城址探訪記(2018)

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12月23日 武蔵国への城址探訪
小机城へゆく (神奈川県横浜市港北区小机町)

【歴史】小机城は、鶴見川に突き出た丘陵上の要害で、15世紀半頃(室町時代)までには築城されていたと考えられます。背後の神奈川湊と鶴見川および鎌倉街道の交差する交通の要衝であり、横浜市北部一帯を含む支配拠点でした。文明10年(1478)には長尾景春の乱にともなう戦乱で、太田道灌によって攻め落とされています。戦国時代には、小田原北条氏の関東進出のなかで重要な軍事拠点となり、城も改築されたようです。北条氏の重臣笠原越前守信為が城代となった後、北条三郎・氏信・氏堯・氏光が城主となりました。豊臣秀吉による小田原攻めでは戦闘の記録はなく、徳川家康の関東入りの後に廃城となりました。
『小机城址ガイドマップより本文抜粋』


茅ヶ崎城へゆく (神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東)

【歴史】茅ヶ崎城址は、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、平安時代末期の摂津守頼盛の子、多田太郎が城主と伝え、多田山城守塁跡とも呼ばれていました。発掘調査の結果、築城年代は14世紀末〜15世紀前半頃と考えられ、少なくとも2度にわたる大規模な改築のあとが認められました。築城当初は、東西2つの郭のみでしたが、15世紀後半頃には、土塁の改築と空堀の堀り直しが行われ、郭が西郭、中郭、東郭、北郭の4つになったと考えられます。この時期に相模国と武蔵国を支配していたのは関東管領上杉氏であり、茅ヶ崎城の改築にも影響を与えていたと推定されています。16世紀中頃には、二重土塁の間に空堀をめぐらせるなど、後北条氏独特の築城方法による防備の強化がなされています。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】横浜のみなとみらいで開催されている「お城EXPO2018」に行く前に、横浜市内ある小机城と茅ヶ崎城に立ち寄ってみた。小机城は続100名城にも選出される名城であり、横浜市内にありながらも壮大な空堀と馬出状の遺構を手軽に見ることができるのが魅力の一つです。しかし今回初めて訪れてみて最も感動したのは、きれいに整備されている竹林の存在です。これまで訪れた城址では、竹の驚異的な成育力に整備が追い付かず、見学することが困難な場所がいくつかありました。ネットでは竹害という言葉も出てくるように、自分の中では竹林と城址の組み合わせは歓迎したくない組み合わせでしが、小机城はそんなことを微塵も感じさせないくらい整備の手が行き届き、むしろ竹林が城址の魅力を引き立てているようにも感じました。さすが続100名城。素晴らしい城址です。

小机城址の空堀跡



茅ヶ崎城址 中郭の土塁跡

11月23日 美濃国への城址探訪
今城へゆく (岐阜県可児市今)

【歴史】今城は、天文年間(1532〜1555)に、小池家継が築城したといわれている。比較的規模の小さい山城であり、土塁に囲まれた曲輪がほとんど破壊されずに残っている。永禄8年(1565)に中濃を平定した織田信長は、森可成を金山城主とし東美濃の旗頭とした。小池氏は可児市南西部を支配していた地方豪族であったが、この時期に信長に帰順し、森氏の家臣になったとされる。天正10年(1582)に信長が本能寺の変において討たれると、それまで森氏に従っていた東濃の武将たちはこぞって反旗を翻し、小池氏も同様に反抗したが、森長可に鎮圧され、長可の命により今城を立ち退き、帰農したといわれている。
『現地案内看板より本文抜粋』


大森城へゆく (岐阜県可児市大森)

【歴史】大森城は中世の山城で、高さ約35mの丘陵上にあり、戦国期後半の城郭構造をよく示しています。天正十年(1582)六月に金山城主であった森長可の攻撃により落城するまで、奥村又八郎の居城でした。その後、大森城は森氏が改修して利用したとの説もあります。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今年も可児市が主催する山城イベント『山城へ行こうin可児』が今日から3日間の日程で始まった。午後からのトークショーには時間が早かったため、この日は時間つぶしも兼ねて先に今城と大森城を訪れることにした。今城の入口で出会った地元の方から「今、昇太さんが来てみえるよ」と教えられ、城内に歩いていくと、ちょうど案内の方々と共に春風亭昇太師匠が本丸の方から降りてこられたところだった。間近で出会う昇太師匠に「こんにちは」と声を掛けその場はそのまますれ違い、しばらく城址を見学した後に大森城に向うと、今度は大森城の駐車場で昇太師匠が乗った車とすれ違った。「渋滞に巻き込まれてなければ、また昇太師匠と言葉を交わせたのに」と車のコース取りに悔しがりながら、午後のトークショーで昇太師匠の「今朝、今城に行ってきました」という話を聴いていました。

