城址探訪記(2016)

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11月26日 信濃国への城址探訪
飯田城へゆく (長野県飯田市追手町)

【歴史】飯田城は天竜川の支流である松川と谷川に挟まれた、細長い三角形の河岸段丘上に築かれています。室町時代、信濃守護小笠原氏の子孫である坂西氏が築きました。戦国時代になると飯田城は伊那郡を押さえた甲斐の武田氏の下伊那での中継基地の役割を果たしています。弘治2年(1556)には秋山虎繁が伊那谷の重要拠点である飯田城代に任命されています。1582年の武田氏滅亡後は一時徳川氏の領地となりましたが、毛利秀頼・京極高知を経て、関ヶ原合戦後は小笠原・脇坂・堀氏と交替し明治維新まで存続しました。
『週刊名城をゆく29 2006年 より本文抜粋』


座光寺南本城へゆく (長野県飯田市座光寺)

【歴史】南本城は、尾根全体に城郭遺構が往時の姿を多く残す県内有数の貴重な城跡です。北本城は居住的要素が強いのに対して、この南本城は防御専一に築城されたとみられています。戦国時代末期の天正10年(1582)に織田信長の品の進行に備えたもの、その後徳川家康の下で豊臣政権に対抗して構築されたもの等諸説ありますが、これを裏付ける史料がありません。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今月は2度目の信濃国への訪城です。この日は東濃の近くにありながらもこれまで未訪城だった座光寺南本城へと車を走らせます。よく晴れた岐阜県側から中央高速で恵那山トンネルを抜け長野県へと入ったのも束の間、側道や家々の屋根には昨夜のうちに積もった雪が・・・。国境を越えた先での全く違った景色に戸惑いながら、とりあえず街中にある飯田城址で雪の状態を確かめた後に、南本城へと向かいました。南本城はさすが武田の勢力圏だけあり、2週間前に訪れた南信の城と同じように、馬出や空堀などを十分に楽しむことができました。

飯田城の本丸跡(長姫神社)


座光寺南本城の本丸土塁

11月21日 陸奥(岩代・磐城国)への城址探訪
長沼城へゆく (福島県須賀川市長沼日高見山)

【歴史】文応元年、長沼氏がこの地に築城したのが起源というが、明らかではない。戦国時代、永禄3年(1560)頃、長沼をめぐる南奥の戦国大名伊達・二階堂・芦名氏の激突が続いた。永禄9年(1566)芦名領となり、芦名盛氏の家臣新国貞通の守城となった。以後、長沼城は芦名氏の会津防衛及び仙道攻略の拠点となった。天正17年(1589)芦名氏滅亡後、新国氏も伊達氏に屈服。翌18年奥羽仕置のため、白河口より入った豊臣秀吉が、8月7日長沼城に宿営している。この時、蒲生氏郷の家臣、蒲生郷安や蒲生主計が長沼城主となった。慶長3年(1598)上杉領となり、信州長沼城より島津忠直が移城し、同5年の関ケ原の戦いには、長沼城が上杉軍の前線基地となっている。
『現地案内看板より本文抜粋』


小峰城へゆく (福島県白河市郭内)

【歴史】小峰城は結城親朝が14世紀頃、小峰ヶ岡に城を構えたのが始めと言われています。江戸幕府成立後、白河地域が会津領であった頃に整備された城下町を、寛永4年(1627)に初代白河藩主となった丹羽長重が、大改修を行い、現代につながる白河の町の基礎が出来上がりました。その後、榊原・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部の6家19代が居城としましたが、慶応2年(1866)阿部家が棚倉へ移されると小峰城は空き城となり、白河は幕領、新政府領と変遷します。
『小峰城跡パンフレットより本文抜粋』


棚倉城へゆく (福島県東白川郡棚倉町棚倉)

【歴史】二代将軍徳川秀忠は、丹羽長重に命じて、棚倉に平城を築かせた。長重は案を練り、この地にあった近津神社の神境を最適地とし、宮を現在の馬場都々古和気神社に移し、寛永2年(1625)、この地に築城を始めた。寛永4年(1627)、長重は白河に移されたが、代わって滋賀県近江山城より内藤信照が城主となった。阿部正静の代になり、戊辰戦争の兵火にかかり、慶応4年(1868)6月24日落城した。
『現地案内看板より本文抜粋』


赤館へゆく (福島県東白川郡棚倉町棚倉風呂ヶ沢)

