城址探訪記(2024)

過去の記録(2013年〜)
城址探訪記2013 城址探訪記2014 城址探訪記2015 城址探訪記2016 城址探訪記2017 城址探訪記2018
城址探訪記2019 城址探訪記2020 城址探訪記2021 城址探訪記2022 城址探訪記2023 城址探訪記2024

4月28日 近江国への城址探訪
長比城へゆく (滋賀県米原市柏原)

【歴史】元亀元年(1570)、織田信長は離反した浅井長政を攻めるため近江に侵攻します。長政は越前衆(朝倉軍)の力を借りて、長比城・苅安城(上平寺城)を改修しますが、守備していた堀秀村・樋口直房が信長軍に内応して開城し、信長はここに着陣しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】最近、登城道を下る時、左膝に違和感を感じることが多くなったため、モンベルショップで初めてトレッキングポールを購入してみた。今回はトレッキングポールの使い心地と効果を確かめるために、適度な山城はないかと選んだのが、近江と美濃の境目の城である長比城である。城跡へと続く登城道は決して急峻ではないが、ゆるやかな斜面や丸太の階段などがあり、その場その場に合わせた使い方を色々と試すことができるため、自分にとっては好都合な山城だ。この日は、朝倉氏の築城技術が詰まった技巧的な土づくりの城址を堪能しつつ、トレッキングポールの仕様も確認できるなど、色々な達成感と満足感にあふれた1日となりました。

長比城址 土塁に囲まれた西郭跡

4月14日 美濃国への城址探訪
岩村城へゆく (岐阜県恵那市岩村町城山)

【訪城記】岩村城址は、かなり昔から東濃が誇る城跡として観光地化されていたためか、ずっと東濃に住んでいる者からすると、近年急速に整備されている苗木城や明知城、美濃金山城に比べ、新たな発見や変化といったワクワク感が薄くなってきている。良い意味で普遍的な安定感があり、悪い意味で変化に乏しい存在となってきている感がある。そのため、このHPを始めた頃には間違いなく中心的な扱いをしていた岩村城も新たな情報を追加することもなくしばらく足が遠ざかっていたが、今回急に岩村城に行きたくなり6年ぶりに訪れてみた。久しぶりに登ってみて感じたことは、岩村城はやはり四季に富んだ城址である。それでいて過剰に桜や広葉樹が植えられていることもなく、適度に山間部と開放的な空間が存在し、それほど眺望に富んでいないためか自ずと城の遺構に目が行く。何より至る所で飽きるほど石垣が見られる。これらの要素が相まった居心地の良さこそが岩村城の最大の魅力なのだと再認識した。

岩村城本丸跡の石垣と桜

2月18日 美濃国への城址探訪
天王山砦へゆく (岐阜県恵那市武並町藤)

【歴史】木曽川左岸の比高約100mの山上に選地する。付近に戦国末期、村人の避難小屋が設けられていたと伝わる。当城は小規模ながら横堀と複数の竪堀を組み合わせ、技巧的な縄張りとなっている。加えて木曽川の渡河点を北側直下に見下ろす位置に築かれており、その北側直下には木曽川渡河点があることから、その監視所としての性格が考えられる。また、横堀に組み合わせた竪堀の形態は、甲斐武田氏城館に類例がみられる。付近の歴史的状況からみても、築城に武田氏が関与している可能性は高い。その場合、木曽川流域の掌握といった点から、武田氏の動向を考える材料になるとも思われる。
『「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(2004 岐阜県教育委員会)」より本文抜粋』


猪狩山城へゆく (岐阜県恵那市笠置町姫栗猪狩)

【歴史】戦国時代、木曽川の右岸一帯は苗木遠山氏の勢力下にあった。苗木城の支城である猪狩山城の城主は茂知野修理だった。木曽川を挟んで対する久須見城の城主は松尾左京だった。勢力争いが絶えず何度かの戦いの末、猪狩山城は落城。茂知野修理は松尾左京との一騎打ちにも敗れ首をはねられ果てた。
『現地案内看板より本文抜粋』


久須見城へゆく (岐阜県恵那市長島町久須見)

【歴史】松尾左京が城主であったと伝えられるが、具体的な歴史は不明である。
『「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(2004 岐阜県教育委員会)」より本文抜粋』


【訪城記】久須見城に行くのは、実に約20年ぶりのことだったが、20年前に登城した場所から城址の散策に入ったまでは良かったが、20年前に登った記憶のある神社へ続く道が見当たらない。記憶違いだったかと思いながら当時の記憶を一生懸命に辿っても確かに神社に続く石段を登った記憶がある。しかしその道がどうしても見当たらないため、いったん最初の場所に戻ると、反対側に2022年の全国山城サミットに合わせて整備されたと思われる案内板を見つけ、何とか主郭に到着することができた。主郭に着くとそこには神社の社殿を取り壊したような跡があり、どうやらこの20年の間に登城道が消滅したようだった。その代わり城跡としての整備はされており、20年前よりも良好な堀切跡を見ることができた。

天王山砦跡の横堀と土塁

猪狩山城址の堀切と土塁跡

久須見城址の堀切跡

2月11日 近江国への城址探訪
丁野山城へゆく (滋賀県長浜市小谷丁野町)

