城址探訪記(2023)

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12月17日 近江国への城址探訪
坂本城へゆく (滋賀県大津市下坂本)

【歴史】元亀2年(1571)9月の比叡山延暦寺焼き打ち直後、織田信長は明智光秀に滋賀郡支配を命じるとともに、浜坂本に水城を築かせました。日本最古級の天主がそびえていた当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、天正4年(1576)に築城された信長の安土城に次いで豪壮華麗な城と称賛しています。天正10年6月の山崎の合戦ののち焼失しますが、丹羽長秀によって再建され、同14年頃、城主浅野長吉の時に大津城に移るまでこの地にありました。
『現地案内看板より本文抜粋』


大津城へゆく (滋賀県大津市浜大津)

【歴史】戦国時代の終わり、豊臣秀吉は坂本城を廃し、大津城を築きました。築城年代は天正14年(1586)頃とされ、初代城主は坂本城主であった朝の長吉(長政)、その後、増田長盛、新庄直頼を経て、文禄4年(1595)に京極高次が就任しています。慶長5年(1600)の天下分け目の関ヶ原の合戦においては、東軍についたため、西軍の大軍が大津城に押し寄せ、奮闘の末、関ヶ原の合戦の当日、開城しています。
『現地案内看板より本文抜粋』


膳所城へゆく (滋賀県大津市本丸町)

【歴史】関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、東海道を制し、湖上の船運を抑える目的で、現在の膳所城跡公園(膳所崎)に膳所城を築城させました。築城計画は藤堂高虎が担当し、それまで膳所崎に流れていた相模川を北方につけかえさせたといいます。はじめのお城は、本丸と二の丸、三の丸が分かれていましたが、寛文2年(1662)の大地震でお城が大きな被害を受け、それまで分かれていた本丸と二の丸を合体させ、東西が最大80間、南北最大約55間の規模を持つ本丸として再生しました。城主は、初代が戸田一西、以後、戸田氏鉄、本多康俊、本多俊次、菅沼定芳、石川忠総、石川憲之と続き、慶安4年(1651)本多俊次が再度の任について以降は、本多家が代々情趣を歴任しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】最近、直木賞作家である今村翔吾さんの小説『塞王の盾』を読んでから、これまで全く関心のなかった大津城に対して興味を抱くようになった。小説に登場する大津城は戦略的な縄張りを有する城として描かれているが、現在の大津城址と言えば石碑だけが設置されているのみの残念なイメージしかないのが正直なところだ。しかし実際に現地を訪れてみると、小説に登場するような穴太衆の野面積みを彷彿とさせる外堀の石垣なども見ることができ、小説の世界感に浸りながら街歩きをしてみたら、現在の大津城址がとても魅力的な城に見えてきました。この日一緒に訪れた坂本城や膳所城を含め、想像以上に楽しめた湖城巡りの旅となりました。

坂本城址本丸石垣


大津城址の 伝 外堀跡石垣


膳所城本丸土橋門
(現在は膳所神社移築)

11月23日 近江国への城址探訪
三雲城へゆく (滋賀県湖南市吉永)

【歴史】三雲城(吉永城)は、長享元年(1487)佐々木六角高頼の命を受けて築城されました。代々の城主三雲氏はもと関東御家人で武蔵七党の児玉氏を名乗っていましたが、明応年中(1492)にこの地に定住し、三雲を名乗り土豪として活躍した戦国武将でした。城は幾度か六角氏の亡命に用いられ、天文6年(1537)には六角義賢が、永禄11年(1568)には義賢、義治が逃げて来ています。元亀元年(1570)、六角軍が織田軍と交戦した際も、最後まで戦い、降伏し落城。三雲氏は領主の地位は失いましたが、後に徳川家康に仕え、代々徳川旗本として続きました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】この日の三雲城址は思いのほか多くの人々でにぎわっていた。紅葉見物の集団だろうかと考えながら主郭を目指して登城道を上っていると、係員らしき人から、「JRの参加者ですか」と声を掛けられた。どうやら今日の三雲城はJRふれあいハイキングのコースとなっているらしく、東側の郭跡からロケット砲のような装置で”のろし玉”を上げる企画が行なわれることまでは認識できた。家に帰ってから企画の詳細を調べてみると、「三雲城址戦国のろしと秋野菜収穫体験」というタイトルだったが、果たして参加者の目当ては城址と秋野菜のどちらが高かったのだろうかと思わず考えてしまった。

三雲城址主郭の桝形虎口跡

11月12日 美濃国への城址探訪
美濃金山城へゆく (岐阜県可児市兼山)