【歴史】鎌倉初期この赤楯(館)は伊達氏が得た飛び地であったが、南北朝以後白川結城氏の直轄領地となった。永正10年(1510)戦国大名の佐竹氏は白川結城氏の依上保を支配し、やがて東館・羽黒館・流館等と赤館以南の九南郷館を支配した。元亀2年(1571)白川義親は南郷の領土奪回に出て、これを好機と小田原らの北条氏が佐竹氏の下妻城を攻めたので、佐竹は赤館を放棄する和睦を結んだ。天正18年(1590)秀吉の奥州仕置で白川結城氏は消滅し、棚倉は佐竹領地と公認された。徳川の天下となると佐竹は秋田に追われ棚倉は天領となった。慶長14年(1609)立花宗茂が、元和8年(1622)丹羽長重が赤館城主となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


白河関へゆく (福島県白河市旗宿関ノ森)

【歴史】白河関は、古くからみちのくの関門として歴史にその名を刻み、文学の世界においても歌枕と数多くの古歌に詠まれた場所である。関の位置については、江戸時代後期頃まで不明となっていたが、白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定された。関が置かれた年代においては不明であるが、延暦18年(799)、承和2年(835)の太政官符には「白河せき」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後の7・8世紀頃には存在していたものと考えられる。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】この日のメインは白河小峰城。小峰城は東日本大震災の時に石垣の崩落があり、現在でも石垣の積み直し工事が続いています。まだ立入禁止区域が多い中、城の外周を内堀に沿って歩いてみると、紅葉に映えた長大な石垣が塁をなしている光景が見られ、さすがは築城名人と言われる丹羽長重が大改修した城だと感心してしまいました。なお内堀では何人もの釣り人の姿があり、阿武隈川がすぐ近くに流れているとはいえ、内堀で何が釣れるんだろうと不思議に思いながらも、一方で城のお堀で釣りが許されているのは何とものどかな光景だと思って眺めてしまいました。

長沼城本丸跡の土塁

白河小峰城の復元三重櫓

棚倉城の本丸跡と水堀

赤館の土塁跡

白河関跡の空堀跡

11月20日 陸奥(岩代・磐城国)への城址探訪
二本松城へゆく (福島県二本松市郭内)

【歴史】二本松城は、室町時代中期に奥州管領を命じられた畠山満泰が築造し、以後畠山氏歴代の居城として140年余り続きました。その後、天正14年(1586)伊達政宗の執拗な攻撃に遭い、落城しました。豊臣時代になると、二本松城は会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。二本松城に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めたのはこのころだと推定されます。その後、徳川時代初期も会津領として、蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。二本松藩が誕生した寛永20年(1643)、初代藩主丹羽光重が10万700石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として220有余年続きました。戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応4年(1868)7月29日に落城しました。
『二本松城跡パンフレットより本文抜粋』


三春城へゆく (福島県田村郡三春町大町)

【歴史】永正元年(1504)田村義顕が築城したと伝えらえていますが、南北朝時代には城館として機能していたようです。天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置きにより田村氏は改易されました。三春は一旦伊達領になりますが、翌年には会津に入った蒲生氏郷の領地に組み入れられ、若松城の支城のひとつになります。上杉景勝が会津城主だった慶長3年から6年(1598〜1601)前後は、三春城ではなく郡山市田村町の守山城が使用されました。そして寛永4年(1627)に蒲生忠郷が没すると、替って会津に入った加藤嘉明の三男明利、翌年には嘉明の娘の子である松下長綱が3万石の三春藩主となります。寛永21年(1644)に松下氏が改易されると、翌正保2年(1645)、秋田俊季が5万5千石で三春藩主となり、明治維新まで秋田氏11代の居城となりました。
『三春城跡パンフレットより本文抜粋』


守山城へゆく (福島県郡山市田村町守山三ノ丸)

【歴史】田村地域が田村氏の領地から、天正19年(1591)に蒲生氏郷の領地に変わると、守山城は、会津若松城の支城となり、蒲生氏郷の家臣田丸具直が支城主となりました。また慶長3年(1598)に上杉景勝の領地に変わると、家臣の須田長義、本庄繁長、竹俣利綱が支城主となり、慶長5年(1600)に蒲生秀行の領地に変わると、家臣の蒲生郷成が支城主となりました。その後元和元年(1615)の一国一城令により、守山城は破城されたと考えられます。
『現地案内看板より本文抜粋』


須賀川城・愛宕山・保土原館へゆく(福島県須賀川市諏訪町、愛宕山、池上町)

