城址探訪記(2014)

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11月24日 相模国へ城址探訪       
石垣山城にいく(神奈川県小田原市早川)

【歴史】
石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲した時、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。この城を秀吉が一夜にして築いたように見せかけたという伝承から石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われています。この城は小田原攻めの本営であるというだけでなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。
『現地案内看板より本文抜粋』


小田原城にいく(神奈川県小田原市)

【歴史】
小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された城下町を含む延長9kmに及ぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。北条氏滅亡後に徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、城は近世城郭の姿に改修されます。
現地案内看板より本文抜粋


【日記】小田原城へは14年ぶりに訪れた。この小田原城は自分にとってとても思い出深い城である。思い起こせば、自分の城めぐりは箱根観光の途中で訪れたこの小田原城から始まったのではないかと思う。これ以降、旅行の途中で城というものに立ち寄る頻度が増えていき、そして次第に自分の中で城めぐりの趣味が確立していった。その頃に訪れた小田原城は、今よりも観光客が少なく、天守閣の前にはまだゾウがいた。銅門が復元されて間もない頃であり、公園にも静寂があったように記憶している。現在の小田原城は日本100名城に選ばれ、歴史ブームも手伝ってか、訪れる多くの人々で活気にあふれていた。城自体も馬出門が復元され、今でもなお御用米曲輪跡で発掘調査が行われるなど、14年前の姿から格段に進化を続けている。自分にとっては城めぐりのスタートとなった小田原城。来年度は耐震と展示リニューアルのために天守閣が休館となるらしいが、また次回訪れた時どんな姿を見せてくれるか楽しみです。

石垣山城南曲輪下の石垣


小田原城の復興天守閣

11月23日 伊豆国へ城址探訪       
山中城にいく(静岡県三島市山中新田)

【歴史】
山中城は、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558〜1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城です。箱根山西麓の標高580mに位置する自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていましたが、戦国時代末期の天正18年(1590)3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられています。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】東海4県にある日本100名城の中で唯一訪れたことがなかった山中城。後北条氏の築城技術がいっぱい詰まった山城だけあって、代名詞の障子堀をはじめ、北の丸、西の丸、二の丸付近に施された防御設備には只々驚くばかりです。こんな堅固で技巧的な城が豊臣軍によって半日で落とされるとは、当時の豊臣軍の圧倒的な強さを改めて思い知らされます。もし後北条氏があっさりと豊臣家に降伏していたら、後に起こる関ヶ原合戦はどのような展開になっていたのでしょうか。こんなに素晴らしい城を築いた後北条氏、遅かった降伏が本当に惜しまれます。もっと後の世で活躍してもらいたかったと山中城を見てしみじみ思いました。

山中城の障子堀

11月17日 美濃国へ城址探訪       
苗木城にいく(岐阜県中津川市)

【日記】わが東濃地域が全国に誇る岩村城と苗木城。最近はバスツアーが組まれ、遠隔地から団体客が訪れるようになってきています。この岩村城と苗木城には毎年1回は必ず訪れるようにしていますが、ここ2,3年は訪れる度に城址の雰囲気が格段に変わってきていることに正直驚くばかりです。特に苗木城での整備スピードは凄まじく、昨年度、二の丸仕切門付近の石段が整備された記憶も新しいのに、この日も二の丸の的場跡付近で何やら石垣が整備されている光景を発見。これまで的場の存在しか記憶になかった辺りに、何やら真新しい石垣の出っ張りが見える。門跡なのか建物跡なのか、よくわからない新たな整備がそこで始まっていた。さっそく苗木在住の城仲間に電話して聞いたら、よくわからないが何か新発見があったので整備しているらしいとのこと。100名城ではない苗木城がここまで整備されるのも、最近増加した観光客に対する自治体のリスペクトか?何にしても訪れる度に常に新たな光景を見せてくれる苗木城は素晴らしいと思いました。

苗木城二の丸的場付近の復元作業

11月8日 三河国へ城址探訪       
岡崎城にいく(愛知県岡崎市)