【歴史】天文6年に斎藤道三の猶子である斉藤大納言正義が山頂に築城、烏峰城と称し、それまで中井戸の庄の地名を金山村と改めました。永禄八年(1565)織田信長は東濃経路の拠点として森可成を金山城主として以来森可成・長可・忠政父子三代の居城として栄えました。信長の小姓として有名な森蘭丸は可成の三男であり、この金山城で出生したと云われています。しかしそんな森一族も浅井・朝倉軍との戦いでは可成と長男可隆が、本能寺の変では三男蘭丸・四男坊丸・五男力丸が、小牧長久手合戦では二男長可が戦死したため、最後は六男忠政が家督を継ぐこととなります。そして森氏の松代転封後、慶長6年に金山城は解体されたようです。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】以前、美濃金山城に訪れたのは全国山城サミット可児大会が開催された2019年。今回は同じく可児市で毎年開催されている『山城に行こう』のイベントに参加するために、4年ぶりに美濃金山城を訪れてみた。美濃金山城を選んだ理由は、同日に航空自衛隊岐阜基地で開催されている航空祭の展示飛行がよく見えるのではないかと思ったからだ。予想したとおり、この日は城址の上空を旋回していく戦闘機や輸送機を見ることができたのであるが、それ以上に今回訪れて良かったと感じたのは、4年前とは格段に進化した美濃金山城の姿が見られたことだった。4年前に訪れた時以上により広い空間認識ができる城址へとさらに進化していたのである。さらに言うと、城址のことを知り尽くした方々がどの部分を見せると良いのかをちゃんと計算して整備されている光景が、城址に足を踏み入れただけでも十分に分かるのだ。いつものことながら、このような素晴らしい城址を提供していただいている方々に感謝の念しかありません。まさに東美濃が全国的に誇れる城址の一つです。

美濃金山城址の二の丸側面石垣


城址から眺めた展示飛行

11月4日 大和国への城址探訪
筒井城へゆく (奈良県大和郡山市筒井町)

【歴史】筒井城が初めて文献に現れるのは15世紀初頭のことですが、発掘調査により、14世紀中頃にはすでに主郭を取り囲む幅約6m、深さ約2mもの大規模な堀(内堀)があったことがわかっています。筒井城最後の城主となったのは、筒井順慶です。順慶は苦戦の末、大和に侵攻した松永久秀に打ち勝ち、天正4年(1576)、織田信長によって大和国支配を任じられました。天正8年(1580)、筒井城は織田信長の命によって破却され、筒井氏は居城をここから約3.5km北にある郡山城に移しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


大和郡山城へゆく (奈良県大和郡山市城内町)

【歴史】郡山城は、天正6〜7年(1578〜1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同8年の一国一城令に基づき拡張、同11年には天守閣も完成を見た。同13年、豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄5年(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行なわれ、外堀を一周させ、城下町の完成をみるに至った。関ヶ原戦後、長盛が改易され、大坂夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の居城として栄えた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今回15年ぶりに郡山城に訪れた理由は写真撮影のリベンジを果たすためである。15年前、明日香村にある吉備姫王の墓や猿石を撮影した直後に、突如としてデジカメの画像が粗くなる現象が起こり始めた。その後、郡山城に移動して撮影するころには、さらに画像粒子の乱れが顕著になり、撮影した写真のほとんどが使えない状況となってしまった。不思議なことに次の日にはデジカメも通常の状態に戻っていたのであるが、それでも郡山城の写真がないという喪失感が残る旅となってしまった。そのため、今回は筒井城と郡山城のみを訪れる日帰り旅行を計画し、より多くの時間を郡山城の撮影に割けるようにしたことで、15年ぶりのリベンジを無事果たしたのであった。

筒井城址碑


郡山城址の復元追手向櫓と大手門

10月22日 甲斐国への城址探訪
要害山城へゆく (山梨県甲府市上積翠寺町)

【歴史】要害城は、永正17年(1520)に武田信虎が築いた山城です。居館と政庁を兼ねた武田氏館に対し、緊急時に立てこもる詰の城としての役割をになってきました。信虎・信玄・勝頼と3代にわたって使用され、武田氏滅亡後も修築・再整備されました。
『現地案内看板より本文抜粋』


武田氏館(躑躅ヶ崎館)へゆく (山梨県甲府市古府中町)

【歴史】武田氏館は躑躅ヶ崎館とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16年(1519)に石和からこの地に館を移したことから始まります。その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年にわたり、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】お城廻りで撮影した写真は、その日か翌日のうちに1枚1枚名前を付けて保存するようにしている。けれども夢中になってたくさん撮影した山城の写真は、家に帰ってから名前をつけて整理しようと思っても、どこの地点で撮影したのかを忘れてしまっていることも多く、全ての写真に名前を付け終わるのに2日くらいかかってしまうこともある。今回登城した要害山城でも、枡形虎口や堀切・竪堀の写真を夢中になって撮影したのだが、家に帰って写真を整理する頃には、「はて、この門跡は何番目に出会った門跡だっただろうか?」と、案の定名前を付ける作業が難航してしまった。しかし撮影した写真が多いということは、それだけ自分の中では良い城だったということであり、要害山城もさすが続100名城に選出されるだけあって改めてその魅力を実感をした。

要害山城址の主郭南側の土塁


武田氏館跡大手門東史跡公園

8月24日 蝦夷ヶ島への城址探訪
モシリヤチャシ跡へゆく (北海道釧路市城山)

【歴史】モシリヤチャシは、釧路川に面して半島状に突き出た台地を利用してつくられている。モシリヤはこの付近一帯の地名であり、サルシナイチャシ、ポロチャシとも呼ばれてきた。チャシの頂部は、標高が18mあり、比高差5mの壕によって南側の本チャシと北側の副チャシに分けられる。春採湖畔のウライケチャシを築いたトミカラアイノ(宝暦年間1751〜1763年に実在)が構築したものといわれ、その後の利用者もわかる数少ないチャシの一つである。
『現地案内看板より本文抜粋』


ハルトルチャランケチャシ跡へゆく (北海道釧路市春湖台)