【歴史】須賀川は、古くから交通や地方政治の拠点として栄えてきました。中世になると、岩瀬郡を領した鎌倉幕府の重臣二階堂氏が、城郭や家臣の邸宅・社寺を配置し、民家の移動を行って現在の市街地の形につながる城下町をつくりました。天正17年(1589)、須賀川城は伊達政宗によって攻め落とされ、二階堂氏による岩瀬地方の支配は終わります。落城後、須賀川城の堀は埋め立てられ道路となり、江戸時代の奥州街道となりました。愛宕山は鎌倉時代後期ころの須賀川城で二階堂行続が築いたといわれ、土塁が残っている。二階堂氏が天正17年に滅亡の後、会津領主上杉景勝の所領となり、その代官栗田刑部がこの要害の地を館としたという。なお須賀川市立博物館のある翠ヶ丘公園は中世に須賀川地方をおさめた二階堂氏の館跡です。
『須賀川市立博物館パンフレット、現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】3年ぶりの福島への訪城。前回は新潟県の村上城や新発田城とセットで会津地方の一部を訪れただけでしたが、今回は二本松〜白河といった中通りにある主要な城めぐりを計画してみました。中通りの城めぐりを選んだ理由には100名城である二本松城と白河小峰城があるのもひとつですが、一番大きな理由は、田丸直昌の足跡を辿りたかったという思いからでした。田丸直昌というと、関ケ原合戦当時に我が東濃地方の一大拠点である岩村城主であった人物ですが、在城期間が短かったため、地元でもあまり知られていません。それでも関ケ原合戦では東濃地方の西軍最大勢力であり、直昌自体は大坂城に詰めていたらしいですが、田丸家は東濃の地で在地の妻木氏や旧領復帰を目指す遠山氏などと戦っています。元は伊勢の北畠一族であり、織田家の下で北畠誅殺にも関わったのですが、蒲生氏郷の妹婿であったことから、その後は蒲生氏郷の与力として会津転封に従い、福島県中通り地方を治めています。今回、直昌が城代を務めた須賀川城や三春城、守山城を訪れる中、城址の規模やその立地などを眺めていると、蒲生家の中で重要な役回りを任されていた直昌の一面を垣間見られたような気がしました。また三春町の資料館で買い求めた「蒲生氏の時代」という冊子でも、田丸直昌(具直)についての記述を多く見ることができ、田丸直昌の足跡を辿る旅としては大満足の1日となりました。

二本松城天守台

三春城本丸跡遠景

守山城の空堀と石垣

須賀川城址(二階堂神社)

愛宕山城跡の土塁

保土原館跡

11月13日 信濃国への城址探訪
高遠城へゆく (長野県伊那市高遠町)

【歴史】高遠城は三峰川と藤沢川の合流地点にあり、諏訪から伊那に入る交通の要衝に位置しています。南北朝時代には高遠氏が支配していましたが、天文年間に武田信玄の旗下に属しました。天文16年(1547)には家臣の秋山信友と山本勘助らに高遠築城を命じました。織田家の武田掃討戦において高遠城は信玄の五男である仁科盛信が籠もり最後まで抵抗しましたが、織田信忠率いる軍勢に攻撃され天正10年(1582)落城しました。その後、保科氏、毛利氏、京極氏、保科氏、鳥居氏を経て、内藤氏の時に明治維新を迎えました。
『学研 図説・日本名城集 2001年発行 より本文抜粋』


春日城へゆく (長野県伊那市西町)

【歴史】天文の昔、兵士の遺孫粟田口民部重吉の16代の末裔がこの地に来て城を築く。この城を春日城と言う。後の城主春日河内守昌吉は、高遠城主仁科盛信の麾下の将となる。天正10年(1582)織田信忠の大軍の来攻に遇い、城は悉く兵火に罹り炎上した。昌吉は部下を引きつれ高遠城に参じ、虎口の門を死守し、盛信と運命を共にした。
『現地案内看板より本文抜粋』


殿島城へゆく (長野県伊那市東春近)

【歴史】殿島城は古くは本城と呼ばれ、稀に見る大きな平山城であった。土居は高く濠は深く、城下一帯は沼地で、北方には御射山を隔てて物見城があった。天文年間(1532〜1555)の初めに、殿島大和守重国が1500石を拝領してここに築城し、この地方を納めた。弘治2年(1556)武田信玄が伊那に侵入し、廻状によって降伏を迫った。大和守をはじめとする伊那の諸士は防備を堅くし毅然としてこれに対抗したが力及ばず、狐島にて磔にされた。その後16世紀後半まで、高遠城の市場であったという説もある。
『現地案内看板より本文抜粋』


大島城へゆく (長野県下伊那郡松川町元大島)

