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12月7日 美濃国への城址探訪 | |
美濃金山城へゆく (岐阜県可児市兼山) 【歴史】天文6年に斎藤道三の猶子である斉藤大納言正義が山頂に築城、烏峰城と称し、それまで中井戸の庄の地名を金山村と改めました。永禄八年(1565)織田信長は東濃経路の拠点として森可成を金山城主として以来森可成・長可・忠政父子三代の居城として栄えました。信長の小姓として有名な森蘭丸は可成の三男であり、この金山城で出生したと云われています。しかしそんな森一族も浅井・朝倉軍との戦いでは可成と長男可隆が、本能寺の変では三男蘭丸・四男坊丸・五男力丸が、小牧長久手合戦では二男長可が戦死したため、最後は六男忠政が家督を継ぐこととなります。そして森氏の松代転封後、慶長6年に金山城は解体されたようです。 『現地案内看板より本文抜粋』 久々利城へゆく (岐阜県可児市久々利) 【歴史】守護土岐氏の一族である土岐久々利氏は、南北朝時代から戦国時代にかけて周辺地域を支配しました。『金山記全集大成』によれば、初代康貞から代々土岐三河守・悪五郎を襲名したといいます。土岐悪五郎は、天文17年(1548)に烏峰城(のちの美濃金山城)主の斎藤妙春を討って中・東濃地域を支配します。しかし天正11年(1583)に美濃金山城主の森長可(森蘭丸の兄)に討たれ、久々利城は落城しました。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】岐阜県可児市で開催された「山城へ行こう」のイベントに今年も参加した。自分自身、第1回目から毎年欠かさず参加しているイベントで何と今年で9回目となるそうだ。この間、可児市の城址は着実に整備が進み、特に今年の美濃金山城址の訪城では、これまで存在を知らなかった南腰曲輪側面の石垣を初めて目にすることができた。また、この日同じように訪れた久々利城でも、昨年まであった二の丸跡の樹木が伐採され、一段と往時の山城らしい風貌へと変化していた。毎年何かと新たな発見や気づきのある可児市のイベント、来年の10周年イベントが今から楽しみでしょうがない。 |
![]() 美濃金山城址 南腰曲輪の石垣 ![]() さらに伐採整備された久々利城址 |
11月23日 美濃国への城址探訪 | |
篠脇城へゆく (岐阜県郡上市大和町牧) 【歴史】鎌倉時代下総国の名門、千葉氏の一族である東胤行は、承久の乱の戦功により郡上郡山田庄を加領され、大和町剣に阿千葉城を築きその後、3代約90年間居城しましたが、4代目氏村のときにこの篠脇城に移り、11代常慶まで二百数十年間この領地を治めました。東常縁が関東出陣中の応仁2年(1468)美濃国守護代斎藤妙椿の急襲を受け父氏数の奮戦むなしく落城したが、常縁が和歌十首を送り城を返されたという話が伝えられています。天文9年(1540)越前の朝倉勢が来襲したときには、この時の城主常慶は篠脇城で敵の大軍を迎撃して敗退させましたが、その翌年に八幡赤谷山城へ移りこの城は廃城となりました。 『現地説明看板より本文抜粋』 【訪城記】約17年ぶりとなる篠脇城への訪城。この日は最初に山麓にある東氏記念館に立ち寄り、企画展「東氏と東氏館、篠脇城」を観覧してから登城することにした。東氏は名門千葉一族の出自だけあり、展示されている発掘品は量こそ少ないがその質は越前朝倉氏と同じくらいの文化レベルではないかと思わせるほど良質なものばかりで、国史跡に認定されたらもっとPRしてもいいのではないかと感じた。篠脇城址の素晴らしい遺構と合わせて、ぜひ東氏の知名度も高まってほしいものだ。 |
![]() 篠脇城址の畝状竪堀群 |
10月14日 陸奥国への城址探訪 | |
会津若松城へゆく (福島県会津若松市追手町) 【歴史】南北朝の頃、葦名氏によってここに館が築かれたが、文禄2年(1593)蒲生氏郷が7層の天守閣を建て外郭を築き、黒川の地を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名した。上杉から再蒲生そして加藤となり、寛永16年(1639)加藤明成が天守閣を5層に改修し北出丸、西出丸を整備して現在の城跡を完成させている。戊辰の役(1868)では1ヶ月の籠城に堪えた。 『現地説明看板より本文抜粋』 猪苗代城 附 鶴峰城へゆく (福島県耶麻郡猪苗代町古城跡) 【歴史】三浦氏のの一族である佐原義連は「奥州征伐」の軍功により、頼朝から会津四郡を与えられました。その子盛連には6男があり、長男である大炊介経連が猪苗代を領して猪苗代氏を称しました。経連は、磐梯山南麓の弦峯の地に建久2年(1191)亀ヶ城を築いたと伝えられています。以後、14代盛胤まで猪苗代氏代々の居城でしたが、天正17年(1589)「摺上原の戦い」で葦名方が伊達勢に敗退したことにより、盛胤も湖南横沢に引退し、猪苗代城主はここに終わりを告げました。