今城址の喰違い虎口跡



大森城址の主郭出桝形跡

11月17日 美濃国への城址探訪
苗木城と岩村城へゆく (岐阜県中津川市苗木・岐阜県恵那市岩村町)

【訪城記】今日は、久しぶりに苗木城と岩村城をダブルで訪れました。岩村城は日本100名城、苗木城は続日本100名城に選ばれ、今やお城ファンの中では全国区の知名度を誇る城址となっています。当然、このサイトでの両城の情報が占める割合も大きく、自分もサイトの更新のために毎年必ず訪れるように心掛けています。しかし通常は両城を一度に訪れることはなく、どちらか一方をゆっくり歩いて観察するといった具合に訪れるため、今日のように両城を一度に見ることは滅多にないことです。さて今年度の苗木城はもの凄いことになっています。これまでにも苗木城の整備の充実度についてはこのサイトでも何度も触れてきましたが、今日見た苗木城の姿は、何度も訪れているのに、まるで初めて訪れた城にいるような感覚になってしまうほど、巨岩が際立った要塞に変化していました。苗木城の整備の特徴は、「遺構を前面に見せる」整備だと思います。これまでの石垣の積み直しなどもそうですが、今回も苗木城の魅力である荒々しい巨岩と眺望を遮っていた樹木を徹底的に伐採することで、苗木城の魅力を一層際立たせる整備が施されていました。一方で次に訪れた岩村城。こちらも草刈や樹木の伐採などで、毎年入念な整備がなされています。苗木城と比べると岩村城の整備の難しさは、急峻な登城道もさることながら、城址の一部に私有地が混じっていることだと思います。そのため苗木城のような思い切った樹木の伐採などが難しいのかもしれません。しかし岩村城の整備の素晴らしさは「山城感を損なわない整備」をされているところだと思います。昨今の城ブーム・山城ブームを受けて、全国各地で城址が整備されていますが、舗装された見学路が作られるなど、たまに整備されすぎている感が漂う城址に出会うことがあります。その点、岩村城の整備は「日本三大山城」という名が示すように、山の中に眠っている遺構という雰囲気を損なうことのない丁度良い整備具合です。この日はさりげなく南曲輪がとても見やすくなっていました。岩村城と苗木城には今日も観光バスが来ていました。10年前には見られない光景です。これも熱心に整備してくださる地元の方の努力のおかげです。日々感謝です。

城山大橋から見る苗木城址


岩村城の南曲輪跡(中世遺構)

11月4日 上野国・信濃国への城址探訪
勝保沢城へゆく (群馬県渋川市赤城町勝保沢)

【歴史】勝保沢城主 斎藤加賀守安清は狩野筑前守安元と共に、武州勝沼より一旅を挙げて、この地域の保護整備に移住し北条氏の家臣となりて、各地の合戦に武功を立てた。天正18年(1590)に浪人となり、城地の方一町を寄進して曹洞宗宗玄寺を開いた。
『宗玄寺由来看板より本文抜粋』


岩櫃城へゆく (群馬県吾妻郡東吾妻町原町)

【歴史】岩櫃城は、その築城時期や築城者については定かではありませんが、文献によれば南北朝の時代に初めて岩櫃城主吾妻太郎行盛の名が登場します。戦国時代の上州は甲斐武田氏、越後上杉氏、小田原北条氏による支配権争いが繰り広げられ、永禄6年(1563)斎藤越前守憲広(基国)の本城であった岩櫃城は武田信玄の家臣である真田幸綱(幸隆)の手によって落城し、武田氏の西上野支配が確立しました。武田氏滅亡後この地は真田氏の支配となり、岩櫃城は信州上田城から上州沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な位置を占めることとなりました。徳川幕府開設後も吾妻地域は真田氏の支配となりましたが、徳川家康による「一国一城令」に伴い、慶長20年(1615)頃、真田信幸は城下町を現在の原町に移し岩櫃城を破却し、岩殿城、久能山城と並び武田の三堅城といわれた岩櫃城も戦国時代の終焉と共にその役割を終えました。
『現地案内看板より本文抜粋』


真田氏本城へゆく (長野県上田市真田町長)