【歴史】平安時代末、南信濃源氏片桐氏の一族が大島郷に分知されたことに起こった大島氏がこの一帯を領有・統治し大島城・北の城・沼の城などを築いたことに始まります。南信濃攻略をうかがっていた甲斐の武田氏は天文23年(1554)に伊那郡に侵入し、ここを手中にした武田信玄は秋山信友を飯田城に置き伊那谷を統治しました。元亀2年(1571)上洛に動き出した武田信玄は伊那郡の大島城を東海地方攻略並びに上洛の拠点とするため郡代の秋山信友に命じて大修築をおこないました。現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による馬出や三日月堀、3つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような空堀が当時のままに残されています。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】晩秋の季節、久しぶりに伊那地域の城址をいくつか廻ったみた。毎回、車での移動で気になるのは車を駐車する場所。しかしこの日廻った城址は、全て城址公園として整備されており、駐車場は完備されている。そのためこの日は、正午近くに高遠についたのにも拘らず、日暮れ前には4城を難なく見学することができました。学校や神社になっている城址がある中で、城址公園として整備されているのは有り難いことだと思いました。

高遠城の空堀内の紅葉

春日城の堀切内と紅葉

殿島城の土塁跡と紅葉

大島城の丸馬出と三日月堀

11月6日 尾張国への城址探訪
小牧山城へゆく (愛知県小牧市)

【歴史】織田信長は永禄6年(1563)、美濃攻略のため清州城から小牧山へ移り、山全体を城域とし、多数の曲輪を設けました。要所には重臣の館を置き、南方に大手道を開き、南西中腹には馬場を設けたといわれます。また小牧山南麓から西麓に城下町を形成しました。しかし永禄10年(1567)に美濃の斎藤龍興を攻略して岐阜城へ移り、小牧山城は廃城となりました。天正12年(1584)、豊臣秀吉と信長の二男信雄・徳川家康連合軍とが小牧山で対陣し、小牧市北部に陣を敷いた秀吉に対して、家康軍は小牧山城を主陣地とし、小牧山東方にも砦を築いて対抗し持久戦となりました。現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつ、新たに土塁や堀を築くなどして改修された家康軍の陣城の跡です。
『現地案内看板より本文抜粋』


岩倉城へゆく (愛知県岩倉市西本町城跡)

【歴史】岩倉城は文明11年(1479)頃織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。敏広はこの城に拠って、尾張上四郡を支配し、下四郡を支配する清州城の織田大和守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では清州城と並んで、もっとも重要な城であった。岩倉城は弘治3年(1557)織田伊勢守信安が末森城主織田信行と同盟を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(1558)の浮野合戦で敗れ、翌2年3月遂に落城した。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】三英傑に関連した史跡である小牧山城では、毎年のように発掘調査が行われています。これまでの発掘調査により、小牧山城が従来考えられてきた土の城ではなく、実は石垣で固められた城だったということがわかり、全国的にも注目を集めたことは記憶に新しいところです。この日も山麓の方では、土塁と空堀の復元整備が進められているようでした。さらに自治体の説明によると、平成30年度には公園内に史跡センターがオープンするとのことです。平成32年には東京オリンピックが開催されますが、それよりも前に、東海圏に住む城ファンとしては、平成31年の名古屋城本丸御殿完成も含め、待ち遠しいイベントが盛りだくさんです。

小牧山城 復元中の土塁と空堀


岩倉城址

10月15日 甲斐国への城址探訪
甲府城へゆく (山梨県甲府市丸の内)

【歴史】甲府城は慶長5年(1600)頃に浅野氏により完成したと考えられます。関ヶ原の戦い後は徳川義直、忠長、綱豊ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永2年(1705)には、徳川家以外の大名として武川衆出身の柳沢吉保・吉里親子が領主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。柳沢氏の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。
『現地案内看板より本文抜粋』


躑躅ヶ崎館へゆく (山梨県甲府市古府中町)

【歴史】武田氏館は躑躅ヶ崎館とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16年(1519)に石和からこの地に館を移したことから始まります。その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年にわたり、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】甲府城のあたりがおしゃれな感じに整備されていると甲府に行った同僚から教えてもらい、11年ぶりに甲府城に訪れてみようと思った。11年前というと復元されたばかりの稲荷櫓の真新しさと県庁前の渋滞が妙に記憶に残っていたが、今回訪れてみると、前回の時にはなかった山手御門や本丸鉄門が復元されており、益々城らしくなってきたという印象を抱きます。さらに甲府城址と線路を挟んだ並びには、同僚が言っていたおしゃれな感じのお店が並ぶ「甲州夢小路」なるエリアができており、駅前の道は渋滞していても、11年前に訪れた時よりも何だか明るい印象を受けました。ただこの後に訪れた武田神社界隈はあまり11年前と変わっておらず、武田氏の本拠地として、これはこれでほっとした気持ちになりました。

復元された甲府城の鉄門


躑躅ヶ崎館跡 西曲輪の虎口土塁

10月8日 美濃国への城址探訪
大森城へゆく (岐阜県可児市大森)

