秀久が城主となって二の丸・黒門・大手門を建て、その子忠政が三の門・足柄門を建て現在の小諸城が完成した。
『現地案内看板より本文抜粋』


龍岡城へゆく (長野県佐久市田口)

【歴史】信州に1万2千石、三河に4千石の封地を持つ三河奥殿藩の松平氏は、宝永以来160年間三河に本拠を持ち、佐久には陣屋を置いて、領内22か村の統治をつづけてきたが、11代乗謨になって、幕末激動の状勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元年(1864)3月着工、慶応3年(1867)竣工、地字名をとって龍岡城と称した。築城に当たっては、稜堡式築城法を用い、いわゆる五稜郭が成立した。箱館五稜郭址とともに、わが国城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭である。
『現地案内看板より本文参照』


【訪城記】小諸城址は信州で最も好きな城址です。大手門や三の門の現存建築物や、本丸にそびえる石垣の光景も良いのですが、自分が何よりも魅力的に思うのは複雑な谷地形を空堀として利用したその縄張です。深くて幅広い空堀をただ見つめているだけで、とても満たされた気分になってきます。我が東濃地方には存在しない形状の小諸城。何度も訪れたい城址のひとつです。

小諸城の大手門


龍岡城址の水堀

7月15日 美濃国・尾張国への城址探訪
今尾城へゆく (岐阜県海津市平田町今尾)

【歴史】今尾城の始まりは、文明年間(1469〜1487)といわれ、中島氏、高木氏らを経て、天正15年(1587)に市橋下総守長勝が入城しました。関ケ原の合戦後、一時的に幕府が支配しましたが、元和5年(1619)、尾張藩祖徳川義直の異父兄にあたる同藩付家老竹腰山城守正信の居城となり明治維新まで続きました。『濃州安八郡今尾村絵図』によると、幅の広い濠を三重にめぐらし西側には土塁が築かれています。その内側に「御城屋敷」「書院屋敷」「役屋敷」が設けられましたが、天守などは無く、今尾陣屋とも呼ばれました。
『現地案内看板より本文抜粋』


高須城へゆく (岐阜県海津市海津町高須町)

【歴史】高須城は、大永2年(1522)大橋源左衛門重一が築城したと伝えられている。文禄元年(1592)より、付近の土豪の一族だった高木盛兼が1万石で領有していた。関ケ原の戦い(1600年)以後の城主は、徳永氏、小笠原氏、松平氏が入った。松平氏は、尾張藩二代藩主徳川光友の子松平義行を祖として明治まで続いた。尾張藩の支藩として、この辺りの1万5千石のほか信濃の国伊奈郡に1万5千石を領地していた。
『現地案内看板より本文参照』


清州城へゆく (愛知県清須市)

【歴史】清州城は当初、尾張守護所の下津城の別郭として築城されました。その後下津城が戦乱で消失したため文明8年(1476)に守護所が清州城へ移されたとされています。戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を握っていました。尾張の上四郡を支配していた岩倉の織田氏と下四郡を支配した清州の織田氏が争う中で、清州織田家当主の信友を那古野城主織田信長公は攻め滅ぼして清州城に入城し、尾張の拠点としました。清州城は、「東海の巨鎮」と称えられ、尾張はもとより東国の中心地として発展を遂げました。信長の長男の信忠、二男の信雄遺構は名だたる部将が城主となりました。徳川義直の代の慶長15年(1610)徳川家康は、清州城の廃都と名古屋遷都を命じ、3年後には「清州越し」が完了しました。清州城は廃城となり、城下町から、美濃路の宿場町へと姿を変えていきました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】尾張藩の支藩であり、幕末に高須四兄弟を輩出した高須藩の居城である高須城と、尾張藩付家老竹腰氏の居城である今尾城。岐阜県の中でも海抜0m地帯に立地する両城は、当然平城となるため、現在その遺構を地表面で確認することは難しい。特に平城の多い西濃地域はこのように石碑だけの城址も多く、遺構の確認も困難な場合が多い。この後に訪れた清州城と合わせて、今日は久しぶりに遺構がわかりにくい城址ばかりを巡った1日となりました。