【歴史】
15世紀中頃、西郷弾正左衛門頼嗣が現在の岡崎城の位置に初めて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し、本格的な岡崎城を構えました。天文11年(1542)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生しました。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松井松平氏、本多氏と、歴代譜代大名が城主となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】恐ろしいことに岡崎城へ訪れるのは実に12年ぶりだ。もうそんなに時が流れていたのかと思いながらも、昨今の城郭ブームも手伝ってか12年ぶりに訪れる岡崎城はとても開放的な空間に変わっていて心地よい。何よりも観光客が格段に多くなっている。あらためて岡崎城をゆっくり散策してみると、石垣や空堀、馬出、水掘などけっこう遺構も残っている。これらは12年前にも存在していたと思うが、なぜか当時は散策する気にならなかった。自分の知識が浅かったせいもあるが、公園自体があまり観光的でなかったからかもしれない。今回じっくり城内を散策してみて岡崎城に対するイメージが12年前とすっかり変わってしまいました。岡崎城は良い堅城です。

岡崎城復興天守閣

10月20日 肥後国へ城址探訪       
人吉城にいく(熊本県人吉市)

【歴史】
人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、人吉荘の地頭となった相良長頼が、建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城、繊月城とも言います。人吉城が石垣造りの近世城として整備されるのは天正17年(1589)からで、何度か中断をしながらも、51年後の寛永16年(1639)に現在みられる石垣が完成しています。
『現地案内看板より本文抜粋』


近世宇土城にいく(熊本県宇土市)

【歴史】
近世宇土城は、キリシタン大名小西行長が築城した近世城郭です。通称「城山」と呼ばれる小高い丘の最高位に内堀で囲まれた本丸が位置し、二ノ丸や三ノ丸がそれぞれ本丸西側と南側及び東側に配置されています。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた行長が処刑された後、肥後一円を治めた加藤清正は、自身の隠居所とするため大規模に改修を行いました。しかし隠居することなく慶長16年(1611)に死去し、翌年、幕命により破却されました。さらに寛永14年(1637)の天草・島原の乱後も徹底的に破壊されたため、往時の姿はとどめていません。
現地案内看板より本文抜粋


中世宇土城にいく(熊本県宇土市)

【歴史】
中世宇土城は、平安時代の永承3年(1048)に宇土城が造られて以後、菊池氏の一族が代々城主であったとされ、室町時代には宇土氏と名和氏が宇土城主となりました。城を使わなくなった時期は、小西行長が近世宇土城の築城を開始した16世紀末頃と考えられています。
現地案内看板より本文抜粋』


【日記】南肥後の旅2日目。人吉城を散策した後、この旅の最後に訪問しようと思ったのは、数年前にも一度訪れた事のある宇土城址でした。この宇土城址は日本で唯一の小西行長像が設置されている城址であり、小西ファンの自分にとっては一種の聖地であるのだが、像が設置された頃は行長の評判が悪く、しばらくはトタン板で覆われていた時代があったそうだ。しかし宇土城のある宇土市では、最近になって小西行長を再評価する動きがあり、現在ではなんと「うとん行長しゃん」というゆるキャラまで登場している。さらに城址には数年前には無かった説明看板が新たに設置されていたり、城址自体も心なしか小奇麗になっている。そう言えば、現在放送中の大河ドラマでも小西行長の登場シーンはそれなりに多く、主人公の黒田官兵衛と2人だけで密談する場面も設定されているほどの扱いを受けている。これらの現象はみな行長のイメージが着実に復権してきている証拠なのであろうか。行長の復権はファンとしてとてもうれしい限りです。あとは「うとん行長しゃん」グッズがどこでも手に入ると言う事なしなのですが。

人吉城の復元角櫓・多聞櫓


近世宇土城跡の石垣


中世宇土城の門跡

10月19日 肥後国へ城址探訪       
八代城にいく(熊本県八代市)

【歴史】
八代城は、元和5年(1619)の地震により、麦島城が崩壊したため、熊本藩主加藤忠広が幕府の許可を得て、重臣の加藤正方に命じて、築城した平城で、元和8年(1622)に完成しました。石垣に白い石灰岩を用いていることから、白鷺城とも呼ばれています。一国一城令の後も存続が許された全国的にも珍しい城で、加藤家の改易後は、寛永9年(1632)細川忠利の父忠興(三斎)が入城し、三斎没後の正保3年(1646)、家老松井興長が入城し、以後明治まで松井氏が代々在城しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