【歴史】大森城は中世の山城で、高さ約35mの丘陵上にあり、戦国期後半の城郭構造をよく示しています。天正十年(1582)六月に金山城主であった森長可の攻撃により落城するまで、奥村又八郎の居城でした。その後、大森城は森氏が改修して利用したとの説もあります。
『現地案内看板より本文抜粋』


今城へゆく (岐阜県可児市今)

【歴史】今城は、天文年間(1532〜1555)に、小池家継が築城したといわれている。比較的規模の小さい山城であり、土塁に囲まれた曲輪がほとんど破壊されずに残っている。永禄8年(1565)に中濃を平定した織田信長は、森可成を金山城主とし東美濃の旗頭とした。小池氏は可児市南西部を支配していた地方豪族であったが、この時期に信長に帰順し、森氏の家臣になったとされる。天正10年(1582)に信長が本能寺の変において討たれると、それまで森氏に従っていた東濃の武将たちはこぞって反旗を翻し、小池氏も同様に反抗したが、森長可に鎮圧され、長可の命により今城を立ち退き、帰農したといわれている。
『現地案内看板より本文抜粋』


久々利城へゆく (岐阜県可児市久々利)

【歴史】守護土岐氏の一族である土岐久々利氏は、南北朝時代から戦国時代にかけて周辺地域を支配しました。『金山記全集大成』によれば、初代康貞から代々土岐三河守・悪五郎を襲名したといいます。土岐悪五郎は、天文17年(1548)に烏峰城(のちの美濃金山城)主の斎藤妙春を討って中・東濃地域を支配します。しかし天正11年(1583)に美濃金山城主の森長可(森蘭丸の兄)に討たれ、久々利城は落城しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】10月8日、9日と可児市では「山城に行こうin可児」が開催されました。平成25年に美濃金山城が国史跡になって以来、可児市ではこれまで様々な山城イベントが企画されましたが、今回の「山城に行こう」は4つのミッションと3つのサブミッションなどこれまで以上に盛りだくさんの内容です。@偵察・A宴・B城攻め・C評定と題された4つのミッションうち、自分は@偵察とC評定に参加しましたが、訪れたどこの城址でもきちんとした整備が施されており、行く先々では唯々感動するばかり。翌9日の午後に開催されたC評定では、春風亭翔太師匠をはじめ城ファンにはお馴染みの面々が楽しいトークや説明で盛り上げてくださる一方で、日頃これらの城址を整備してくださっている方々の紹介と、その労に報いる表彰の場面があり、会場からも盛大な拍手が起こっていました。整備してくださる保存会の方々も素晴らしいですが、バックアップする企業、それらの力を引き出す自治体も素晴らしいと思いました。このように自治体と地域や企業が一体となって様々な山城イベントを実現させている可児市はとても素晴らしい街だと改めて感じました。

大森城の切岸と空堀跡

今城の桝形虎口跡

久々利城の主郭跡

山城に行こう 評定会場

9月17日 尾張国への城址探訪
名古屋城へゆく (愛知県名古屋市中区本丸)

【歴史】名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は、江戸幕府を開いた徳川家康の大九男です。慶長14年(1609)、家康自ら築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され、17年に大小の天守や各櫓が完成しました。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名20名で、城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っています。慶長20年(1615)に本丸御殿、元和3年(1617)には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】これまで名古屋城には何度も訪れているが、考えてみると三の丸の遺構や本丸の水堀沿いをじっくりと歩いて眺めたことがなかった。車で近くを通ることはあっても実際に歩いて観察したことはなかった。この日は地下鉄丸の内駅をスタートし、三の丸旧御園御門跡→三の丸旧本町御門跡→二の丸表二之門→西の丸正門→三の丸旧巾下御門跡→辰之口水道大樋跡→水堀沿い→二の丸東門跡というように、三の丸の一部と本丸の外周をまずは一回り。外郭沿いを歩いた後は城内に入場し、今度は内側から遺構を確認することで、名古屋城の全体像を再認識した。最後は三の丸旧東御門跡と外堀を観察し、名鉄東大手駅から岐路につきました。今回、三の丸の外堀から歩いて周囲を見て回ったことで、名古屋城がこれまで思っていた以上に守りを重視していた城という事が実感でき、改めて名古屋城を見直すきっかけとなりました。ただ三の丸の遺構を示す案内がどこにもなかったので、何か簡単な標示板でもあると良いのですが・・・。

水堀越しに眺めた清州櫓

三の丸外堀跡

8月5日 出羽国への城址探訪
米沢城へゆく (山形県米沢市丸の内)