今尾城跡(今尾小学校)

高須城 城址公園の碑

清州城の模擬天守閣

6月25日 遠江・三河国への城址探訪
黒田代官屋敷へゆく (静岡県菊川市下平川)

【歴史】黒田家は代々武家で、永禄年間(1558〜1570)に現在地に居住、江戸時代には四千石の旗本、本多日向守の代官を代々務めていました。屋敷は正面に大規模な長屋門を構えて、周囲には城郭の面影を残す堀をめぐらした広大なもので1ヘクタールほどあります。現在の主屋は安政の大地震後に再建されたものです。
『現地案内看板より本文抜粋』


茶臼山本陣跡へゆく (愛知県新城市牛倉城山)

【歴史】設楽原へ進出した織田軍の第二本陣はこの茶臼山のあたり、古くから城山と呼びます。天正3年(1575)旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き茶臼山付近に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】静岡県藤枝市の郷土資料館で開催されている『今川展』を観たついでに、菊川市の黒田代官屋敷跡を訪れ、そのあと高速へ。途中に休憩のため新東名の長篠設楽原PA(下り)へ立ち寄ると、目の前の台地の頂上にいくつもの幟が見えた。よく見ると近くに「信長公本陣跡」の看板があり、初めて目の前の台地が茶臼山であることに気が付いた。茶臼山と言うと、設楽原合戦の折に信長が陣取った山のイメージがあったため、PA内から歩いて約2分の場所に茶臼山があることに驚くばかり。この茶臼山山頂の隣にPAを設置しようと思った設計者の発想にただただ脱帽です。

現存 黒田代官屋敷長屋門

織田信長 茶臼山本陣跡

6月10日 信濃国への城址探訪
松岡城へゆく (長野県下伊那郡高森町下市田)

【歴史】松岡城跡は高森町の南部、天竜川を望む標高560mの段丘先端部に立地する。築城は南北朝の戦乱の頃といわれ、その後戦国時代に大きな修築が加えられたと考えられる。およそ200年間にわたって市田郷領主松岡氏の本拠地となり、天正16年(1588)同氏の改易により廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


伊豆木陣屋へゆく (長野県飯田市伊豆木)

【歴史】伊豆木小笠原家は中世松尾に居城した松尾小笠原家の後裔です。慶長5年(1600)徳川家康より初代小笠原長巨が伊豆木において秣料千石を賜り、この地に居館を構え以後代々ここに居住しました。その居館は小型の城郭をなしていましたが、明治初年帰農の際に大半の建物がとりこわされ書院のみが残されました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】5月に放映された大河ドラマの直虎紀行の中で松岡城址が紹介されました。これまで何度も近くを通っているのに訪れたことがなかった松岡城址ですが、この放送で遺構の残存状況や駐車スペースが確保されているのを知り、今回訪れてみました。大河ドラマの中では井伊直親(亀之丞)が、井伊谷から一時避難した場所(松源寺)として登場するのですが、現地を訪れてみると大河ドラマをPRした多くの旗やチラシ類が置かれており、今更ながら大河ドラマの舞台になるという影響力の凄さを感じました。城址自体は伊那郡の特徴である段丘を利用した城址の様子がよくわかり、空堀なども良好に残されているので、これを機に大河ドラマの内容だけでなく、城址の魅力も多くの人に知ってもらいたいものです。

松岡城の三の堀跡

現存 旧小笠原書院

6月3日 三河国への城址探訪
東条城へゆく (愛知県西尾市吉良町駮馬城山)

【歴史】東条城は中世に吉良荘の東側を治めた東条吉良氏の居城です。永禄4年(1561)に東条城は松平元康軍の攻略を受け落城し、東条城には城代松井忠次が入城しました。天正3年(1575)に松井は牧野城に転封となり、東条城は廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


西尾城へゆく (愛知県西尾市錦城町)