【歴史】この城跡は、天白城と共に馬蹄形状に構築され、南西面に広がる緩斜面には、真田氏館跡や原の郷があり、さらに砥石城・矢沢城を望むことができる。本郭は東西8.6m、南北37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へ二の郭、三の郭と段差を設けながら延び出し、その北側は急崖となって厳重に防備している。規模が大きく水利もあり、周辺城跡群等の関係からみて、上田城築城以前の真田氏本城であったと推定される。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】この日の訪城は、一昨年前の大河ドラマ『真田丸』で脚光を浴びた岩櫃城がメインです。岩櫃城と言えば、荒々しい岩肌が印象的な岩櫃山の中腹に築かれた山城ですが、この印象的な岩肌の写真を撮りたいと思い、駐車場のある平沢登山口から山頂に向かってカメラを構えると、どうも構図が違うような・・・。まだ秋中盤のため樹木に隠れて岩肌が見えないだけかとその場は納得し、岩櫃城の見学を終えて車に乗り込んだ。時計を見るとまだ十分な時間があったため武田勝頼の避難所として建設された潜龍院跡に立ち寄ってから帰路につこうと、潜龍院跡に近い古谷登山口の駐車場にたどり着くと、なんとそこから見上げる岩櫃山が自分が見たかった光景でした。さらに潜龍院跡に行ってみると、そこからは荒々しい岩肌の岩櫃山と物悲し気な潜龍院跡の石垣を同時に写真に収めることができ、この日最高にテンションが上がった瞬間となりました。

勝保沢城址の空堀跡


岩櫃城址の堀切跡


真田氏本城址の土塁跡

11月3日 上野国への城址探訪
中山城へゆく (群馬県吾妻郡高山村中山)

【歴史】中山城は立地上は土囲式丘城、構造上は本郭が一側に偏し半円形をした半折囲郭式で、この地域では最も新しい構造で、長井坂城と共に小田原北条氏が築城したものです。この城は、北条・真田の覇権争いの中、両国の境界にある「境目の城」からか、本丸が舌の付け根に偏った構造となっています。この縄張りでの築城は天正10年(1582)、廃城は天正18年(1590)は下らないといわれています。
『現地案内看板より本文抜粋』


名胡桃城へゆく (群馬県利根郡みなかみ町下津)

【歴史】名胡桃城は、群雄割拠の戦国時代を勇猛に駆け抜けた真田昌幸が築いた上野国利根郡の山城で、10年ほどの歴史にもかかわらず、ここを舞台とした小さな事件が乱世を終わりに向かわせることとなりました。この時期の利根沼田地方は上杉氏・武田氏・北条氏による争いが繰り広げられていましたが、天正7年(1579)頃、真田昌幸が吾妻方面から進出し境目城として名胡桃城を築き、翌年には沼田城を手中に収めました。天正17年(1589)、豊臣秀吉は北条氏政・氏直親子と真田昌幸による北毛地域の領地争いを裁定しましたが、同年、真田領に残された名胡桃城を北条氏の家臣が攻略してしまいました。それをきっかけに翌年、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、事実上、天下統一を果たしたのです。その後、名胡桃城は廃城になりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


小川城へゆく (群馬県利根郡みなかみ町月夜野)

【歴史】室町時代、小川城の位置するこの地は、小川郷として名胡桃郷と共に村落が開け、関東と越後を押さえる戦略上の拠点として重要なところであった。小川城、名胡桃城、明徳寺城の三城が位置する三角形の地域は、清水谷、赤谷川谷と中山筋、沼田筋の要路が集まる戦略点にあり、最後の長尾景虎が関東に出陣してくるときも三国峠から上州に入り宮野、小川城を経て沼田に出陣し、武田信玄が沼田へ出陣した時も名胡桃、小川城がその重要な拠点となっていた。小川城の歴史は明応元年(1492)〜明暦3年(1657)までの165年間であった。
『現地案内看板より本文抜粋』


沼田城へゆく (群馬県沼田市西倉内町)

【歴史】沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰が約3ヶ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内城(倉内)と称した。築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領2万7千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元年(1681)に真田氏5代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領177ヶ村のうち46ヶ村・飛地領合わせ4万石の藩主として入封し、次いで、黒田氏2代、土岐氏12代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】昨年12月末に電車で群馬県に訪れた際、思わぬ大雪のため沼田市以北に近づけず、沼田城や名胡桃城への訪城を断念した。今回はその際のリベンジとばかりに、まだ雪の降らない季節を狙って、自宅から車で北毛地方を目指し、念願の沼田市、みなかみ町の城址探訪を果たすことができた。それにしてもこの地方の城址は、その地形や土地柄のせいか丘城(端崖城)が多い。丘城と言えば、我が東濃の東隣に位置する信州伊那地域もこの形状の城址が多い。そのため初めてみる形状ではないが、この日は多くの丘城を見ることができ、その縄張構造等をあらためて堪能することができた貴重な訪城となりました。