【歴史】伊達氏・上杉氏の居城で、松岬城・舞鶴城とも呼ばれる。鎌倉時代に地頭・長井時広が居館を置いたと伝えられる。その後、長井氏に替わり伊達氏が置賜地方を領し、天文17年(1548)には伊達晴宗が本拠を米沢に移し、輝宗・政宗の三代で米沢城下が整備された。天正19年(1591)、政宗は豊臣秀吉の命で岩出山城に入り、米沢城には蒲生氏郷の家臣・蒲生郷安が入るが、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津120万石に入封、米沢城には重臣・直江兼続が配された。慶長6年(1601)、前年の関ケ原の戦いで西軍方についた上杉景勝が米沢30万石に減封され米沢城に入城、城下の拡張整備に着手した。寛文4年(1664)に後継問題で米沢藩は15万石となるが、米沢城は約270年間にわたり上杉氏13代の居城として明治維新を迎えた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今回せっかく山形まで来たので、事前に1日休みを取得して米沢城を訪れることにしていた。この日は人が少ない時間帯を見計らって米沢城跡へと移動した。人が少ない時間に動きたかったのには理由がある。ポケモンGOの影響だ。一昨日訪れた山形城でも午後5時の時点でポケモンGOをしている大集団がいた。ポケモンGOと訪城との間にどういう関係があるのかというと、写真撮影への影響だ。いつもよりも撮影画面に人が写り込む確率が高くなってしまうのだ。この問題を解消するには人が少ない時間帯に動くに限る。ただ米沢城跡は上杉神社境内ということもあってか、その心配は取り越し苦労でしたが、昨今の思わぬブームに少々困惑しています。

本丸跡と水堀

8月3〜4日 出羽国への城址探訪
山形城へゆく (山形県山形市霞城町)

【歴史】延文元年(1356)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼が築城したと伝えられ、現在の城郭は11代城主最上義光が築いたものが原型とされています。本丸、二の丸、三の丸の3重の堀と土塁を持つ輪郭式の全国有数規模の平城で、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れたことから「霞ケ城」とも呼ばれていました。
『霞城公園パンフレットより本文抜粋』


【訪城記】珍しいことに、今回の山形へは旅行ではなく、仕事に関連した研修会に参加という形で訪れている。目的は違えども、今の時期は有り難いことに日が長いため、仕事が終わってからでも十分に訪城をする時間があるのだ。そして当然のように山形城へと足が向く。山形城へ来るのは実に7年ぶりだ。前回来たときは一文字門も石垣と橋だけが復原されている状態だったが、今回は土塀と高麗門が出来上がっていた。案内ではこの先も本丸内の復原整備を続けていくらしい。将来的には空堀が水堀になるそうだ。
山形城は輪郭式の平城であるため、本丸の外側を二の丸が取り巻き、さらに二の丸の外側を三の丸が取り巻いている。現在、霞城公園として整備されているのは本丸と二の丸部分であるが、二の丸東大手門にいる係員さんと話をしていたら、どうやら三の丸の遺構もまだ市内に残っているらしいとのこと。早速観光地図で確認してみると、なんと研修会場のすぐ近くに三の丸土塁跡という表記があるではないか。次の日の研修が終わった後、まっすぐ三の丸土塁跡を目指すと、3分程で目指す遺構へと到着した。「こんな街の中にまだ残っているなんて」と思いもよらなかった遺構との出会いに、研修の疲れも一気に吹き飛んでしまいました。

本丸一文字門跡(復原)


三の丸土塁跡

5月5日 美濃国への城址探訪
久々利城へゆく (岐阜県可児市久々利)

【歴史】守護土岐氏の一族である土岐久々利氏は、南北朝時代から戦国時代にかけて周辺地域を支配しました。『金山記全集大成』によれば、初代康貞から代々土岐三河守・悪五郎を襲名したといいます。土岐悪五郎は、天文17年(1548)に烏峰城(のちの美濃金山城)主の斎藤妙春を討って中・東濃地域を支配します。しかし天正11年(1583)に美濃金山城主の森長可(森蘭丸の兄)に討たれ、久々利城は落城しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


和知城へゆく (岐阜県加茂郡八百津町野上)

【歴史】天正18年(1590)、安八郡西保城の城主であった稲葉方通が、この地に築城、和知城(通称稲葉城)と称した。その後方通は、関ケ原合戦に東軍に所属して功を立て、和知、野上、上牧野、細目、久田見の采地4,431石を賜った。和知城跡は、半島型に木曽川に突出し、東南は木曽川の断崖と深い渓流で、天然の要塞を形成している。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】近くに居ながらも約10年ぶりに訪れた久々利城。前回訪れた時も整備はされていたのですが、今回訪れてみるとさらにその整備度はレベルアップしていました。可児市は以前から市内の城跡に案内板などを設置している素晴らしい自治体なのですが、今回訪れた久々利城では、リーフレットの配備やわかりやすい説明看板の設置、そして以前は藪がひどくて足を踏み入れるが躊躇らわれた北側の遺構までが容易に観察できるようになるなど、さらに素晴らしい城址となっていました。すぐ近くにこんな素晴らしい城址があることに嬉しくなったと同時に、地元の方の熱心な整備ぶりに感謝した1日となりました。