麦島城にいく(熊本県八代市)

【歴史】
麦島城は、天正16年(1588)、宇土・益城・八代・天草の領主となったキリシタン大名小西行長が、名和氏・相良氏時代の古麓城を廃して、重臣の小西行重に命じて築かせた城です。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、八代は加藤清正の治めるところとなり、麦島城も加藤氏の支城となりました。支城となった後、麦島城の改修が行われました。元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると一国一城令が出されましたが、肥後国は例外として熊本城と麦島城の2城が残されましたが、同5年3月の地震で倒壊しました。
現地案内看板より本文抜粋


佐敷城にいく(熊本県葦北郡芦北町)

【歴史】
佐敷城は、16世紀後半に肥後国を治めた加藤清正が薩摩国や球磨、天草地方へつながる交通の要衝であった佐敷に築かせた近世城郭です。肥薩国境を守る境目の城であり、島津軍とは2度、直接戦火を交え、これらの戦いにまつわる言い伝えは葦北郡一帯に残っています。大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり壊されますが、寛永15年(1638)、天草・島原の乱終結後にも再度壊されました。
現地案内看板より本文抜粋』


【日記】今回は南肥後の旅。小西行長が好きな自分にとって南肥後の旅は、かつてこの地を治めた行長の足跡を辿る旅でもあります。そして今回の旅の目的のひとつが麦島城址に立ち寄ること。麦島城は国内でも希少な小西家の城であり、近年の発掘調査により当時のままの石垣や建築資材が出現したという城址です。残念ながら現在の発掘現場は埋め戻され完全なる道路となっていますが、それでもわずかな痕跡を求めて発掘物が展示してある近くの公民館やシルバー人材センターを訪れたり、民家の庭先のようなところにある天守台跡といわれる場所を訪れたり、遺構が少ない割には結構な時間をかけて散策を試みました。好きな人物の城めぐりであると、標柱が1本立ててあるだけの城址でも、非常に感慨深く見ることができるから不思議なものです。それにしても道路下の遺構、次に日の目を見る時はいつなのでしょうか?その時は小西ファンとしてぜひ駈けつけたいものです。

八代城の大天守・小天守跡


麦島城本丸天守台跡


佐敷城の復元石垣

9月13日 伊勢国へ城址探訪       
亀山城にいく(三重県亀山市本丸町)

【歴史】
伊勢亀山城は、文永2年(1265)、若山に関実忠が最初に築城し、元亀4年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関市16代の居城でした。天正18年(1590)、岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記されています。また。寛永13年(1636)、本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張が確定します。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が設けられました。『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】以前から行きたかった松浦武四郎記念館に訪れた帰り道、急遽、10年以上ぶりに亀山城に訪れてみようと思った。亀山城は三重県唯一の城郭遺構として現存する本丸多聞櫓が有名だが、その多聞櫓と言えば、数年前、本来の形に復原されたというニュースをネットで知った。以前は壁面に黒見下板が張り付けられていたのが、現在は古記録に従って白い総塗込めの壁面に改修されたのだ。無骨なイメージがある以前の多聞櫓も好きだったが、実際に初めて白い多聞櫓を見てみると断然こちらの方が良く思えてきた。シンプルながらも真っ白い壁面が城郭遺構としての存在感を以前にも増して強くしているように思える。最初は下板を外して見栄えはどうかと思ったが、これは外して正解です。急な思いつきながらも亀山に訪れてみて良かったです。

亀山城の本丸多聞櫓(現存)

9月6日 尾張国へ城址探訪       
犬山城にいく(愛知県犬山市)