【歴史】ハルトルチャランケチャシは、春採湖に突き出した地形を利用してつくられている。チャランケは裁判・談判を意味するアイヌ語だが、この付近はトーモシリ、イキタラウシなどと呼ばれていた。チャシ頂部の標高は12mで、北側を除き急斜面で湖に面している。壕は湖に対して弧状に開くものが2条あり、壕内側の規模は南北15m、東西30mを計測する。東側に竪穴住居跡7個が確認できるほか、南側には船着き場があったといわれている。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今回の道東旅で楽しみにしていたのが、釧路川流域チャシ群である。国史跡でありながら観光地として紹介されることは少なく、実際にgoogle mapのストリートビューを見ているときにその存在を認知したほどだ。道東のチャシ跡と言えば日本100名城にも選ばれている根室半島チャシ群がクローズアップされることが多いが、実際に訪れてみると釧路川流域チャシ群も国史跡になるだけあってなかなかのものだ。特にハルトルチャランケチャシ跡などは二重三重の壕が取り巻りまいており、地元にあればちょっとした観光地にもなりそうである。しかし昨日も含め、ヲンネモトチャシ跡以外では、自分以外の訪問者に出会うことはなく、それはそれでゆっくり見学できたのだが、もう少し注目されてもよい史跡だと感じました。

モシリヤチャシ跡


ハルトルチャランケチャシの壕跡

8月23日 蝦夷ヶ島への城址探訪
ノツカマフ1号・2号チャシ跡へゆく (北海道根室市牧の内)

【歴史】ノツカマフ1号チャシ跡は半円系の壕が2つ連結して構成されています。壕の幅は約5m、深さは2〜3mと深く、壕の一部に土橋と思われる高まりがみられます。ノツカマフ2号チャシは半円形の壕が1ヶ所巡り、幅2〜3mで深さ50cm程度と壕が浅くつくられています。チャシ跡からは北方領土の国後島や歯舞群島を見渡すことができます。
『現地案内看板より本文抜粋』


ヲンネモトチャシ跡へゆく (北海道根室市温根元)

【歴史】ヲンネモトチャシ跡は、温根元湾の西岸に突出した岬の上に盛土を行い、壕で区画し、盛土頂上に平坦面を2ヶ所作り出しています。温根元漁港から側面を見ると「お供え餅」のように見え、形の良好なチャシ跡として知られています。近くには長さ12mのオホーツク文化期の大きな竪穴もあり、古くからこの湾が利用されてきました。
『現地案内看板より本文抜粋』


筑紫恋チャシ跡へゆく (北海道厚岸郡厚岸町筑紫恋)

【歴史】ツクシコヱ 小岩岬。此処番屋有。裏に城の跡と云もの有る也。所謂判官様の屋敷跡と云。
『「アイヌ伝承と砦」(編著者 宇田川洋 北海道出版企画センター 2005年)より本文抜粋』


鹿落しのチャシ跡へゆく (北海道厚岸郡厚岸町奔渡)

【歴史】鹿落しのチャシ跡は、厚岸湖に面したお供山の東側標高74mの崖上に築かれていて、主要部は21m×18mで、北・西・南の三方に幅5mのコの字状の壕が掘られ、周辺にはカキの殻が散らばっています。崖下から鹿の骨が出土しており、鹿を追い落として狩りをしていたとの言い伝えもあって、この名が付きました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】城跡巡りを始めて約25年が経過するが、北海道にチャシ跡という遺構があることを認識したのは、おそらく日本100名城が選定された2007年頃だったと思う。それまではチャシという言葉を見ても、「城」という概念でとらえることがなかったために、その存在が頭に残ることはなかった。しかし、日本100名城のひとつに根室半島チャシ群が選定されたことで、自分の中でチャシ跡という存在を強く認識したと言える。その根室半島チャシ群であるが、チャシ群という名称が示すように、根室半島には当然数多くののチャシ跡が存在している。そのため、根室市街地から納沙布岬に車を走らせる途中、岬や丘陵、起伏のある地形を見かけるたびに、それらの全てがチャシ跡に見えてきてしまう始末だ。しかし、これらのチャシ跡については現地の案内看板を含め、歴史的な説明を見かけることはあまりない。それはアイヌ文化が独自の文字を持たなかったことによるのかもしれないが、そのような中、2年前にネットで「アイヌ伝承と砦(チャシ)」という本を見つけたことで、チャシ跡についての知識がより深まることになった。この本では、道内のチャシ跡についての伝承が地域ごとにまとめてあり、地域間の争いの様子なども語られているため、よりチャシ跡の持つ砦という側面がよくわかる本となっている。この日はこの本に書かれた砦としてのチャシ跡の機能を思い浮かべながら、根室半島から厚岸湾へとチャシ跡を巡る旅を堪能しました。

ノルカマフ1号チャシ跡

ノツカマフ2号チャシ跡

ヲンネモトチャシ跡

筑紫恋チャシ跡

鹿落としのチャシ跡

8月16日 尾張国への城址探訪
犬山城へゆく (愛知県犬山市犬山北古券)

【歴史】犬山城は天文6年(1537)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、1600年の関ヶ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました。小牧長久手合戦(1584年)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が元和3年(1617)城主となってからは、成瀬家が代々うけついで明治にいたりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


楽田城へゆく (愛知県犬山市城山)