【歴史】承久の乱(1221)の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏が築城したのが西条城(西尾城)の始まりと伝えられます。足利氏は、吉良氏と改め、この地を治めます。戦国時代末には牧野成定、酒井正親、田中吉政と城主は代わり、城域も次第に拡大しました。関ケ原の戦い後、慶長6年(1601)に本田康俊が西尾2万石の藩主として入りました。その後、藩主は松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と頻繁に代わりますが、いずれも譜代大名でした。寛永15年(1638)、太田資宗が西尾城の大改修を計画し、西尾城の特色の1つである堀と土塁が城下町を囲む「総構え」と呼ばれる体制を企て、井伊直之が工事を受け継いで明暦3年(1657)に完成しました。明和元年(1764)に山形から大給松平氏が6万石西尾藩主として入城以来、廃藩まで5代続きました。
『現地案内看板より本文抜粋』


本證寺へゆく (愛知県安城市野寺町野寺)

【歴史】本證寺は真宗大谷派の寺院で、山号を雲龍山といいます。鎌倉時代後期に、慶円によって開かれました。15世紀後半には、本願寺の蓮如の教化によって浄土真宗の高田派から本願寺派(一向宗)に転じました。16世紀の前半になると、二重の堀と土塁が築かれました。これにより、城郭寺院とも呼ばれています。永禄6年(1563)の三河一向一揆では、本證寺はほかの三河三か寺とともに領主の徳川家康と争いました。いったんは和議が結ばれますが、家康から一方的に出された改宗命令を拒否したため、坊主衆は領国から追放となり、建物も破却されたと伝えられます。
『現地案内看板より本文抜粋』


刈谷城へゆく (愛知県刈谷市城町)

【歴史】刈谷城は天文2年(1533)水野忠政の築城で、亀城とも呼ばれ、徳川家康の生母、於大の方の育った城である。城主は、水野家のあと、水野(分家)、松平(深溝)、松平(久松)、稲垣、阿部、本多、三浦と続き、土井家が2万3千石で廃藩まで在城した。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】城めぐりをする時、事前に調べておくことのひとつに駐車場の有無確認があります。この日最後に訪れた刈谷城址は市民公園(亀城公園)になっており、駐車場も比較的多いため、何の心配もせず向かったのですが、いざ刈谷城址に着いてみると交通整理の方が出ている程の盛況ぶり。一体何のイベントをやっているのかと、案内を探しても特に主だったイベントがない。何とか車を空いたスペースに止め、公園内を20分ほど散策してから、家路についた。夕方、家でニュースを見ていると、駐車場が混んでいた理由が判明した。どうやら早稲田実業の清宮選手が試合のため、公園内の野球場に来ていたらしい。しかも通算本塁打100本が出るかもしれないという注目の試合だったようだ。せっかく刈谷に行ったなら、少ない遺構を探すよりも、清宮選手を見てこればよかったと、後から少し悔いの残る訪城となりました。

東条城の模擬櫓と門

西尾城本丸丑寅櫓

本證寺の鼓楼

刈谷城址

5月4日 越前国への城址探訪
一乗谷遺跡へゆく (福井県福井市城戸ノ内町)

【歴史】福井市の東南約10km「一乗ハ山ノ間ノ谷」に築かれた朝倉氏遺跡は、戦国時代の城下町の跡で、400年以上もそっくり埋もれてきたことで有名です。朝倉館は第5代義景の住まいした所で、後の江戸時代に建てられた西側唐門から入ります。館は三方に濠と土塁が巡り、6400uの敷地に17棟の建物が建っていました。常御殿を中心にして、南方には花壇、庭園、主殿、会所、茶室などの表向の建物群が、また北方には台所や厩、湯殿、蔵など内向の建物群が整然と配置されています。
『一乗谷朝倉氏遺跡資料館しおりより本文抜粋』


丸岡藩砲台跡へゆく (福井県坂井市三国町梶)