【歴史】
犬山城は天文6年(1537年)現在の位置に天守が造営され、織田与次郎信康が城主となったが天文16年(1547年)岐阜の稲葉山城で戦死、その子織田十郎左衛門信清が城主となった。その後何代か城主がかわり文禄4年(1595年)石川備前守光吉が守った。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の後小笠原和泉守吉次が入城した。この石川、小笠原両氏の手によって、近世の犬山城が完成された。その後、平岩主計頭親吉のあと元和3年(1617年)成瀬隼人正正成が城主となってからは成瀬氏が継いで明治に至った。明治四年九代目正肥のとき廃藩置県で廃城となり天守を除くほかは殆ど取りこわされた。同24年濃尾震災で天守の東、南と西北の付櫓・城門がこわされたので、同28年旧犬山藩主正肥に城を修理するという条件で譲られ唯一の個人所有となった。平成16年4月からは個人所有から財団法人の所有となったが、それでも財団法人が所有する唯一の城となっている。
『犬山城パンフレットより本文抜粋』


【日記】先週に引き続き、今週も国宝の城へ。岐阜県は滋賀県、愛知県、長野県と隣接しているため、割と簡単に彦根城、犬山城、松本城に行けるのです。今回はお馴染みの犬山城ですが、犬山城の魅力のひとつは見る角度によって城の雰囲気が変わるところです。4面とも違った表情を見せるので、色々撮影スポットがあるのですが、この日は登城口から少し離れた犬山丸の内緑地から西側を撮影してみることに。すると普段見慣れない構図で、結構格好よく写るじゃないですか。前の鉄条網が少々邪魔ですが、天守南面の唐破風もしっかりと構図に入り、結構いいバランスで撮ることができました。この撮影スポットは人が少なくてお勧めです。

丸の内緑地から見た犬山城天守

8月30日 近江国へ城址探訪       
彦根城にいく(滋賀県彦根市)

【歴史】
関ヶ原合戦後、石田三成旧領十八万石を得た井伊直政は、佐和山城を廃し新城彦根城の建設に取りかかった。工事は十二大名に役夫を割り当てる天下普請で実施され、直政亡き後、築城工事は二代直継に引き継がれた。徹底的に近江国内にあった旧城郭の部材を再利用したと伝えられ、天守は大津城天守閣、天秤櫓は長浜城、太鼓門は佐和山城、西の丸三重櫓は小谷城から運ばれたという。国宝に指定されている天守は、三重三階で、付櫓から階段を利用して一階に入る構造となっている。外観意匠は、極めて華美で切妻破風、入母屋破風、唐破風を多用し、最上階に回縁高欄が廻り、二層・三層目に華頭窓、一層目のみ下見板張りという、変化に富んだ姿を今に伝えている。
『新人物往来社発行 別冊歴史読本93 新・日本名城図鑑 より本文抜粋』


【日記】今回で3度目の訪城となる彦根城。前回は400年祭が目的で訪れたが、今回の目的は「登り石垣」を観察すること。前回訪れた時には登り石垣の知識がなく、視界には入っていた様な気がするが、特に印象に残っていなかった遺構である。しかし自分の中で城の知識が増えるに従い、実は全国的に珍しい遺構であるという事に気付き、今回見逃してはいけないという強い意識で地図を頼りに探してみる。が、地図など必要なかった。大手門や表門のすぐ近くで登り石垣の遺構は普通に見えているのだ。そう、今まで自分に知識がなかったために気付かなかっただけで、知っている人が見れば登り石垣は昔から普通に見えていたものなのだ。自分が登り石垣を熱心に観察している後ろを観光客が通り過ぎていく。当然の如く、登り石垣には関心を示していない。これが観光客とマニアの違いなのだろうかと考えながら他の登り石垣も探して回った。今回、登り石垣を探すために内堀の周りを入念に歩いたことで、同じように気付かなかった目立たない遺構を多く見る事ができた。やはり物事を知らないという事は、いつどこで自分が損をしているのかわからないということだ。もっと知識を増やして損をしないような訪城を心掛けねばいけないと感じました。

彦根城天守閣

大手門付近の登り石垣

6月15日 越前国へ城址探訪       
大野城にいく(福井県大野市城町)