しかし亀ヶ城は、江戸初期に出された一国一城令にも破却されず、近世を通じて城代が置かれ、幕末の戊辰戦争によって焼失するまで会津藩東の要として残された名城です。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】以前訪れた会津若松城は、ちょうど大河ドラマ『八重の桜』が放映されていた時期でもあり、人々でごった返していた記憶しかない。当然写真も人をよけて天守のみをアップで写したものが多かった気がする。今回は前回の反省を踏まえ、3日目の最初に会津若松城へ訪れる計画を事前に立てた。その甲斐もあり、朝の8時頃から写真撮影を始めることができたのであるが、秋の気温差のため周囲は霧がかかっており、結局、青空に映える天守の写真が撮れたのは、9時半頃となってしまった。この時期の早すぎる訪城も考えものである。 |
![]() 復興 会津若松城天守閣 ![]() 猪苗代城址 大手口多聞櫓台跡 ![]() 鶴峰城址 本丸南西虎口跡 |
10月13日 陸奥国への城址探訪 | |
白石城へゆく (宮城県白石市益岡町) 【歴史】天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった。慶長3年(1598)上杉領となってから上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣である片倉小十郎が大改修を行い、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。 『現地案内看板より本文抜粋』 阿津賀志山防塁跡へゆく (福島県伊達郡国見町) 【歴史】文治5年(1189)7月、源頼朝は奥州平泉の藤原泰衡を討伐するため、全国の御家人を総動員して奥州攻めの征途についた。泰衡は、この鎌倉軍を迎え撃つべく、伊達郡と刈田郡(福島県と宮城県)との境にある阿津賀志山一帯の東山道沿いに、堅固な防塁と、砦群を配した阿津賀志楯を築き、異母兄の藤原国衡を大将軍とし、侍大将金剛別当秀綱以下の精兵、2万騎を配してこれに備えた。 『現地案内石碑より本文抜粋』 桑折西山城へゆく (福島県伊達郡桑折町万正寺本丸) 【歴史】桑折西山城は、天文元年(1532)頃に陸奥国守護に任じられていた伊達稙宗(14代)が築いた伊達氏の本城です。稙宗は、天文5年(1536)、桑折西山城で分国法「塵芥集」を制定し、領国内の法令を整備しました。また、周辺諸大名との婚姻や養子縁組を行い、影響力を強めました。しかし、天文11年(1542)、越後国守護上杉氏との養子縁組に反対する嫡男の晴宗と稙宗が対立、7年間にわたる「天文の乱」の舞台となりました。天文17年(1548)、室町幕府の仲介により事実上の勝者となった晴宗は、本城を米沢に移し、桑折西山城は廃城となりました。 『現地案内看板より本文抜粋』 福島城へゆく (福島県福島市杉妻町) 【歴史】現在の福島県庁の地には福島城がありました。この地は、戦国時代までは、杉目城(杉妻城)または、大仏城とよばれていました。応永20年(1413)、伊達持宗が大仏城に立てこもり、関東公方足利持氏に背いたとの記録があり、戦国時代末まで伊達氏の居城でした。豊臣秀吉の奥羽仕置により、蒲生氏郷から信夫5万石を任された木村吉清は文禄元年(1592)ころ大森城から杉目城に移り、福島城と改称しました。しかし、文禄4年、秀吉の命で福島城は取り壊され、その後当地は、上杉氏、本多氏、堀田氏が入部し、その間は幕領となるなど頻繁に領主が変わりますが、新たに城は築かれず、陣屋での支配が行なわれていました。元禄15年(1702)、板倉氏が3万石で信濃から入り、福島城の整備が行なわれました。 『現地案内看板より本文抜粋』 大森城へゆく (福島県福島市大森本丸) 【歴史】大森城が歴史に登場するのは16世紀なかごろの天文年間(1532〜1554)伊達氏の稙宗の時代からで初代伊達実元、成実、片倉小十郎景綱まで50年余り伊達氏が支配しました。そのあと蒲生氏の支配となり客将の木村吉清が5万石を与えられて大森城主となりました。文禄2年(1593)ごろに城とともに麓の町屋、寺院を杉妻城に移したため、信夫の府城であった大森城の面影は失われてしまいました。慶長3年(1598)1月に上杉氏が会津若松城へ入り、栗田氏を大森城代に配置したので大森城が復活そのあと芋川氏となり、上杉時代は約65年ほどつづきました。寛文4年(1664)上杉領としての支配が幕府に没収され、幕府領となった、ここに大森城は名実ともに、ついに城としての性格を失い、廃城となりました。 『現地案内看板より本文抜粋』 小浜城へゆく (福島県二本松市小浜下舘) 【歴史】独眼竜伊達政宗が在城したことでも知られる小浜城の成立は、奥州探題の置かれた塩松(四本松)城の支城として、南北朝争乱期に創築された。