【歴史】付近の海岸一帯は、越前松島と呼ばれ、安山岩の柱状節理が良く発達し、東尋坊と趣を異にして、壮観優美な景観を呈しており、国の名勝天然記念物に指定されています。この突端には、幕末に外国船渡来の急を告げた時、丸岡藩が自領内のこの地に築いた砲台跡があります。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】一乗谷遺跡は自分に中世城館跡の魅力を教えてくれた思い出深い場所です。初めて訪れたのは17年前。戦国時代には最先端の文化都市として栄えた一乗谷も、現代においては静けさ漂う鄙びた山村であったことに諸行無常とはこのようなものかと感慨を覚えたのを思い出します。しかしこの17年の間に、一乗谷遺跡は急速に史跡整備が進みました。中世の街並みが復元されたり、日本百名城に選定されたり、イベントなども多く開催されたりと、17年前に感じた感慨深さはどこへやら、今や一乗谷は立派な観光地となってしまいました。GWであるこの日も多くの人でにぎわっており、あらためて17年の時の流れを感じてしまいました。

一乗谷の朝倉氏館跡


丸岡藩砲台跡

4月22日 飛騨国への城址探訪
下呂森城へゆく (岐阜県下呂市小川)

【歴史】森城は、室町時代中期に森和泉守が山城として築城されたという伝えがありますが、定かではありません。城の形態としては、空堀や曲輪の跡から、中世の城としてみられる砦を作ったか、もしくは築城途中であったと思われますが、調査結果では遺構・建物が検出されず、いずれも不明となっています。
『現地案内看板より本文抜粋』


鳳慈尾山大威徳寺跡へゆく (岐阜県下呂市御厩野)

【歴史】大威徳寺は、濃飛国境の舞台峠近くに建立された寺院で、寺院北東にある拝殿山から延びる丘陵の先端、標高742mの地点に寺院はある。寺院の最盛期は14世紀から15世紀の室町時代である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の命を受け、文覚上人が建立したとも伝承にはあるが、天正15年(1587)の『濃州長瀧寺阿名院所在経文末書』に具体的に記される。本堂・拝殿・三重塔といった堂塔の他、僧侶の住居である坊が12坊存在したとある。しかし、永禄・元亀年間(16世紀中頃)に生じた飛騨三木氏と東濃遠山氏による威徳寺合戦により堂塔が焼失し、さらに天正13年(1585)の大地震により寺院はほぼ壊滅したと伝わる。17世紀後半頃までは細々と寺院は存続したようである。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】特に期待もせず地方のマイナーな山城めぐりをしていると、山中であるのに、山の頂であるのに、突如として広大な曲輪を目にし驚くことがあります。大体は事前に城址の情報を仕入れずに訪れた結果であるわけですが、それでも広大な削平地を目にした時は、とても感動的な気分になります。この日訪れた下呂森城も知名度のある城址ではないですが、比高100m程の整備された山道を登り切った先には想像以上に大きな曲輪が広がっています。櫓風の展望台からの眺めが売りの城址ですが、展望台からの景色よりも、広大な曲輪とそれを取り巻く腰曲輪の存在に感動した訪城となりました。

下呂森城の展望台


大威徳寺 本堂跡

3月5日 山城国への城址探訪
二条城へゆく (京都府京都市中京区二条城町)

【歴史】慶長7年(1602)徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者により着工され、翌月に完成した。京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、初めは小規模のものであった。家康の征夷大将軍の拝賀及び二代秀忠の将軍宣下はこの二条城で行われた。その後も造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、五層の天守閣も備えていた。文久3年(1863)、14代将軍家茂が入城、攘夷の実行を誓い、慶応年(1867)15代将軍慶喜がこの城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。
『現地案内看板より本文抜粋』


妙顕寺城へゆく (京都府京都市中京区古城町)