【歴史】
越前大野城は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城です。織田信長の部将、金森長近により天正年間(1573〜1593)の前半に築城されました。亀山を利用し、外堀・内堀を巡らし石垣を組み、天守閣を構えるという中性の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛政7年(1795)に再建されました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】今、新たに「天空の城」として脚光を浴びつつある越前大野城は、山の上に天守が建ち、その姿は遠くからでもよく見える。そしてそのことが、天空の城以外にもあるひとつの面白い光景を作り出している。大野市から福井市方面に続く158号線を進んでいくと「犬山」という信号交差点がある。この交差点には当然「犬山」と書かれた地名標識が付いているのだが、福井市方面から見た場合、この標識と山上の城がうまい具合にひとつの風景となって重なる地点があり、これを写真に収めると、お城の下に犬山という表示が出ているように写る。あまり城に詳しくない人にその写真を見せると、おそらく犬山城の写真と勘違いしてしまうのではないだろうか。今回、天空の城の事よりもこちらの方に興味がいってしましました。

大野城の模擬(復興?)天守閣

5月24日 近江国へ城址探訪       
安土城にいく(滋賀県近江八幡市安土町)

【歴史】
安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576)に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。築城開始から3年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みましたが、その3年後天正10年(1582)に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天守・本丸は焼失してしまいました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】10年ぶりに安土城に訪れてみた。入山無料の時とは違い、入城料と駐車場代を含めると1,100円になる。入城料500円は相場でいうと、現存天守クラスの城が設定している料金であるが、安土城の歴史的価値を考えると特に高いということもない。なにせ安土城は史跡としてどんどん発展しているからだ。10年前には未整備だった地区が発掘され、今では観光用に整備されている。しかもまだ大規模な発掘が継続しているようで、ブルーシートから垣間見られる石塁らしきものを見ていると、まだまだ面白いものが埋まっているようだ。岐阜城山麓の信長居館跡の発掘もそうであるが、信長関連の発掘は、歴史に大きな影響を与える発見につながるため、この先どんどん発掘整備されていくのが待ち遠しいかぎり。さらなる歴史の解明が間近で見られるという点では1,100円の投資というのは決して高くないのではないかと思います。また再び訪れる時が楽しみな城です。

安土城の天主台跡
(以前よりも見やすくなっていた)



5月10日 遠江国・三河国へ城址探訪       
鳥羽山城にいく(静岡県浜松市天竜区二俣町)

【歴史】
鳥羽山城と二俣城は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いを契機に今川氏によって築かれたと考えられています。永禄11年(1568)今川氏の滅亡により、両城は徳川家康が領有することになりますが、三方ヶ原の戦いがあった元亀3年(1572)には武田信玄によって攻略されました。長篠の戦いがあった天正3年(1575)まで、徳川方と武田方によって両城をめぐる激しい攻防戦が展開され、武田方の二俣城を攻める際には鳥羽山城に徳川方の本陣が置かれました。関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600)以降は、戦略拠点としての重要性は薄れ、廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


二俣城にいく(静岡県浜松市天竜区二俣町)

【歴史】
永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、二俣城は徳川・武田両氏の攻防の舞台となりました。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、しかも二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結接点で、遠州平野の「扇の要」であったからです。元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に侵入し二俣城を攻撃しました。武田軍は城の水の手を断つ作戦を選び、徳川軍の城兵が崖に櫓を建て、釣瓶で天竜川から水をくみ上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊し、二俣城は陥落しました。天正3年(1575)5月、長篠の戦いで勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手、二俣城を包囲し、武田軍は7ヶ月で兵糧が底をつき城を明け渡しました。
現地案内看板より本文抜粋


長篠城にいく(愛知県新城市長篠市場)

【歴史】
1508年(永正5)今川氏親に属する菅沼元成が長篠城を築きました。1571年(元亀2)長篠城は武田軍(秋山、天野)に攻められて降参し武田信玄に属します。1573年(元亀4〜天正元)野田城を落とした信玄は長篠城で休養、三河から伊那路へかかるあたりで死去。徳川家康は長篠城を奪回し、城主菅沼正貞は家康に内応したとして武田軍に捕らえられました。武田軍に属していた奥平貞能、貞昌父子は離脱して徳川軍へ投じ、1575年(天正3)2月、徳川家康は長篠城を奥平貞昌に与えました。貞昌は急ぎ城郭の修理補強を行い、5月には武田勝頼が来襲しましたが、猛攻に耐えて家康の期待に応えました。
『長篠城址史跡保存館しおりより本文抜粋』