久々利城址の二重堀切のひとつ


和知城址の空堀

4月30日 美濃国への城址探訪
菩提山城へゆく (岐阜県不破郡垂井町岩手)

【歴史】伊吹山系の東端に位置する標高402mの菩提山頂に築かれた東西約150m、南北約300mの西美濃最大級の山城である。永禄元年(1558)竹中重元は、岩手氏を攻略して岩手付近一帯や福田、長松をあわせた六千貫の領主となり、翌年ここに城を築いた。重元の子、竹中半兵衛重治この城に住んでいたが、永禄7年(1565)稲葉山城を攻略し、その後織田信長、豊臣秀吉に仕え、天正7年(1579)に播磨三木城攻めの陣中で病没した。重治の子重門は菩提山城を下り、岩手に陣屋を構えた。
『現地案内看板より本文抜粋』


松尾山城へゆく (岐阜県不破郡関ケ原町山中松尾山)

【歴史】応永年間(1394〜1428)小守護富島氏が城を築いたのが史料の初見である。元亀元年(1570)浅井長政が修築したが、天正元年(1573)織田信長の浅井氏討伐後不破光治を警備に当たらせた。天正7年(1579)廃城となった。慶長5年(1600)関ケ原合戦時に小早川秀秋が陣所とした。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】西美濃最大級の山城として名高い菩提山城と松尾山城ですが、菩提山城はハイキングコースとして、松尾山城は歴史散策コースとして登城道が整備されており、比較的訪れやすい山城となっています。またどちらも主郭からの眺望が開けているため、これを目当てに訪れる人も多いようです。この日は菩提山城、松尾山城でも何人かの人々と出会いましたが、縄張図を片手に城址の隅々を探索しているのはどうやら自分のみで、他の人は明らかにハイキングと眺望を楽しんでいる感じ。「どうしてあの人は地図を見ながらあんな所を歩いているのだろう」とおそらく思われながらも、誰にも邪魔されずゆっくりと探索を楽しめた1日となりました。

菩提山城址 出曲輪と大堀切


松尾山城址 主郭桝形虎口跡

4月24日 信濃国への城址探訪
福島城へゆく (長野県木曽郡木曽町福島)

【歴史】この城は、天文年間木曽氏18代の領主義康によって福島城(上の段城)の詰の城として築かれたものといわれ、向城(向かい側の城)とよばれていたことが現在の地名によってうかがわれる。本丸跡、本丸南東の低丘が二の丸、その間を画するくぼみは空堀の跡である。つづく平坦の場所が三の丸でこれも空堀によって区画されていることがはっきりわかる。要害堅固な戦国末期の典型的な山城形式をうかがうことができる史跡として貴重である。
『現地案内看板より本文抜粋』


妻籠城へゆく (長野県木曽郡南木曽町吾妻)

【歴史】妻籠城はいつ誰によって築かれたか明らかでない。伝承では木曽家村が室町時代に築いたと言われているが戦国時代に木曽氏の南の押さえとして、木曽義昌によって整備されたものと思われる。妻籠城は天正12年(1584)の小牧長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村良勝が家康配下の菅沼、諏訪、保科の率いる伊那、諏訪の軍勢を退けている。また慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの時も、妻籠城に軍勢が入っている。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】近年、木曽路を訪れる欧米系の外国人が増えているらしい。彼らの目的は日本の宿場町の風景や自然を見る事だそうだ。この日、妻籠城址の主郭にある説明版で城の縄張を確認していると、突然、登城道から一組の欧米系の方がやってきた。どうやら観光客のようで、いきなり英語で写真を撮ってほしいとお願いしてくるではないか。それを理解した仲間が、それぞれ山ツツジと山並みを背景に記念撮影をしてあげたら、相手はとても満足そうな感じ。城址は宿場町を眼下に見下ろすことができるビュースポットではあるが、こんなところにまで何を求めて徒歩で登ってくるのかと正直驚いた。そして帰りに車で下り坂を下りる途中にも、妻籠城址の方角を目指して峠を登ってくるこれまた欧米系の外国人とすれ違う。彼らもまた城址に行くのだろうか。そして城址に何を求めるのだろうか。今回は思わぬ場所で外国の方々と出会った訪城となりました。