南方小浜川の谷間を隔て上館と呼ばれた宮森城があり、小浜城は下館と呼ばれ、両城の間に集落があって一体化した構えであった。天正13年(1585)8月、大内宗政の子孫である大内定綱は石橋氏を滅ぼし、東安達を統治していたが、伊達政宗との戦いに敗れ会津に逃れた。天正18年以降は、若松城の支城として蒲生氏の支配となった。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】今回の旅で最も楽しみにしていたのが、阿津賀志山防塁跡の見学である。敵を長大な防塁で防ぐというこの時代の防御の考え方は、東海圏ではまず見られないものだ。九州の元寇の防塁と比べると知名度はないが、実際に壮大なスケールを有する阿津賀志山防塁の姿を見れただけでも、今回福島に来た価値があるというものだ。次もまた訪れて防塁の違う場所を見てみたいものだ。 |
![]() 復元 白石城天守閣 ![]() 阿津賀志山防塁跡 ![]() 桑折西山城址 本丸跡 ![]() 福島城址 土塁跡 ![]() 大森城址 模擬櫓 ![]() 小浜城址 本丸跡の石垣 |
10月12日 陸奥国への城址探訪 | |
小高城へゆく (福島県南相馬市小高区小高古城) 【歴史】元亨3年(1323)4月、相馬重胤が下総国流山から移るにあたって、はじめ太田の別所館に住み、嘉暦元年(1326)この城に移った。建武3年(1336)に次子光胤に命じて修築させ、以後相馬氏の本拠として、南北朝の乱には北党の重要な位置を占めた。慶長2年(1597)に相馬義胤が原野市の牛越城に移り、当城を支城としたが、同7年に再びもどり、同16年(1611)に相馬利胤が相馬の中村城に移って廃城となった。 『現地案内看板より本文抜粋』 相馬中村城へゆく (福島県相馬市中村北町) 【歴史】慶長16年(1611)7月、相馬利胤が木幡勘解由長清を責任者として築城に着手し、11月に完成、12月2日小高城よりここに移った。以後明治初年に廃されるまで、約300年にわたる相馬氏歴代藩主の居城として、藩政の中心となった。。 『現地案内看板より本文抜粋』 陸奥金山城へゆく (宮城県伊具郡丸森町金山谷地木戸) 【歴史】永禄年間、相馬の家臣井戸川将監・藤橋紀伊が築城したとされているが、天正4年(1576)以降、この城をめぐって、伊達と相馬の間で激しい攻防があり、天正12年になってようやく伊達に帰属することに決まった。伊達政宗は「、この戦に最も手柄のあった家臣の中島宗求に、この城と金山本郷・大内・伊手の三邑(2千石)を知行地として与えた。280年間続いた城は、明治維新後、取り壊された。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】8年ぶりに訪れた福島県の城址。とはいっても土地勘がない福島県では移動にかかる時間が全く分からず、12時頃に郡山でレンタカーを借りたはいいが、南相馬にたどり着くのに思いのほか時間を要し、相馬中村城を見学した時点で時刻は既に16時を回っていた。かつて経験した山城での日没の恐怖が頭によぎる中、16時半過ぎに陸奥金山城址に到着すると、息も絶え絶えに本丸を目指して駆け上がり、何とか陽が落ちる前に目当ての石垣を写真に収めることができた。もう16時頃の山城計画はしないでおこうと改めて思った次第である。 |
![]() 小高城址碑 ![]() 中村城址 大手一ノ門 ![]() 陸奥金山城址 本丸詰ノ門石垣 |
9月22日 尾張国への城址探訪 | |
小牧山城へゆく (愛知県小牧市堀の内) 【歴史】織田信長は永禄6年(1563)、美濃攻略のため清州城から小牧山へ移り、山全体を城域とし、多数の曲輪を設けました。要所には重臣の館を置き、南方に大手道を開き、南西中腹には馬場を設けたといわれます。また小牧山南麓から西麓に城下町を形成しました。しかし永禄10年(1567)に美濃の斎藤龍興を攻略して岐阜城へ移り、小牧山城は廃城となりました。天正12年(1584)、豊臣秀吉と信長の二男信雄・徳川家康連合軍とが小牧山で対陣し、小牧市北部に陣を敷いた秀吉に対して、家康軍は小牧山城を主陣地とし、小牧山東方にも砦を築いて対抗し持久戦となりました。現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつ、新たに土塁や堀を築くなどして改修された家康軍の陣城の跡です。 『現地説明看板より本文抜粋』 【訪城記】今日は4年ぶりくらいに小牧山城に訪れた。前回訪れた時は「れきしるこまき」が開館したばかりで見学者も多くゆっくり展示資料を見ることができなかったが、この日の天気は予報通り雨。それが幸いしたのか公園利用者は通常よりも少なく、パネル展示物やデジタル解説、ボランティアの方のお話などゆっくりと見聞きすることができました。山上の模擬天守に行っても人の姿はほぼなく、思いのほか充実した訪城ができました。 |
![]() 小牧山城址の復元空堀と土塁 |