【日記】平成17年に選定された「日本100名城」の影響力にはすごいものがある。特に平成19年に100名城スタンプラリーが始まると、その効果が如実に現れてくる。今回訪れた長篠城でもその影響力に驚くことになる。これまで長篠城へは過去2回訪れているが、いずれもスタンプラリーが始まる前だったので、今回はスタンプを押すことを主の目的に何年かぶりに立ち寄ってみた。駐車場に車を止め、資料館へ歩く傍ら久しぶりに内堀の方向を眺めてみると、内堀の形が以前よりもくっきり見えている。本丸の方を眺めてみると遠くの景色がよく見える。土塁の上へ登る道もはっきりわかる。極めつけは線路に分断された城址の対面にも遺構を示す標柱が立てられている。過去2回訪れているはずの長篠城なのに、今まで訪れたことがないような感覚で城址を見て回った。以前は草に覆われていて、足を踏み入れるのも躊躇された場所にも、今回は普通に足を踏み入れることができるなんて。ここまで素晴らしい変化をもたらした100名城のネームバリューと地元の人の努力に本当に感謝です。

鳥羽山城の本丸東側石垣


二俣城の天守台跡


長篠城の内掘跡

4月29日 武蔵国へ城址探訪       
川越城にいく(埼玉県川越市郭町)

【歴史】
川越城は長禄元年(1457)に太田道真、道灌父子によって築城され、上杉氏6代、北条氏4代の持城でしたが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものでした。江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、八郭・三櫓、十二門をもつ徳川家の親藩、譜代の大名の居城として有名でした。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】川越というと自分が真っ先に思い浮つくのが川越城ではなく、なぜか「監察医・室生亜季子」である。そのため今回は日本100名城であり、国内でも貴重な本丸御殿が現存しているはずの川越城ではなく、ドラマによく登場した喜多院の五百羅漢や時の鐘に興味がいってしまった。実際の川越城址は市街地化のため、城跡を感じさせる遺構が少ない上、前日までに見てきた滝山城や鉢形城、杉山城の遺構が素晴らしかったため、城址としてはやはり見劣りしてしまう。帰ってきてからのデジカメ写真を比較しても川越城関連の遺構より、それ以外の観光的な写真が多い。そういえば川越城の遺構よりも、室生医院の場所を目では探していたような気がする。城址にきて城址以外のものに興味がいくことは珍しい事だった。

川越城本丸御殿(現存遺構)

4月28日 武蔵国へ城址探訪       
鉢形城にいく(埼玉県大里郡寄居町鉢形)

【歴史】
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦に入婿した小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は城兵の助命を条件に開城しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


杉山城にいく(埼玉県比企郡嵐山町杉山雁城)

【歴史】
杉山城は室町〜戦国時代の築城と推定される典型的な山城です。急峻な丘陵を巧みに利用して十余の郭を理想的に配しています。当時の社会情勢から判断して、松山城と鉢形城とを連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられます。築城年代や城主名等に不明な点も多いが、一説には、松山城主上田氏の家臣杉山主水の居城と伝えられています。
現地案内看板より本文抜粋


菅谷館にいく(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)

【歴史】
菅谷館は鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。元久2年(1205)、武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが『吾妻鏡』に書かれています。現在の遺構は本郭、二ノ郭、三ノ郭などと、それらを防御する土塁、空堀などからなり、このような姿になったのは戦国時代のことと考えられます。
『現地案内看板より本文抜粋』


松山城にいく(埼玉県比企郡吉見町北吉見)

【歴史】
松山城の歴史は古く、古代にさかのぼるとも言われますが、一般的には鎌倉時代末期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉築城説、応永23年(1416)頃の上田上野介築城説などがあります。城郭としての体裁を整えたのは、15世紀半ば太田氏が江戸・川越・岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。この城が天下に知られたのは、天文年から永禄年間のことであり、城をめぐる上杉氏・武田氏・北条氏の争奪戦は有名です。のち豊臣勢に攻められて、天正18年(1590)に落城しました。歴代城主上田氏の滅亡後は松平家広の居城となりましたが、弟忠頼が慶長6年(1601)浜松に転封されたのを最後に廃城となりました。
現地案内看板より本文抜粋