【歴史】「丁野山古砦之図」によれば、永正15年(1518)7月に浅井亮政が築城、天正元年(1573)には朝倉義景の軍勢が小谷城の加勢に入ったとある。「信長公記」によれば、小谷落城の直前の天正元年(1573)8月12日、「ようの山」には越前平泉寺の玉泉坊が籠城していたが、信長の攻撃が迫ったので降参し、越前国へ落ちのびたとある。「丁野山古砦之図」によっても、平泉寺衆徒や越前玉泉坊、それに堀江甚介など、越前朝倉氏の家臣たちが、信長の小谷城攻めに対抗するため、布陣した場所であることが記されている。
『現地案内看板より本文抜粋』


中島城へゆく (滋賀県長浜市小谷丁野町)

【歴史】丁野山城がある岡山から東へ出る支脈の頂部の場所に存在する砦跡である。「丁野山古砦之図」によれば、この支脈を大鳳山と称し、中島城から東の尾根上にも、三田崎六郎右エ門ら朝倉氏家臣が立て籠もった砦跡が存在したが、現状では明確に確認しえない。本城には浅井氏の重臣である中島相左衛門直親が、織田信長の小谷城攻撃に対抗するため、布陣した場所と伝えることから、城名がつけられたと推定される。
『現地案内看板より本文抜粋』


清水谷屋敷跡群へゆく (滋賀県長浜市小谷郡上町)

【歴史】御屋敷跡は、清水谷屋敷群の最奥に位置し、浅井氏の三代の居館。お市の方とその子供たちもこの館で暮らしたと思われる。天文3年(1534)初代城主浅井亮政が主家の京極高清・高広親子を招き饗応した。この宴は浅井氏が京極氏の筆頭家老であり、北近江支配の実権を掌握したことを示したとされる。清水谷一帯には多くの郭群がある。武家屋敷跡の中央を抜けてきた清水谷道は、途中より急な登り道となる。丸子岩を過ぎると、右に水の手と称る谷筋が分かれている。途中井筒池と称する池がある。天正元年織田軍が最後の小谷城攻撃で攻め登った谷と言われている。清水谷道をさらに進むと八畳岩があり左手上方に浅井家の重臣三田村屋敷跡・大野木屋敷跡と連なり、小谷城主郭の最奥の六坊跡に至る。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】本日は小谷城の眼下に点在する丁野山城址と中島城址を訪れてみた。3年前に購入した戎光祥出版『朝倉氏の城郭と合戦』を読んでから、朝倉氏の築城技術の凄さを知り、その影響から昨年度もちょうど同じ頃に朝倉氏が改修したとされる上平寺城址を訪れている。本日の目的地である丁野山城砦群も朝倉氏の改修の痕跡がみられる城址のひとつであるが、自分は書籍を読むまでその名前すら知らなかった城址でもある。しかし、いざ城址の主郭部分に入ってみると大規模な堀切や空堀などの遺構が見られた他にも、琵琶湖に浮かぶ竹生島や小谷城の全景を眺めることもでき、さらに丁野山城の出城的存在である中島城址でも、コンパクトながら周囲を土塁が取り巻く技巧的な郭跡を見ることができるなど、何故これまでこれらの城址の存在を知らなかったのか不思議なくらいの素晴らしい遺構であった。しかも、城址は地元の方のご尽力で登城道も大変整備されており、しかもそれほど比高差がないため、コロナ禍ですっかり出不精になった身体にも大変優しい山城となっている。この日は、丁野山城砦群の見学があまりにも楽であったため、持て余した体力をさらに小谷城の清水谷道へと向けたまでは良かったが、これが間違いであった。下調べをしないまま清水谷に行くことを思いついたたため、大野木屋敷跡までの登りの道中で運動不足の膝が違和感を覚え、登城道を降る頃には痛みを感じるようになってしまった。膝の痛みは家に帰ってもあまり改善せず、翌日に計画していた地元の城址への登城をついに断念することになってしまった。次回からはトレッキングポールか膝サポーターを用意して登城した方が良いのだろうか。

丁野山城址の主郭横堀跡

中島城址の郭と土塁跡

清水谷御屋敷跡

三田村屋敷跡の石垣

大野木屋敷跡の石垣

1月17日 武蔵国への城址探訪
江戸城へゆく (東京都千代田区千代田)

【歴史】江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
『現地案内看板より本文抜粋』


品川台場跡へゆく (東京都港区台場)

【歴史】「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江戸川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永6年(1853)8月に着工、1年3ヶ月の間に6基が完成しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】2024年の訪城旅は江戸城からスタートです。珍しく仕事の関係で東京へと出掛けたその翌日、そのまま江戸城跡と品川台場跡を訪れることにしたまでは良かったものの、しばらく歩いていると足の甲辺りにわずかな違和感を感じるようになった。そのまま歩いていると次第に違和感は痛みへと変わり、歩き方も不規則なリズムを刻むようになってきた。この痛みは遠い昔に感じたことのあるもの、しばらく忘れていた感覚、紛れもなく靴擦れの痛みだ。この日はスーツと防寒コートと少し硬めの革靴といった仕事モードの出で立ちで城廻りに臨んだのであるが、ウォーキングシューズで城廻りをする時と同じペースで江戸城跡を歩いたために靴擦れができたようだ。バンドエイドを貼って痛みを和らげながら、公共交通機関を乗り継ぎ、ようやく品川第三台場跡にたどり着いたが、40分ほどの探索を終えると再び足の痛みを感じるようになり、まだ太陽は高い位置にあるものの、他の観光地を回る気力もなくそのまま帰宅の途についた。それでも今年最初の城巡りを仕事のついでとは言え、暖かな冬の青空の下、100名城、続100名城という有名どころの城から始められたのは良かった。

江戸城北の丸跡の清水門

第三台場跡の砲台跡

第六台場跡

戻 る