8月22日 近江国への城址探訪 | |
下坂氏館跡へゆく (滋賀県長浜市下坂中町) 【歴史】下坂氏館跡は、滋賀県北部の長浜平野の南西部に所在する中世の国人領主であった下坂氏の館跡です。下坂氏は、建武3年(1336)の足利直義の感状などから南北朝期から湖北地方で活躍した国人領主で、戦国期には京極・浅井両氏に仕えています。館跡は、周囲を堀で囲み、内側には土塁を築いています。中心部の主郭は、東西約55m、南北約42mの土塁によって囲まれ、その北東側と南西側の副郭によって構成されています。 『現地説明看板より本文抜粋』 長浜城へゆく (滋賀県長浜市公園町) 【歴史】長浜城は、天正2年(1574)から翌年にかけて、羽柴(豊臣)秀吉公が築いた城です。その後、山内一豊公など4人の城主が入りましたが、元和元年(1615)には廃城となっています。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】まだまだ残暑が厳しいため、今日も城廻りというよりは涼しい博物館廻りをしてみた。本日のメインは伊吹山文化資料館。伊吹山近辺は今年に入って既に6回も訪れているのに、伊吹山文化資料館に訪れたのはこれが初めてとなる。この資料館には、2015年に開催された全国山城サミット米原大会にて展示されていた上平寺城などの立体模型がいくつか保管されているため、いつか観に行きたいと思いながらも時間の関係で未だ果たせていなかったのだ。この日は自分が実際に訪れた上平寺城址や弥高寺跡、京極氏館跡の記憶と模型とを見比べながら、京極氏の本拠地に聳える山城跡を頭の中で十分に堪能できた一日となりました。 |
![]() 下坂氏館址の土塁 ![]() 長浜城址の模擬天守 |
8月16日 越前国への城址探訪 | |
府中城へゆく (福井県越前市府中) 【歴史】城の起源は文明の頃、越前国守護朝倉氏の府中奉行所の構築に創まると云われ、天正年間、前田利家が城濠を修築拡張した。前田氏移封の後に丹羽、木村、堀尾の諸氏が相ついで在城したが、慶長6年、本多富正が居館を定めてから、維新廃藩に至るまで本多氏が歴代在城した。 『現地説明看板より本文抜粋』 【訪城記】福井県立歴史博物館で開催されている企画展『天下人の子 結城秀康と一族・家臣』を観るために、西美濃から福井県池田町、越前市へと抜ける途中に、越前市役所の脇に展示されている府中城の復興石垣を見ることを思いついた。実際に初めて訪れてみると、新規積み直しと断りながらも、発掘された状態を忠実に再現している様子に驚きと感動を覚える一方、てっきり府中城址と表示されていると思いきや、越府城址と彫られている城址碑を見て、今回の探訪記での表記をどちらにしようかとしばらく悩んでしまった。結局、今回は耳慣れた府中城と表記することにした。 |
![]() 府中城址の復興石垣跡 |
8月7日 若狭国への城址探訪 | |
若狭守護居館跡へゆく (福井県小浜市小浜男山) 【歴史】今から約500年前、若狭を治める守護武田氏は、当時、全国でも有数の国際港湾都市となっていた小浜を統治するために、港の後背にそびえる後瀬山に城を築きました。現在地(小浜小学校跡地)は、空印寺境内を含めて当時の守護の住まいがあった場所です。発掘調査の結果、後瀬山を背後にもち、一辺100mで周囲に堀を巡らせた大規模な方形居館の跡が確認されています。守護武田氏が滅亡後も、豊臣方の丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊などの側近が代々住まいました。また関ヶ原合戦後は、京極高次が海を望む小浜城が完成するまでここに住まいました。 『現地説明看板より本文抜粋』 【訪城記】連日の猛暑のために城巡りをする気力がいまいち起きず、それでもせっかく取得した休みを無駄にしないためにも、以前から行きたかった小浜の羽賀寺に出かけることにした。自分は以前から東北地方の日本海側領主に興味を持っており、そのため大宝寺氏や安東氏、戸沢氏、小野寺氏、松前氏などに関する歴史的史料や展示物を観たり、関連書籍を読んだりするのが好きだ。本日訪れた羽賀寺は、鎌倉時代から室町時代に北東北を治め、日本海交易で栄えた安藤氏が再建した由緒ある寺院であり、その縁から戦国時代に秋田を治めた安東愛季と秋田実季の木像が安置されている。本拠の秋田や宍戸、三春ではなく、ここ小浜でしか出会えない貴重な2体の木像を心ゆくまで堪能したことで本日の目的は十分に達成されたのであるが、何か城っぽいものを写真に収めようと思い、とりあえず近くにある武田氏の若狭守護居館跡と多田寺の小浜城移築城門を撮影したところで、城に行った気分をつくり帰途に就いた。 |
![]() 若狭守護居館跡 ![]() 多田寺山門(小浜城移築城門) |
5月4日 丹後国・若狭国への城址探訪 | |