【歴史】楽田城は、織田久長により永正年間(1504〜1521)に築城されたと伝えられます。天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦時には、小牧山の徳川家康に対峙する羽柴秀吉の本陣とされましたが、合戦終結の講和条件により取り壊しとなりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】前回の大河ドラマの1コーナー「どうする家康ツアーズ」の中で、小牧・長久手合戦の関連史跡として楽田城址が紹介された影響か、自分が現地に設置されている楽田城址の説明板を読んでいると、さらに2組の見学者がやって来た。当然、石碑しかないためすぐに帰っていくのだが、自分も含めておそらく大河ドラマを観たことで訪れた人たちなのだろう。そう考えると大河ドラマでご当地の史跡が紹介されることは、地域の歴史を見直す意味でも非常に重要な役割を果たしているとともに、大河ドラマが持つ情報発信力の凄さを改めて実感しました。

犬山城天守閣

楽田城址碑

7月16日 信濃国への城址探訪
松代城へゆく (長野県長野市松代町松代)

【歴史】松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献で確認できるのは永禄3年(1560)ですので、この頃にはすでに築城されていたことがわかります。戦国時代から江戸時代初期までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事・政治的に重要な拠点となっていました。元和8年(1622)に真田信之が上田城から松代城に移り、松代藩政の拠点としました。
『現地案内看板より本文抜粋』


牧之島城へゆく (長野県長野市信州新町牧野島)

【歴史】牧之島城は、永禄9年(1566)武田信玄が馬場信房に築かせ、越後に対する警衛と更級・水内山部の鎮撫にあてた城である。もとは香坂氏の居城・牧城の一部で、天然の要害を利用して新たに縄張りしたもので、虎の口の丸馬出、三日月堀、本丸脇の隠馬出(千人桝形)を設ける。天正10年(1582)武田氏の滅亡後、上杉景勝の属城となった。その後、慶長3年(1598)上杉氏の会津移封後海津城主となった海津城主田丸直昌、森忠政等の支配に属した。慶長8年(1603)海津(松城)城主となった松平忠輝は家臣の松平信直に在城させたが、元和2年(1616)の忠輝の改易とともに牧之島城も廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】長野市郊外の山村に武田四名臣のひとり馬場信房が築城した三日月堀の残る平城跡があると知って、今回は牧之島城に訪れた。国道19号線を車で走る道中の景色は山間の渓谷であり、このようなところに本当に平城があるのかと思いながら城址に到着すると、果たしてそこには蛇行した犀川に三方を挟まれた半島状の地形に築かれた平城があった。城址は武田氏の城らしく空堀や馬出を巧妙に配した縄張りとなっており、丸馬出が構えられた内陸側から見ると確かに平城となっているようだ。こんな山間部にこのような技巧的な城址が残っているとは、予想外に良い城に出会って満足の一日になりました。

松代城址の復元太鼓門


牧之島城址の丸馬出跡

7月2日 尾張国への城址探訪
羽黒城へゆく (愛知県犬山市羽黒摺墨)

【歴史】羽黒城は、建仁元年(1201)梶原景親によって築城されたといわれる。景親17代の末孫梶原茂助景義は、織田信長に仕え羽黒村3000石の領主となったが、天正10年(1582)本能寺の変で信長に殉じ、梶原家は絶えた。天正12年(1584)小牧山合戦の時、秀吉はこの城を修復させ、堀尾茂助や、母方の法秀院が梶原家の出生と伝えられる山内猪右衛門(一豊)等に守らせたが、焼けてのち廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今日は城郭考古学者の千田嘉博先生の講演会を拝聴するため、普段は行く機会がない犬山市の羽黒地区に訪れたついでに羽黒城址にも足を延ばした。羽黒というと小牧長久手合戦の時によく見聞きする地名であるが、そこの領主が、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主要な人物であった梶原景時の一族であったということを現地の案内看板を見て初めて知り、千田先生の講演と同じくらい意外な発見のあった城址探訪となりました。

羽黒城址の土塁跡(梶原屋敷)

6月18日 遠江国への城址探訪
諏訪原城へゆく (静岡県島田市金谷)

【歴史】諏訪原城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍鑑』等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、『諏訪原城』の名が付いたと言われています。天正3(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち『牧野城(牧野原城)』と改名され、武田方となった高天神城を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性はなくなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。
『現地案内看板より本文抜粋』


掛川城へゆく (静岡県掛川市掛川)

【歴史】掛川城は、文明年間(1469〜1486)頃今川氏の家臣が、掛川古城を築いたことに始まります。永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。永正12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期にわたる攻防の末、掛川城は開城しました。家康の支配下に入った掛川城は、甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点になりました。天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。さらに、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は、大規模な城域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣をつくりました。その後、掛川城は、松平家・太田家などの徳川譜代の大名11家26代の居城として明治維新まで続きました。
『現地案内看板より本文抜粋』


掛川古城へゆく (静岡県掛川市掛川)

【歴史】掛川城は今川氏の重臣であった朝比奈泰煕により1500年ころ子角山後に築城されました。その後、1513年には龍頭山に新たに築城されたため、子角山には建物が残っていませんが、本曲輪は現在の龍華院大猷院霊屋の位置にあったとされ、霊屋東側に残る大堀切の跡に往時の面影が残っています。戦国時代の1568年、掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めるため、徳川家康は大軍を率いて掛川城を攻めましたが、その際子角山に掛川城攻略の本陣を置いたという説があります。
『現地案内看板より本文抜粋』


久野城へゆく (静岡県袋井市鷲巣)