難波田城にいく(埼玉県富士見市下南畑)

【歴史】
難波田城は鎌倉時代に難波田氏の居館として築かれ、戦国時代に拡張整備が行われたとされる平城です。天正年間以降、城は廃城とされました。
週刊名城をゆく42 小学館 2004年 より本文抜粋


【日記】自分が城めぐりにおいて楽しみにしている要素のひとつは、地元の資料館に訪れてその土地ならではの歴史資料を見たり、その資料館でしか手に入らない書籍を買い求めることだ。今回の旅先は自分の中では知識が浅い関東圏、訪れるのは後北条氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏などの城とあって、がぜん資料館での情報収集は欠かせない。しかしこの日はなんとGW谷間の月曜日であったためほとんどの資料館は閉館している状態で、当然のごとく鉢形城歴史館、嵐山史跡の博物館、難波田城資料館などがお休みで入れない。いつもの城めぐりよりも少々意気消沈しつつ、杉山城に訪れてみると、なんと城址の入口にケースに入ったカラー刷りの資料が何気に置いてある。どうやら杉山城は私有地でありながらも地元の方々が町の大切な史跡として、保存活動を積極的にしているらしいとのこと。全国的にも地元が保存に力を入れている城址ほど資料が用意されている率が高いのであるが、ここ杉山城も例に漏れずちゃんと資料が用意してある。地権者の理解と地元の方の努力、そして下草刈りなど綺麗に手入れされている城址に感動しながら、菅谷館を経て、今度は武蔵松山城へと向かう。松山城を1時間くらい散策した後に、麓の名勝「吉見百穴」を見学しようと入場料を払って中に入ってみると、なんと敷地内に併設されている埋蔵文化財センターが開館している模様。月曜日なので開館していないとあきらめていただけに、思いがけない開館に喜びもひとしお。館内に入ってみるとコピー用紙に印刷されたA3版の松山城の資料が置いてあり、この日、2つ目の城址資料を手に入れることができました。しかしやはり資料館の閉まっている月曜日の城址巡りは考えものです。次回、こちらの方に来る機会があるならばその時は資料館が開館している日にしようと思いました。

鉢形城の秩父曲輪跡


杉山城の南三の郭虎口


菅谷館の本郭土塁と空堀


松山城の空掘


難波田城公園

4月27日 武蔵国へ城址探訪       
滝山城にいく(東京都八王子市高月町)

【歴史】
滝山城は、相模小田原城に本拠を置く戦国大名北条氏第4代当主氏政の弟氏照の居城です。縄張の見事さから、全国有数の戦国時代の城郭として評価されています。滝山城の築城年代や氏照の入城時期は不明な点がありますが、永禄10年(1567)までには滝山城を居城としていたとみられます。永禄12年(1569)10月、甲斐の武田信玄が小田原城攻略の途中、その道筋にあった滝山城を包囲しました。天正10年(1582)ごろから新城の築城工事が始められ、同15年までには滝山城から八王子城へと移っていきました。
『現地案内看板より本文抜粋』


片倉城にいく(東京都八王子市片倉町)

【歴史】
片倉城は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約30mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。応永年間(1394〜1428)に大江備中守師親の在城が記され、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが確証はありません他の中世城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀代に廃城となったと推定されています。小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。
現地案内看板より本文抜粋


【日記】4年前、八王子城を見た帰りにふらりと立ち寄った滝山城。地理不得手のために車の停め場所がわからず訪城を取りやめた教訓を胸に、今回はバスに乗ってやってきた。滝山城は各曲輪を取り巻くように巡る大規模な空堀と馬出が特徴である。最初は空堀の壮大さに感心しながら足を止めて見ていたが、次から次へと現れる空堀の多さに、それが普通の光景に見えてきてしまい、最後の方には当初抱いた程の興味や関心が薄れてきてしまった。以前、信州の高遠城の桜を見に行った時もそうであったが、素晴らしい光景も数が多すぎると当り前の光景に変わってしまい最後には飽きてきてしまう。やはり城の遺構も程々の方が見応えがあるのだろうか。