田辺城へゆく (京都府舞鶴市南田辺) 【歴史】田辺城は舞鶴城とも称され、その築城は戦国群雄のなかで智将であり歌聖といわれた細川藤孝が、天正8年(1580)8月、織田信長より丹後国をあてがわれ、子忠興とともに縄張りしたことに始まり、天正10年代に完成したといわれている。慶長5年(1600)7月、石田三成方1万5千騎の大軍に攻められた幽斎は、わずか500人の兵で田辺城に籠城して50日余を戦った。その後、忠興は関ヶ原合戦の功により豊前中津に加封され、代わって京極高知が入国、元和8年(1622)高知の遺命により丹後国を三分し、庶子の高三が城主となって3万5千石を領し田辺藩が成立した。寛文8年(1668)京極氏が但馬豊岡に移封のあと牧野親成がこれに代わり、以後牧野氏が明治2年(1869)の版籍奉還まで代々田辺藩主として在城した。 『現地説明看板より本文抜粋』 小浜城へゆく (福井県小浜市城内) 【歴史】関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)、若狭の国主となった京極高次が築城に着手。寛永11年(1634)、第2代藩主京極忠高が松江に転出後、酒井忠勝が藩主となり、翌年には三重三階の天守ができ、寛永19年(1641)に城が完成。以後、酒井家14代238年間の居城となり、焼失する明治4年(1871)まで歴史は続いた。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】但馬国城巡りの最終日、前日までに予定していた城址は全て巡ってしまったため、この日は高速道路を使わず但馬国中部から美濃国東部へ一般道のみで帰ることにした。養父から豊岡、久美浜へと抜け、そこからは峯山、宮津、舞鶴へと進み、ここで田辺城見学のため小休止。再び東に高浜、あおい、小浜と進み、さらに小浜城見学のため小休止。小浜からは北国街道を琵琶湖に抜け、そのまま木之本から関ヶ原に入り、無事美濃国へと到着。約9時間の山あり海あり、湖ありの充実したドライブが楽しめました。 |
![]() 田辺城址の復元城門 ![]() 小浜城址の本丸石垣 |
5月3日 因幡国・但馬国への城址探訪 | |
若桜鬼ヶ城へゆく (鳥取県八頭郡若桜町三倉) 【歴史】若桜鬼ヶ城跡は、播磨、但馬へつながる交通の要衝にある。そのため戦国時代において戦国大名である毛利、尼子、織田などによる争奪戦が繰り広げられた。築城時期は不明だが、延徳元年(1489)の史料には「矢部館若狭」の記述があり、矢部氏によってこの頃には城が築かれていた可能性が考えられる。一時、山中鹿之助による尼子氏再興戦の舞台ともなったが、その後、羽柴秀吉による鳥取城攻めの際には織田方の拠点として機能し、天正9年(1581)に鳥取城が落城した後は秀吉の武将木下重賢、関ヶ原の戦後の慶長6年(1601)には山崎家盛が入城している。元和3年(1617)に池田光政が因伯2国を領す鳥取城主となると、一国一城令により廃城となった。 『現地案内看板より本文抜粋』 但馬八木城へゆく (兵庫県養父市八鹿町八木) 【歴史】八木城は南北朝時代に始まる八木氏の山城で標高330mの城山にあり、本丸には宝9.3mの穴太流の石垣が残る。八木氏は室町時代に但馬守護の山名氏に属して活躍し、四天王の一人に数えられた。八木氏第15代の八木城主は八木但馬守豊信であったが、天正5年から8年にかけて、秀吉の弟羽柴秀長に攻められて落城する。天正13年(1585)豊臣秀吉から別所重棟が八木城主に任命され、別所吉治と続くが、慶長6年に丹波に移され廃城となる。 『現地案内石碑より本文抜粋』 此隅山城へゆく (兵庫県豊岡市出石町宮内) 【歴史】此隅山城は但馬守護山名氏の居城で、伝承では文中年間(1372〜75)山名時義が築城したといわれているが定かではない。しかし戦国時代には山名到豊・誠豊・祐豊三代の居城であったことは確かである。此隅山城が古文書で初めて見られるのは、永正元年(1504)のことである。但馬守護山名到豊と垣屋続成との抗争が再燃し、垣屋続成は山名到豊・田結庄豊朝の立て籠る此隅山城を攻めている。永禄12年(1569)8月には、織田信長の命を受けた木下藤吉郎らによって、此隅山城など但馬の18の城が落城させられている。その後、山名祐豊は天正2年(1574)頃、此隅山城に代わる新城として、有子山に有子山城を築城した。 『現地案内看板より本文抜粋』 豊岡城へゆく (兵庫県豊岡市京町) 【歴史】伝承では15世紀中ごろ、九日市に守護所を置く但馬守護山名宗全がこの山に築城、被官垣屋氏に守らせたという。戦国末期、垣屋氏が事実上の但馬実力者となるに及び、この城は但馬支配の中心拠点となった。天正8年(1580)、羽柴勢の但馬占領によって旗下宮部善祥房が入城、木下助兵衛尉、明石与四郎、福原右馬之助と続き慶長2年(1597)杉原長房に至った。承応2年(1653)、杉原家断絶により城は破却されたと見られるが、本丸・萩の丸・笠の丸の他、天守台などの遺構が残された。