【歴史】久野城の築城時期は、駿河に本拠地を持っていた今川氏が遠江へ侵攻するための拠点として、明応年間(1492〜1501)頃に造ったと考えられています。歴代城主は、久野宗隆−元宗−宗能、松下之綱−重綱、久野宗能−宗成、北条氏重で、正保元年(1644)に廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】6年前、諏訪原城址に訪れたときに、二の丸跡でカモシカ3匹と出会った。今日もどこかで出会わないかと半分期待しながら城址内を散策していたが、この日はついぞカモシカに出会うことはなかった。城址内は前回訪れたときよりもさらに整備度が増しており、6月中旬を過ぎた頃でも馬出や空堀などをとても明瞭に観察することができた。訪問者にとっては大変有難いことではあるが、その分カモシカの生息域が狭まってはいないかと妙に心配になってしまった。

諏訪原城址 二の曲輪中馬出跡


掛川城復元天守閣


掛川古城の大堀切跡


久野城址の堀切

5月5日 近江国への城址探訪
小谷城へゆく (滋賀県長浜市湖北町伊部)

【歴史】小谷城は大永4年(1524)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573)までの50年間、浅井氏が根城としたところであり、六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。またこの城は信長の妹お市の方の住した所であり、その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもある。落城後、木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町、寺院等が今浜(長浜)に移される。
『現地案内看板より本文抜粋』


大嶽城へゆく (滋賀県長浜市小谷上山田町)

【歴史】小谷山の頂上に造られた曲輪であるが、浅井氏の初期段階においては小谷城の主郭が置かれていたと考えられる。その後、主郭は東側尾根に移った。山崎丸・福寿丸同様、信長侵攻に対抗するため、朝倉氏によって改造された曲輪である。天正元年(1573)8月12日大嶽城は朝倉氏の援軍が守備していたが、織田勢の攻撃を受けて落城した。
『現地案内看板より本文抜粋』


福寿丸へゆく (滋賀県長浜市小谷郡上町)

【歴史】山崎丸と同様、元亀3年(1572)に朝倉軍が最新の技術を用いて手直しした城郭で、ここを守護していた木村福寿庵にちなんで名付けられた。
『現地案内看板より本文抜粋』


山崎丸へゆく (滋賀県長浜市小谷郡上町)

【歴史】元亀3年(1572)7月朝倉義景は浅井長政に加勢するために1万5千の兵を率いて一乗谷を出陣し8月2日には最前線の智善院尾根に布陣し虎御前山城の織田信長と対峙した。山崎丸はその際に築かれたと考えられる。山崎吉家が守ったことから山崎丸と呼ばれる。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】小谷城に訪れるのは4度目なのだが、大嶽城に訪れたのは今回が初めてである。一説に大嶽城は、朝倉氏が小谷城の稚拙な構造を危惧し、尾根続きの山頂にあった古城を改修して守りを強化した城址であり、小谷城ではあまり見られない技巧的な土塁や虎口が見られる場所となっている。福寿丸や山崎丸、丁野山城や中島砦など、浅井氏の本拠小谷城の周辺だけでもこれだけ朝倉氏の築城技術を用いた城址が見られる状況からは、朝倉氏あっての浅井氏という当時の関係性も垣間見られ、実は朝倉氏から見たら浅井氏は同盟者というよりも家臣団の一部と見られていたのではとも考えてしまう。やはり朝倉氏の築城技術はレベルが高く、見ていて面白い。最近はすっかり朝倉氏のファンになっている。

小谷城址 山王丸跡の大石垣

大嶽城址の主郭跡

福寿丸跡の土塁

山崎丸跡の土塁

5月1日 美濃国への城址探訪
苗木城へゆく (岐阜県中津川市苗木)

【訪城記】苗木城友の会の会員である友人から、苗木城二の丸跡の最近の整備についての情報をもらった。「岩村城の六段壁の縮小版のように整備された石垣」と「井戸」を新たに見ることができるらしい。それらを見るために二の丸跡を中心に探索していると、雛壇状になっている5段の石積みはすぐに見当がついたものの、井戸の所在が全く分からない。しばらくウロウロしながら最終的に城内ガイドの人に訪ねてみたところ、どうやらガイドさんの中でも知る人ぞ知る遺構だったらしく、情報を持っていたひとりのガイドさんから何とかその場所を教えていただくことができた。実は江戸時代の古絵図では井戸の位置がはっきりと示されているのだが、史跡表示がまだされていなかったり、見学ルートではない谷部にあるため、何度も訪れている自分でもその所在をすぐには見つけられなかったようだ。このように苗木城ではまだまだ発展的な整備が続けれらている。今やその知名度も岩村城をはるかに凌駕していると思われるが、まだまだ知らない遺構が山中に隠れているようで、もうしばらくはその魅力が欠けることはないのだろう。さすが国史跡に選ばれるだけはある。本当に日々整備されている方々に感謝です。

苗木城二の丸の井戸跡

4月9日 三河国への城址探訪
設楽城へゆく (愛知県北設楽郡東栄町大字中設楽北城市)

【歴史】設楽城跡は、三河山間部に多い山城のうち最古のものの一つで、鎌倉時代初期の形式をよく残している。設楽氏の居城であったといわれ、戦国時代にはすでに城がなくなったと推測されている。
『現地案内看板より本文抜粋』


宇利城へゆく (愛知県新城市中宇利仁田)