福島城址 三の丸虎口と堀切


妻籠城址 主郭跡

4月2日 近江国への城址探訪
彦根城へゆく (滋賀県彦根市)

【歴史】関ヶ原合戦後、石田三成旧領十八万石を得た井伊直政は、佐和山城を廃し新城彦根城の建設に取りかかった。工事は十二大名に役夫を割り当てる天下普請で実施され、直政亡き後、築城工事は二代直継に引き継がれた。徹底的に近江国内にあった旧城郭の部材を再利用したと伝えられ、天守は大津城天守閣、天秤櫓は長浜城、太鼓門は佐和山城、西の丸三重櫓は小谷城から運ばれたという。国宝に指定されている天守は、三重三階で、付櫓から階段を利用して一階に入る構造となっている。外観意匠は、極めて華美で切妻破風、入母屋破風、唐破風を多用し、最上階に回縁高欄が廻り、二層・三層目に華頭窓、一層目のみ下見板張りという、変化に富んだ姿を今に伝えている。
『新人物往来社発行 別冊歴史読本93 新・日本名城図鑑 より本文抜粋』


【訪城記】城と桜、この組み合わせを楽しむのは何年ぶりだろうか。花粉症のため毎年春先の外出を控えてきたが、年度末の多忙感からふと城に行きたくなり、今回初めて春の彦根城に行ってみた。彦根城桜祭りを開催している城内は普段よりも来場者が多く、天守閣を見学するのにも1時間かかるという混雑状態。そんな状態であっても、ほぼ満開の桜が見せるピンク色と漆喰壁との見事なコントラストにとても癒された1日となりました。

彦根城天守閣と桜

1月16日 美濃国への城址探訪
小里城へゆく (岐阜県松瑞浪市稲津町小里)

【歴史】瑞浪稲津町内には、中世から近世初頭にかけて統治を治めた領主小里氏の居城とされる城跡が三カ所あり、小里古城跡、小里新城跡、小里城山城跡と呼ばれています。山城の築城時期については明らかでありませんが小里光忠が統治を所領した天文元年(1532)頃と言われ、織田信長と武田氏との攻防の最中であった天正2年(1574)にも工事(普請)が行われています。その後、元和9年(1623)に幕府の命により小里氏が断絶となったため廃城となりました
『現地案内看板から本文抜粋』


【訪城記】新年に入ってから良い天気が続いていたのも一転、明日から天気が崩れるということで、急遽、小里城に登ることを思いついた。小里城は平坦な尾根道の部分が少なく思いのほか斜面が続くため、登城道が整備されているといっても、ここ7年程訪れていなかった。しかし久しぶりに訪れてみると、この7年の内にかなり整備の手が加えられており、腰曲輪や東砦跡など以前訪れた時には足を踏み入れることができなかった場所も見られるようになっているばかりか、案内表示や無料パンフレットまで完備されている変わり様に、只々感激するばかりの訪城となりました。それにしても最近の東濃城址の整備度には目を見張るものがあります。その裏には地元の方の精力的な整備があってこそです。本当に感謝です

小里城の伝天守台

1月10日 信濃国への城址探訪
林大城へゆく (長野県松本市里入辺・山入辺)

【歴史】南北朝争乱時の功績により信濃守護となって府中(当時の松本の呼称)に入った小笠原氏は、戦国時代に武田晴信が信濃に侵攻するまでの間、筑摩郡及び安曇・伊那地域を中心に勢力を張った。その間小笠原氏は、平地の城館である井川城と山城の林城を根拠地として、四周に順次山城群を配置して強固な防衛線を構えた。その後各々の城は武田氏により修築が行われたものと思われるが、竪堀の構造・配置など、小笠原氏の山城に特徴的な基本構造は、今日までよくその姿を留めており、これらの城砦群は、小笠原氏の攻防を語るうえで貴重な史跡である。小笠原長時が武田晴信に敗れて退去した天文19年(1550)まで約200年間、厳しい戦国の世に処した小笠原氏の本拠地で中世における連立式の築城遺構を持っている。
『現地案内看板から本文抜粋』


【訪城記】2016年最初の訪城は信濃守護小笠原氏の本拠である林城からのスタートです。今年の冬は近年まれにみる晴天続きと降雪降雨の少なさに、「この機を逃すのはもったいない!」と例年この季節には避けていた信州の山城を選びました。予想通り道中には積雪や凍結もなく、さらに城址内の整備も完璧で、守護クラスの城郭をたっぷりと満喫することができました。その後の林小城への登城は車の置き場所がなく断念しましたが、2016年も何とか順調なお城ライフのスタートが切れました。

林大城の主郭石積

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