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】自分の中でここ数年悩んでいたのが若桜鬼ヶ城にいつ訪れようか問題である。続100名城でもあるためいつかは必ず訪れたいと思っていたのであるが、果たしてどの城とセットで訪れるのがベストかと頭を悩ませていたのだ。鳥取県にあるため基本的には鳥取城や太閤ヶ平と組み合わせて廻ろうと考えるのだが、現地レンタカーだと割高に、若桜鉄道利用だと時間配分が難しく、また自家用車による1泊2日の行程も体力的・時間的に厳しい。ならば2泊3日ではどうかとも考えるのだが、天候や季節も含めて仕事を3日も休める日はそうそうない。そのように思い悩む中、今年のGWは2日の平日から休みをもらえたため、自家用車での但馬国城巡りを計画していたところ、なんと若桜鬼ヶ城がある鳥取県若桜町は宿泊する兵庫県養父市と県境の峠を挟み、車で1時間強の距離であるということに気づいた。しかも峠道ながらしっかりと中央線も引かれており、対向車とのすれ違いでストレスを感じることもなさそうである。さらに天気予報は2〜5日まで晴である。そのため出発直前に若桜鬼ヶ城を組み込むことにし、この日の早朝に念願の若桜鬼ヶ城への登城を果たせたのであった。 |
![]() 若桜鬼ヶ城址の本丸石垣 ![]() 八木城址の主郭石垣 ![]() 此隅山城址の本丸切岸 ![]() 豊岡城址の本丸跡 |
5月2日 但馬国への城址探訪 | |
有子山城へゆく (兵庫県豊岡市出石町小人) 【歴史】有子山城跡は、室町幕府の四職家で最大級の大名であった山名氏が、根拠地である但馬国に築いた山城跡である。永禄12年(1569)に織田軍の木下藤吉郎の但馬侵攻により、当時居城であった北方約2.5kmにある此隅山城が落城。その後、天正2年(1574)山名祐豊がこの有子山城を築く。しかし天正8年(1580)ふたたび織田軍の羽柴秀長の但馬侵攻によって有子山城は落城。室町幕府成立以後、一貫して守護大名であった山名氏の但馬支配はここで終焉する。 『現地案内看板より本文抜粋』 出石城へゆく (兵庫県豊岡市出石町内町) 【歴史】出石城は慶長9年(1604)に小出吉英によって山頂の城を廃して築かれたもので一国一城制による但馬唯一の城です。平山城に分類され梯郭式といわれるように有子山の麓に上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭、三の丸と梯子を立てかけたように城を築いています。藩主は小出氏が9代、松平氏1代、仙石氏7代と続き、明治の版籍奉還まで270年間5万8千石の本城として、また但馬第一の雄藩として威容を誇りました。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】これまでの城巡り歴の中で、登城途中で断念した城址がひとつだけあり、それが本日訪れた有子山城である。以前訪れた16年前は、現代では圧倒的な人気を誇る竹田城でも世間的な認知度はまだまだ低く、観光地である出石も麓の城は整備されていたが、背後の有子山城については登城道が必ずしも整備されているとは言えない状況であった。当時訪れたのは雨の翌日だっただろうか、山肌むき出しの登城道に対して、登れはするが足の置き場を間違えると確実に滑り落ちるような状況に対して、「登ることはできても降りるときに怪我する確率が高い」と判断し、途中まで登って断念したのであった。あれから山城ブームとなり、有子山城も地元の方々のご尽力により今では麓から山頂まで続く丸太の階段が設置されている。これらの整備に感謝しながらこの日16年ぶりのリベンジを無事果たせたのであった。 |
![]() 有子山城址の主郭石垣 ![]() 出石城址の復元西隅櫓 |
4月28日 近江国への城址探訪 | |
長比城へゆく (滋賀県米原市柏原) 【歴史】元亀元年(1570)、織田信長は離反した浅井長政を攻めるため近江に侵攻します。長政は越前衆(朝倉軍)の力を借りて、長比城・苅安城(上平寺城)を改修しますが、守備していた堀秀村・樋口直房が信長軍に内応して開城し、信長はここに着陣しました。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】最近、登城道を下る時、左膝に違和感を感じることが多くなったため、モンベルショップで初めてトレッキングポールを購入してみた。今回はトレッキングポールの使い心地と効果を確かめるために、適度な山城はないかと選んだのが、近江と美濃の境目の城である長比城である。城跡へと続く登城道は決して急峻ではないが、ゆるやかな斜面や丸太の階段などがあり、その場その場に合わせた使い方を色々と試すことができるため、自分にとっては好都合な山城だ。この日は、朝倉氏の築城技術が詰まった技巧的な土づくりの城址を堪能しつつ、トレッキングポールの仕様も確認できるなど、色々な達成感と満足感にあふれた1日となりました。 |