【歴史】宇利城は連郭式と螺旋式を併用した山城で、文明年間(1469〜1487)に今川方の熊谷重実が築城し、松平清康の侵攻によって享禄2年(1529)に落城した。その後、天文14年(1545)に今川義元の攻撃を受け、今川氏に仕えた近藤満用らが在城下。永禄11年(1568)家康側に寝返った近藤氏は、武田軍の攻撃に耐え、その後居城を柿本城に移したといい、その後の宇利城の状況は定かではない。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】久しぶりに奥三河への城址探訪と言っても、恵那市から国道257号線を車で30分も走れば奥三河に到着する。三河国というと松平・徳川の国というイメージが強いが、松平家が今川家の傘下であった時は、三河国は今川勢力であり、三河国に隣接している当時の東濃地域は今川家と国境を接する地域であったということになる。現在、岐阜県に住んでいるとあまり今川家の脅威を感じることはないが、今川家と武田家に挟まれた東濃地域の戦国期の環境をあらためてすごいと感じた1日でした。

設楽城址の土塁跡


宇利城址の石垣

2月25日 三河国・尾張国への城址探訪
安祥城へゆく (愛知県安城市安城町)

【歴史】安城城の築城年代は、明らかではありません。文明年間(1469〜87 有力なのは文明8年・1476)に、岩津城の松平信光が奪い取ったとされます。以後、信光の子親忠が城主となり、4代の清康が岡崎に移るまで、松平の惣領家となっていました。天文9〜18年(1540〜49)の安城合戦では、織田信秀と松平広忠の間で、3度に渡りこの城を奪い合っています。今日、私たちが目にしている安城城は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに備え、徳川勢によって、当時の新しい縄張りへの改修が加えられた姿と考えられています。
『現地案内看板より本文抜粋』


西尾城へゆく (愛知県西尾市錦城町)

【歴史】承久の乱(1221)の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏が築城したのが西条城(西尾城)の始まりと伝えられます。足利氏は、吉良氏と改め、この地を治めます。戦国時代末には牧野成定、酒井正親、田中吉政と城主は代わり、城域も次第に拡大しました。関ケ原の戦い後、慶長6年(1601)に本田康俊が西尾2万石の藩主として入りました。その後、藩主は松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と頻繁に代わりますが、いずれも譜代大名でした。寛永15年(1638)、太田資宗が西尾城の大改修を計画し、西尾城の特色の1つである堀と土塁が城下町を囲む「総構え」と呼ばれる体制を企て、井伊直之が工事を受け継いで明暦3年(1657)に完成しました。明和元年(1764)に山形から大給松平氏が6万石西尾藩主として入城以来、廃藩まで5代続きました。
『現地案内看板より本文抜粋』


勝幡城へゆく (愛知県稲沢市平和町城之内)

【歴史】1504年(永正6年)、織田信定が築城した。信定の子信秀は、この地から勢力をのばし、主家の清州織田氏を凌いで尾張下4郡を掌中に収める。のちに那古屋城へ進出。小さな勝幡城は廃城とされたのだろう。以後、史書には名が出てこない。織田氏発祥の城ともいうべき城であり、一説に信秀の子信長もこの城で出生したといわれる。
『「週刊 名城をゆく37 清州城(小学館、2004年)」より本文抜粋』


【訪城記】この日は安城市歴史博物館で開催されている『家康と一向一揆展』を観るために安祥城址公園に足を踏み入れたところ、スマホを片手に佇んでいる人の姿がちらほら。次に訪れた西尾市歴史公園では老若男女を問わず、園内にいる約9割近くの人がスマホの画面を見ながら佇んでいるではないか。この光景どこかで見たことがある。そう数年前の静岡市の駿府城公園内でも目撃した光景だ。この人々の正体はどうやらポケモンGoに興じている人の集団らしい。この人たちは城跡を見に集まっているのではなく、ポケモンGoをするために城跡に集まっているのだ。むしろ西尾市歴史公園内では城跡を見学している自分たちの方が浮いているように見える。久しぶりに体験したアウェー感に少々困惑した日となりました。

安祥城址


西尾城 復興二ノ丸丑寅櫓と土塀


勝幡城址碑

2月12日 近江国への城址探訪
京極氏館跡へゆく (滋賀県米原市上平寺)

【歴史】永正2年(1505)、永く続いていた一族の内紛を日光寺の講和で収めた京極高清は、山岳寺院上平寺があったこの地を利用して居館を築きます。伊吹神社境内全域が京極氏館跡で、庭園を伴った京極氏の住まいや蔵屋敷、隠岐屋敷や弾正屋敷といった家臣団の屋敷が立ち並んでいたようです。16世紀初頭には政治拠点として栄えた上平寺ですが、大永3年(1523)、高清を補佐する上坂信光の専横に対し、浅見・浅井・三田村・堀氏などが上平寺城を攻め落とし、京極氏館は廃絶したと考えらえています。
『現地案内看板より本文抜粋』


上平寺城へゆく (滋賀県米原市藤川)

【歴史】伊吹山頂から南側に伸びる尾根上にある上平寺城跡は、京極氏館の「詰の城」として京極高清によって築かれたと考えられます。大永3年(1523)、家臣団のクーデターにより高清が失脚すると、上平寺城は京極氏の主城としての地位を失い、北国脇往還や東山道の美濃国境を防衛する「境目の城」として機能しました。その後、北近江の覇者となった浅井氏は、上平寺城をめぐって斎藤氏や織田氏と攻防戦を繰り返します。『信長公記』には、元亀元年(1570)、浅井方の上平寺城と長比城が、守将の堀・樋口の内応により、戦わずして織田方に開城したことが記されています。
『「上平寺城トレッキングマップ」より本文抜粋』