滝山城の大空堀と木橋


片倉城の空掘

4月6日 三河国へ城址探訪       
市場城にいく(愛知県豊田市市場町)

【歴史】
市場城は昔は小原谷大草城といい、標高380mの山頂にある室町時代の山城です。小原村には当時の山城が11ヶ所あり、その中でも市場城は主城の役割を担っていました。室町時代が始まる応永年間(1394〜1482)は足助重春の一族が小原谷市場古城に居城しており、長禄3年(1459)には鱸五郎親信が足助の鈴木忠親から小原谷を与えられ領有していました。その後、文亀2年(1502)に鈴木藤五郎親信が今の市場城を築いてから88年間、市場城は鱸氏4代の居城でした。第4代重愛は徳川家康の下で大功をたて、天正11年(1583)に領地を加増され、石垣を積み曲輪を構えるなど城郭の大改修を行って堅城としたが、天正18年(1590)何らかの理由で改易となり市場城は文禄元年(1592)廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【日記】現在、豊田市を名乗っている旧西加茂郡や東加茂郡は我が東濃地方と郡境を接する地域であり、知名度は高くないが東濃同様に面白い山城が存在する。今回訪問した旧小原村の市場城もそのひとつだ。壮大な石垣、珍しい畝状竪堀群、そして四季桜と見どころは多いが、自分が最も驚いたのはその本丸をはじめとした曲輪群である。近世山城かと疑いたくなるほど、本丸はもとより、本丸を取り巻く曲輪群もこれまた広い。特に遊歩道から外れた北西〜北側の曲輪は広い上に、本丸側を見上げるともの凄く高い切岸状になっており、市場城が堅城であったことがよくわかる。しかし地方の小豪族とはいえ、これだけの堅城にした理由は何だろうか?どんな敵を想定してこんな堅城に改修したのであろうか?対豊臣?、対徳川?、とにかく不思議な魅力を秘めた城だ。

市場城の石垣

1月18日 美濃国へ城址探訪       
岐阜城にいく(岐阜県岐阜市金華山)

【歴史】
岐阜城は、かつて、稲葉山城と称していました。金華山頂に最初城を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政で、戦国時代には斎藤道三の居城であったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄十年(1567年)八月、不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、その地名も「井の口」を岐阜と改め大胆な構想のもとに善政を施し、天下統一の策源地としてからでした。しかし慶長五年(1600年)九月、関ヶ原合戦の際、信長の孫秀信が西軍に味方したため東軍に攻め入られ、激戦の末落城しました。翌慶長六年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移されました
『現地案内看板より本文抜粋』


更木陣屋にいく(岐阜県各務原市那加西市場町)

【歴史】
江戸時代、各務原市北西部の那加から蘇原西部一帯は、旗本徳山氏の所領でした。初代旗本となった徳山五兵衛則秀は、織田信長、柴田勝家、前田利家に仕えた後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍について戦功をあげました。徳山氏は徳川家康から約5千石の知行地を得て、明治維新までの約250年間、12代にわたって各務原の地を治めていました。この地には旗本徳山氏の屋敷が置かれ、更木陣屋の名で呼ばれました。
現地案内看板より本文抜粋


【日記】2014年最初の訪城は居住地である美濃国からスタートします。今回は久しぶりの岐阜城への訪城です。全国的にも名高く、天守閣からの眺望が素晴らしい岐阜城ですが、今回訪れたのは山麓遺構の発掘現場が目的。言わずと知れた「信長公居館跡」の発掘作業です。現在、日本全国で行われている発掘作業の中で、戦国時代関係ではこの「信長公居館跡」の発掘が一番面白いのではないでしょうか。発掘現場にはシートが掛けられていましたが、それでも発掘現場をロープウェイから見下ろし、その壮大さをイメージするだけで満足感いっぱいです。この山麓遺構が復元整備された暁にはどんな光景になるのでしょうか?その日が来るのが待ち遠しいですね。ただ発掘品の展示が平日だけだったのはショック。訪れるのは平日がおすすめです。

信長居館跡発掘現場
(ロープウェイから撮影)



更木陣屋跡

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