【歴史】妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。天正11年(1583)9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させてあとに二条新邸を構築し、天正14年(1586)聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛するとここが宿舎となった。秀吉が次第に天下を握っていく間の重要な政治拠点であった。。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】「しまった。100名城スタンプ帳を持ってくるのを忘れた!」と入場口を通ってからハタと気づく。10年ぶりくらいの京都。今回の目的は京都市文化博物館で開催されている戦国時代展であったため、すっかり城に行くという気持ちが欠けていた。スタンプを押すことが城めぐりの目的ではないが、オプションのひとつではある。以前に二条城を訪れた時には、まだ100名城スタンプが設置される前であったため、二条城のスタンプはまだ押せていない。久しぶりの二条城訪問だっただけに、スタンプ集めが目的ではないとは言え、少し悔いの残る訪城となりました。

二条城二の丸御殿


妙顕寺城址碑

2月19日 美濃国への城址探訪
革手城へゆく (岐阜県岐阜市正法寺町)

【歴史】美濃第3代守護職土岐頼康は、足利尊氏の命により信州・豫洲を平定、その軍功により美濃・尾張・伊勢の3カ国の守護職となる。長森城は所狭きをもって1353年6月、現岐阜市下川手に革手城を築きこれに移った。この城は、旧木曽川と現荒田川を改修し天然の地の利を生かした広大な城地で、七堂伽藍をもつ霊薬山正法寺・源氏の守護神八幡神社をはじめ、神社仏閣、数多くの平屋建築、城郭というより御殿風(都風)の建物だったと推察される。以後、革手城は11代まで歴代の守護職の拠城となる。斎藤道三が岐阜城に本拠をもち革手城は廃城となる。その上、徳川家康は加納城築城に土砂まで使用し、革手城は跡形もなくなった。
『現地案内看板より本文抜粋』


加納城へゆく (岐阜県岐阜市加納丸之内)

【歴史】加納城は、徳川家康が慶長5年(1600)の関ケ原合戦の直後、築城を命じた城です。北から南へ5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸、大藪曲輪)があり、それらは堀と川に囲まれ、「水に浮かぶ城」という景観でした。また石垣などは関ケ原合戦で落城した岐阜城から運んだと伝えられています。初代城主は徳川家康の長女亀姫の婿、奥平信昌で10万石が与えられ、それ以後代々の城主は譜代大名が勤めました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】室町時代の美濃国守護は土岐氏である。現在も土岐市や土岐町、土岐津町という地名が残るように、東濃西部は鎌倉時代以来の土岐氏の本拠地であり、室町初代土岐頼貞は、土岐市の大富館を守護所としていた。しかし二代頼遠の時には岐阜市の長森城へ、さらに三代頼康の時には岐阜市の革手城へと守護所が移ることになる。以後、美濃国守護所は何度も移転するのであるが、現在その多くの守護所跡には石碑が建つのみである。この日も石碑のみの革手城跡を訪れた後、そのことを知り合いに話すと、「そんな城跡があったの?」というお決まりの言葉が返ってきた。土岐氏が3か国の守護を兼任した時期に本拠としていた革手城。もっと知名度が上がらないものか。

革手城址碑


加納城の天守台石垣

1月7日 越前国・近江国への城址探訪
玄蕃尾城へゆく (福井県敦賀市刀根・滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬)

【歴史】玄蕃尾(内中尾山)城跡は、滋賀県と福井県境の柳ヶ瀬山(内中尾山)山上にある。かつて、この城には賤ケ岳の合戦(天正11年・1583年)の際、戦国時代の武将である柴田勝家の本陣が置かれたところである。本遺構は、極めて限定された時期の城郭の遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の標識遺跡として重要である。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】玄蕃尾城は山城について扱った図鑑には必ずと言っていいほど紹介されている城マニアの間では超有名な山城です。以前から訪れたいと思いながらも、多くの本やHPで「熊に注意!」という紹介がされているため、これまで訪れることをためらっていた城でもあります。しかし今年の年明けは積雪も少なく、天気の良い日が続く山城散策にとってはベストなコンディション。この日は思い切って念願の玄蕃尾城へ登城することを思い立ちました。登城道の途中で発見する熊の爪痕らしきものがついた樹木や、鹿の足跡らしきものに怯えながらも、下草の少ないベストな状態の玄蕃尾城を目の当たりにし、さっきまでの恐怖はどこへやら、土づくりの城の素晴らしさに感動しまくりの1日となりました。