![]() 長比城址 土塁に囲まれた西郭跡 |
4月14日 美濃国への城址探訪 | |
岩村城へゆく (岐阜県恵那市岩村町城山) 【訪城記】岩村城址は、かなり昔から東濃が誇る城跡として観光地化されていたためか、ずっと東濃に住んでいる者からすると、近年急速に整備されている苗木城や明知城、美濃金山城に比べ、新たな発見や変化といったワクワク感が薄くなってきている。良い意味で普遍的な安定感があり、悪い意味で変化に乏しい存在となってきている感がある。そのため、このHPを始めた頃には間違いなく中心的な扱いをしていた岩村城も新たな情報を追加することもなくしばらく足が遠ざかっていたが、今回急に岩村城に行きたくなり6年ぶりに訪れてみた。久しぶりに登ってみて感じたことは、岩村城はやはり四季に富んだ城址である。それでいて過剰に桜や広葉樹が植えられていることもなく、適度に山間部と開放的な空間が存在し、それほど眺望に富んでいないためか自ずと城の遺構に目が行く。何より至る所で飽きるほど石垣が見られる。これらの要素が相まった居心地の良さこそが岩村城の最大の魅力なのだと再認識した。 |
![]() 岩村城本丸跡の石垣と桜 |
2月18日 美濃国への城址探訪 | |
天王山砦へゆく (岐阜県恵那市武並町藤) 【歴史】木曽川左岸の比高約100mの山上に選地する。付近に戦国末期、村人の避難小屋が設けられていたと伝わる。当城は小規模ながら横堀と複数の竪堀を組み合わせ、技巧的な縄張りとなっている。加えて木曽川の渡河点を北側直下に見下ろす位置に築かれており、その北側直下には木曽川渡河点があることから、その監視所としての性格が考えられる。また、横堀に組み合わせた竪堀の形態は、甲斐武田氏城館に類例がみられる。付近の歴史的状況からみても、築城に武田氏が関与している可能性は高い。その場合、木曽川流域の掌握といった点から、武田氏の動向を考える材料になるとも思われる。 『「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(2004 岐阜県教育委員会)」より本文抜粋』 猪狩山城へゆく (岐阜県恵那市笠置町姫栗猪狩) 【歴史】戦国時代、木曽川の右岸一帯は苗木遠山氏の勢力下にあった。苗木城の支城である猪狩山城の城主は茂知野修理だった。木曽川を挟んで対する久須見城の城主は松尾左京だった。勢力争いが絶えず何度かの戦いの末、猪狩山城は落城。茂知野修理は松尾左京との一騎打ちにも敗れ首をはねられ果てた。 『現地案内看板より本文抜粋』 久須見城へゆく (岐阜県恵那市長島町久須見) 【歴史】松尾左京が城主であったと伝えられるが、具体的な歴史は不明である。 『「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(2004 岐阜県教育委員会)」より本文抜粋』 【訪城記】久須見城に行くのは、実に約20年ぶりのことだったが、20年前に登城した場所から城址の散策に入ったまでは良かったが、20年前に登った記憶のある神社へ続く道が見当たらない。記憶違いだったかと思いながら当時の記憶を一生懸命に辿っても確かに神社に続く石段を登った記憶がある。しかしその道がどうしても見当たらないため、いったん最初の場所に戻ると、反対側に2022年の全国山城サミットに合わせて整備されたと思われる案内板を見つけ、何とか主郭に到着することができた。主郭に着くとそこには神社の社殿を取り壊したような跡があり、どうやらこの20年の間に登城道が消滅したようだった。その代わり城跡としての整備はされており、20年前よりも良好な堀切跡を見ることができた。 |
![]() 天王山砦跡の横堀と土塁 ![]() 猪狩山城址の堀切と土塁跡 ![]() 久須見城址の堀切跡 |
2月11日 近江国への城址探訪 | |
丁野山城へゆく (滋賀県長浜市小谷丁野町) 【歴史】「丁野山古砦之図」によれば、永正15年(1518)7月に浅井亮政が築城、天正元年(1573)には朝倉義景の軍勢が小谷城の加勢に入ったとある。「信長公記」によれば、小谷落城の直前の天正元年(1573)8月12日、「ようの山」には越前平泉寺の玉泉坊が籠城していたが、信長の攻撃が迫ったので降参し、越前国へ落ちのびたとある。「丁野山古砦之図」によっても、平泉寺衆徒や越前玉泉坊、それに堀江甚介など、越前朝倉氏の家臣たちが、信長の小谷城攻めに対抗するため、布陣した場所であることが記されている。 『現地案内看板より本文抜粋』 中島城へゆく (滋賀県長浜市小谷丁野町) 【歴史】丁野山城がある岡山から東へ出る支脈の頂部の場所に存在する砦跡である。「丁野山古砦之図」によれば、この支脈を大鳳山と称し、中島城から東の尾根上にも、三田崎六郎右エ門ら朝倉氏家臣が立て籠もった砦跡が存在したが、現状では明確に確認しえない。本城には浅井氏の重臣である中島相左衛門直親が、織田信長の小谷城攻撃に対抗するため、布陣した場所と伝えることから、城名がつけられたと推定される。 