弥高寺跡へゆく (滋賀県米原市弥高)

【歴史】弥高寺は、山岳修験の祖といわれる役行者や加賀白山の泰澄が入山し、仁寿年間(851〜854)、三修によって整えられ、のちに国家公認の定額寺となった伊吹山寺を前身とします。のちに分立した伊吹山四ヶ寺の中心的寺院だと考えられます。応仁の乱以降、山城としても機能していたようで、明応4年(1495)に京極政高が「弥高より進み」、翌年には京極高清が弥高寺に「御陣」を構えたことが記録にみえます。元亀元年(1570)の信長の北近江侵攻の際、浅井・朝倉軍により、上平寺城とともに改修されたこともわかっています。
『「弥高寺とれっきんぶマップ」より本文抜粋』


【訪城記】戎光祥出版『朝倉氏の城郭と合戦』という本を読んでから、朝倉氏の築城技術の高さを知り、機会があればその技術の高さを味わえる城址に行きたいと思っていた。そしてそのような条件にあう城址として選んだのが今回訪れた上平寺城である。上平寺城は京極氏の城郭を朝倉氏が部分的に改修したとされるため、縄張の様子が明確に分かれているのだ。実際に訪れてみるとその違いは一目瞭然。城内では郭を土塁で囲い込む朝倉氏の設計コンセプトを十分味わうことができ、その技術の高さを思う存分堪能できた良い時間が過ごせました。

京極氏館庭園跡


上平寺城の主郭跡


弥高寺の僧坊跡

1月22日 備中国への城址探訪
備中松山城へゆく (岡山県高梁市内山下)

【歴史】鎌倉時代の延応2年(1240)に有漢郷の地頭秋葉三郎重信により臥牛山のうち大松山に砦が築かれたことに始まる。その後、城の縄張は時代とともに変化するが、なかでも天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は、「砦二十一丸」と呼ばれる出丸が築かれていたことが記録に残り、臥牛山全域が一大要塞となっていたことがうかがえる。当時の城主であった三村氏没後も、毛利氏の東方進出の拠点として、また毛利氏が防長二国に退いてからは、備中国奉行小堀正次・政一(遠州)により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っている。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えるが、現存する天守などは、天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられる。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】普段、「日本で一番好きな城はどこ?」と尋ねられると、最終的には備中松山城と答えている。現存天守閣の城を選ぶとはベタな選択と思われるかもしれないが、地元の岩村城と同じ近世日本三大山城のひとつということもさることながら、やはり山道を登った先に現存天守閣が待っているという感動は何物にも代えられない唯一無二の魅力があると思うからだ。伊予松山城もある程度登るが、山城感がより体感できるという点で備中松山城が自分の中では上位にくる。この日は、20年ぶりに訪れる「自分が日本で一番好きな城」を心ゆくまで堪能するために、帰りの時間を定めず備中松山城と城下町のみを巡る計画を立てたため、時間を気にせず心ゆくまで近世城郭部分・中世城郭部分の隅々を廻ることができた。朝の9時に備中高梁駅からタクシーに乗り、歩いて下山して駅まで戻ってくるのに要した時間は約5時間。久しぶりに心地良い疲れが残る良い旅となった。

備中松山城の現存天守閣(奥)

備中松山城の大池跡(整備中)

1月21日 備後国への城址探訪
福山城へゆく (広島県福山市丸之内)

【歴史】福山城は、西国鎮護の重責を担って入封した徳川譜代の臣、水野勝成が元和6年(1620)より三ヶ年の歳月を費やし、陸海の要衝であるこの地に完成させた平山城である。総面積約8万坪、内外二重の濠をめぐらし本丸には、白亜の五層六階の複合天守と多数の櫓を構築、その偉容は、全国城郭中屈指の名城とされていた。その後、水野五代、松平一代、阿部十代の居城となり、明治になって濠は埋められ、月見櫓をはじめ多くの櫓が取り壊され、残された天守閣・湯殿等も第二次世界大戦の戦火により焼失した。
『現地案内看板より本文抜粋』


神辺城へゆく (広島県福山市神辺町)

【歴史】神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護に任じられ、建武2年(1335)に築城したと伝えられています。戦国時代には杉原理興・平賀隆宗・藤井晧玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ福島時代に完成をみています。元和5年(1619)水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門などが取り壊され移築されたといわれています。実に二百八十数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】福山駅で新幹線を降りるのは17年ぶりのことである。もちろん前回も福山城に行くために福山駅で下車したのであるが、その時のメインはレンタカーでしまなみ街道を渡ることであった。しかし、今回のメインはリニューアルされた福山城を見ることである。駅を出てさっそく天守のある本丸跡に行ってみると、最初に目に飛び込んできたのは、たくさんの大きな白い卵型の球体が設置されている光景であった。夜になると天守のライトアップとともにそれぞれの球体が色とりどりに光るらしい。こういうイベントに対し、城巡りを趣味として始めた頃には、「写真を撮るのに邪魔だなあ」と思っていたのに、最近ではレアな写真が撮れると楽しむ余裕が自分の中に出てきている。この日は倉敷で宿を予約していたためライトアップを見ることはできなかったが、次回機会があれば色とりどりの卵に囲まれた福山城も撮影してみたい。