玄蕃尾城の馬出と土橋跡

1月5日 三河国への城址探訪
長篠城へゆく (愛知県新城市長篠市場)

【歴史】1508年(永正5)今川氏親に属する菅沼元成が長篠城を築きました。1571年(元亀2)長篠城は武田軍(秋山、天野)に攻められて降参し武田信玄に属します。1573年(元亀4〜天正元)野田城を落とした信玄は長篠城で休養、三河から伊那路へかかるあたりで死去。徳川家康は長篠城を奪回し、城主菅沼正貞は家康に内応したとして武田軍に捕らえられました。武田軍に属していた奥平貞能、貞昌父子は離脱して徳川軍へ投じ、1575年(天正3)2月、徳川家康は長篠城を奥平貞昌に与えました。貞昌は急ぎ城郭の修理補強を行い、5月には武田勝頼が来襲しましたが、猛攻に耐えて家康の期待に応えました。
『長篠城址史跡保存館しおりより本文抜粋』


大野田城へゆく (愛知県新城市野田幹徳)

【歴史】大野田城は始め、建武の新政(1333年)の頃に富永氏の出城として築城され、応永年間(1394〜1427)の頃は城所浄古斎の砦として利用された。永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で討死すると野田城の菅沼定盈は今川から離れて徳川家康についたため、義元の子今川氏真は翌年、怒って菅沼定盈を攻めた。定盈は衆寡敵せず、一旦は和議を結んで野田城を明け渡したが、永禄5年(1562)再度野田城を奪い返した。この戦いで大破した野田城の修復のため、定盈は浄古斎の旧砦を利用して本丸とし、さらに二の丸・三の丸を北側に拡大して、その名も大野田城としたと伝えられる。元亀2年(1571)、武田信玄は足助城を陥れ、作手からこの地を攻め、定盈は城に火を放って豊川を渡り、西郷(豊田市)へ退却し廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


野田城へゆく (愛知県新城市野田豊島本城)

【歴史】この城は、永正5年(1508)に築城されたと伝えられる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈等がここを居城とした。城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正18年(1590)定盈が関東へ入封されるまで続いた。
『現地案内看板より本文抜粋』


古宮城へゆく (愛知県新城市作手清岳宮山)

【歴史】古宮城は武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信房に命じ元亀2年(1571)に築城したと伝わります。城址は南北約200m、東西約250mの独立した小山全体からなっています。古宮城は南東北の三面が湿地になっており、西方は塞之神城に通じ主要部が東西に分かれた一部別郭式の要害堅固な城でした。愛知県内唯一の甲州流築城といわれています。要害を誇った古宮城も天正元年(1573)に奥平・徳川連合軍の手によって落城しています。
『現地案内看板より本文抜粋』


松平城へゆく (愛知県豊田市松平町三斗蒔)

【歴史】郷敷城とも呼ばれる。応永の頃(1394〜1427)松平氏の始祖親氏が築いたといわれる。跡を継いだ二代泰親とともに岩津(岡崎市)に進出してからは、次男信広の居城となったと伝えられる。信広は松平郷松平家の祖となり、子孫はその後も松平郷にとどまって442石取りの交替寄合旗本となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】2017年の城めぐりは奥三河の城址からスタートです。今年のお正月は有り難いことに暖かい日が続いているため降雪や凍結を気にせず峠を越えることができます。奥三河の城址はこれまでに何度も訪れていますが、冬季に訪れるのは初めて。以前も見ている遺構なのに、他の季節よりもダイナミックに見える空堀や土塁に、いちいち感嘆の声を上げながら半日の城めぐりを楽しみました。よい2017年のスタートが切れました。

長篠城の土居と空堀跡

大野田城址

野田城の空堀跡

古宮城の空堀跡

松平城址

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