『現地案内看板より本文抜粋』 清水谷屋敷跡群へゆく (滋賀県長浜市小谷郡上町) 【歴史】御屋敷跡は、清水谷屋敷群の最奥に位置し、浅井氏の三代の居館。お市の方とその子供たちもこの館で暮らしたと思われる。天文3年(1534)初代城主浅井亮政が主家の京極高清・高広親子を招き饗応した。この宴は浅井氏が京極氏の筆頭家老であり、北近江支配の実権を掌握したことを示したとされる。清水谷一帯には多くの郭群がある。武家屋敷跡の中央を抜けてきた清水谷道は、途中より急な登り道となる。丸子岩を過ぎると、右に水の手と称る谷筋が分かれている。途中井筒池と称する池がある。天正元年織田軍が最後の小谷城攻撃で攻め登った谷と言われている。清水谷道をさらに進むと八畳岩があり左手上方に浅井家の重臣三田村屋敷跡・大野木屋敷跡と連なり、小谷城主郭の最奥の六坊跡に至る。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】本日は小谷城の眼下に点在する丁野山城址と中島城址を訪れてみた。3年前に購入した戎光祥出版『朝倉氏の城郭と合戦』を読んでから、朝倉氏の築城技術の凄さを知り、その影響から昨年度もちょうど同じ頃に朝倉氏が改修したとされる上平寺城址を訪れている。本日の目的地である丁野山城砦群も朝倉氏の改修の痕跡がみられる城址のひとつであるが、自分は書籍を読むまでその名前すら知らなかった城址でもある。しかし、いざ城址の主郭部分に入ってみると大規模な堀切や空堀などの遺構が見られた他にも、琵琶湖に浮かぶ竹生島や小谷城の全景を眺めることもでき、さらに丁野山城の出城的存在である中島城址でも、コンパクトながら周囲を土塁が取り巻く技巧的な郭跡を見ることができるなど、何故これまでこれらの城址の存在を知らなかったのか不思議なくらいの素晴らしい遺構であった。しかも、城址は地元の方のご尽力で登城道も大変整備されており、しかもそれほど比高差がないため、コロナ禍ですっかり出不精になった身体にも大変優しい山城となっている。この日は、丁野山城砦群の見学があまりにも楽であったため、持て余した体力をさらに小谷城の清水谷道へと向けたまでは良かったが、これが間違いであった。下調べをしないまま清水谷に行くことを思いついたたため、大野木屋敷跡までの登りの道中で運動不足の膝が違和感を覚え、登城道を降る頃には痛みを感じるようになってしまった。膝の痛みは家に帰ってもあまり改善せず、翌日に計画していた地元の城址への登城をついに断念することになってしまった。次回からはトレッキングポールか膝サポーターを用意して登城した方が良いのだろうか。 |
![]() 丁野山城址の主郭横堀跡 ![]() 中島城址の郭と土塁跡 ![]() 清水谷御屋敷跡 ![]() 三田村屋敷跡の石垣 ![]() 大野木屋敷跡の石垣 |
1月17日 武蔵国への城址探訪 | |
江戸城へゆく (東京都千代田区千代田) 【歴史】江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。 『現地案内看板より本文抜粋』 品川台場跡へゆく (東京都港区台場) 【歴史】「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江戸川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永6年(1853)8月に着工、1年3ヶ月の間に6基が完成しました。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】2024年の訪城旅は江戸城からスタートです。珍しく仕事の関係で東京へと出掛けたその翌日、そのまま江戸城跡と品川台場跡を訪れることにしたまでは良かったものの、しばらく歩いていると足の甲辺りにわずかな違和感を感じるようになった。そのまま歩いていると次第に違和感は痛みへと変わり、歩き方も不規則なリズムを刻むようになってきた。この痛みは遠い昔に感じたことのあるもの、しばらく忘れていた感覚、紛れもなく靴擦れの痛みだ。この日はスーツと防寒コートと少し硬めの革靴といった仕事モードの出で立ちで城廻りに臨んだのであるが、ウォーキングシューズで城廻りをする時と同じペースで江戸城跡を歩いたために靴擦れができたようだ。バンドエイドを貼って痛みを和らげながら、公共交通機関を乗り継ぎ、ようやく品川第三台場跡にたどり着いたが、40分ほどの探索を終えると再び足の痛みを感じるようになり、まだ太陽は高い位置にあるものの、他の観光地を回る気力もなくそのまま帰宅の途についた。それでも今年最初の城巡りを仕事のついでとは言え、暖かな冬の青空の下、100名城、続100名城という有名どころの城から始められたのは良かった。 |
![]() 江戸城北の丸跡の清水門 ![]() 第三台場跡の砲台跡 ![]() 第六台場跡 |