福山城復興天守閣

イベント用の卵型球体

神辺城本丸跡の石垣

1月9日 三河国への城址探訪
松平城山城へゆく (愛知県豊田市大内町城山)

【歴史】『東加茂郡誌』では大田城とされ、城主氏名は不詳とされており、『松平町誌』は太田道灌が築いて後に松平和泉守信光が修理して子息光親をして守らしめたが、光親が能見に築城するにおよんで廃城となった伝承を伝えている。馬出や桝形虎口など戦国末期の縄張を持ち、極めて軍事性の高い城である。徳川氏により対武田として、またその後の小牧長久手の合戦時に改修されたと思われる。
『「愛知の山城ベスト50を歩く」 2010年 サンライズ出版」より本文抜粋』

大給城へゆく (愛知県豊田市大内町城下)

【歴史】大給城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(岡崎市)に進出した松平家三代の信光が攻略し、三男親忠(松平宗家四代)に与えた。親忠は細川城(岡崎市)とともにこれを次男乗元に譲り、乗元が大給松平氏の初代となった。大給松平二代乗正は永正7年(1510)までに城の大修築を行った。以後、乗勝、親乗、真乗と続き、天正18年(1590)六代家乗のとき徳川家康の関東への国替えに伴って、上野国(群馬県)に移り、大給城は廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】1月3日に放送されたNHK「最強の城スペシャル」で大給城が紹介され、さらに昨日もTVで再放送されたためにある程度の混雑は予想していたが、朝の9:30にはもう5台の駐車場が満車状態となっていた。仕方なく近くにある松平城山城を1時間くらい散策し、再度、大給城に行ってみたところ、9:30の時点では1台もなかった駐車場近くの路肩に10台くらいの車が縦列でとめられていた。10年前くらいに訪れたときにはこんな状況は見られなかったのに、TVの影響力ならびに「最強の城スペシャル」の視聴者の多さに改めてびっくりさせられた。城ブームはまだまだ終わる気配が感じられない。

松平城山城址の主郭跡

大給城址の虎口跡

1月8日 美濃国への城址探訪
一日市場館跡へゆく (岐阜県瑞浪市土岐町)

【歴史】現在地周辺は江戸時代の村名にちなんで「一日市場」と呼ばれています。その村名の由来は明らかではありませんが、毎月一日あるいは一の付く日に付近で市が立てられていたことによると考えらています。そして、この八幡神社付近は土岐一族の始祖とされる光衡が、その本拠として館を構えた場所と伝えられており、その地名から「一日市場館跡」と呼ばれています。
『現地案内看板より本文抜粋』


天神山城・裏天神山城へゆく (岐阜県瑞浪市土岐町)

【歴史】この山城は、平成24年9月に各務原在住の熊沢喜三郎氏によって発見され、地山名を採って天神山城、その上部に続く城跡を裏天神山城と命名した。この城は、鶴ヶ城の支城として北東の守りを固める為、天正2年2月(1574)織田信長が武田攻めの折に滞在し、重臣の河尻秀隆に命じ普請させたものと思われる。その時彼は鶴ヶ城の城番として置かれた。天正10年3月(1582)信長が鶴ヶ城に着陣した、武田氏滅亡後廃城になったと思われる。
『天神山、裏天神山城跡案内図パンフレットより本文抜粋』


鶴ヶ城へゆく (岐阜県瑞浪市土岐町)

【歴史】鎌倉時代美濃国守護となった土岐光衡は、土岐邑の一日市場に居館を設け、神箆のこの地に城を築いて鶴ヶ城と称し、四周を整えて美濃国当地の本拠とした。その曽孫で室町時代初代の守護に任ぜられ土岐氏繁栄のもとを築いた頼貞もこれに倣い、ここを美濃府城の地とした。このほかに、本城は頼貞の第十子で正中変に殉じた土岐頼兼の城として有名であり、以降関ヶ原合戦まで神箆城、土岐城とも呼ばれて戦史にその名を載せており、天正10年(1582)2月の織田対武田合戦時には、信長・信忠父子も本城に入城し、ここから武田氏攻略の軍を発進させている。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】2023年の城巡りのスタートに選んだのは地元東濃の山城です。昨年の秋に開催された可児市の『山城の行こう2022』での瑞浪市の出展ブースで、鶴ヶ城の大堀切まで降りることができる道が整備されたことや、天神山・裏天神山城の登城方法などの情報を入手したため、今回訪れてみた次第である。名前だけ見ると3つの独立した山城のように思えるが、これらは全て尾根続きでつながっている。そして現在では地元の方のご尽力により、3つの城址を一回りできるように登城道が整備されているのだ。このHPでは以前から、他の地域の人に特にPRしたい城址として「東濃の七名城」と銘打ち、7つの城址を取り上げている。そのひとつに鶴ヶ城(神箆城)も選んでいるが、実は正直なところ歴史的な重要度から選んだだけであり、城址の整備状況を重視すると可児の久々利城に変更したほうが良いかと考えたこともあった。しかし今回、鶴ヶ城の大堀切や支城としての天神山・裏天神山城が整備されたことにより、織田信長の本営としてふさわしい規模の城域や遺構が示されたように思う。そのため「東濃の七名城」の座はまだ鶴ヶ城にしておこうかと今回の登城で改めて感じました。

一日市場館跡の土塁状地形

天神山城の喰違い堀切跡

天神山・裏天神山間の二重堀切跡

鶴ヶ城址の大堀切跡

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