中山城址の空堀跡


名胡桃城址の二の郭跡


小川城址の空堀跡


沼田城址の西櫓台石垣

10月21日 駿河国への城址探訪
駿府城へゆく (静岡県静岡市葵区駿府城公園)

【歴史】徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主となりました。その後、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三度駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。
『現地案内看板より本文一部抜粋』


丸子城へゆく (静岡県静岡市駿河区丸子)

【歴史】丸子城は、駿府防衛の西側の関門として戦国期の駿府歴史の中で重要な役割を果たしてきました。創築年代は明らかではありませんが、今川氏による駿河の国の支配が始まる南北朝時代にまでさかのぼる可能性があります。1568年(永禄11年)の甲斐の武田軍の駿河侵攻に伴い、この地も武田氏の勢力下におかれ、甲斐の山県昌景等の武将が在城して今川方に備えていました。この武田氏が支配する時代に、丸子城は大規模な武田流の大改造が行われ、現在私たちが目にしている丸子城が形作られました。1582年(天正10年)には徳川家康は、持舟城での攻防を経て駿府を武田氏の支配から取り戻します。徳川家康は一時家臣の松平備後守を入場させましたが、1590年(天正18年)の家康の関東移封とともに丸子城は廃城になったと考えられます。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】「家康の駿府城から秀吉時代の天守台が発見された」というニュースに居ても立ってもいられず駿府城までやってきた。しかし天守台の遺構以上に驚いたのは、スマホを片手に公園内をひたすら彷徨っている群衆の姿。ただひたすらスマホの画面を見ながら、人々が黙々と公園内を歩いている光景は、何やら信仰めいた異様な雰囲気を醸し出していた。そうこの光景は3年前にポケモンGoが流行っていた時の山形城内の光景に似ていると思いながら、その時以上に溢れかえる人々を見て、「みんなスマホの画面じゃなくて今日は世紀の大発見を見ようよ」と心の中で叫んでいる自分がいました。

駿府城址 発掘された天正期天守台



丸子城址の桝形虎口跡

9月23日 美濃国への城址探訪
美濃金山城へゆく (岐阜県可児市兼山)

【歴史】天文6年に斎藤道三の猶子である斉藤大納言正義が山頂に築城、烏峰城と称し、それまで中井戸の庄の地名を金山村と改めました。永禄八年(1565)織田信長は東濃経路の拠点として森可成を金山城主として以来森可成・長可・忠政父子三代の居城として栄えました。信長の小姓として有名な森蘭丸は可成の三男であり、この金山城で出生したと云われています。しかしそんな森一族も浅井・朝倉軍との戦いでは可成と長男可隆が、本能寺の変では三男蘭丸・四男坊丸・五男力丸が、小牧長久手合戦では二男長可が戦死したため、最後は六男忠政が家督を継ぐこととなります。そして森氏の松代転封後、慶長6年に金山城は解体されたようです。
『現地案内看板より本文一部抜粋』


和知城へゆく (岐阜県加茂郡八百津町野上)

【歴史】天正18年(1590)、安八郡西保城の城主であった稲葉方通が、この地に築城、和知城(通称稲葉城)と称した。その後方通は、関ケ原合戦に東軍に所属して功を立て、和知、野上、上牧野、細目、久田見の采地4,431石を賜った。和知城跡は、半島型に木曽川に突出し、東南は木曽川の断崖と深い渓流で、天然の要塞を形成している。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今年はここまで研修のついでに千葉県の城に訪れた以外は、全て東海圏の城址見学にとどまっている。この日もやはり美濃金山城の米蔵跡を見学するために可児市を訪れ、そのついでに初めて戦国山城ミュージアムにも訪れてみた。戦国山城ミュージアムは旧兼山歴史民俗資料館をリニューアルした施設であり、旧資料館時代に数回訪れたことがあるが、リニューアルの結果、薄暗いイメージのあった資料館がとても明るい資料館へと変貌していた。展示物は昔より減った感があるのに、以前と比べとても見やすい展示となっているのは、資料館のコンセプトが山城に特化したためか。とにかく観光資源としての山城活用を見事なまでに実践している可児市は本当に素晴らしいと思います。

美濃金山城址 山麓の伝米蔵跡


和知城址の堀切跡

8月11日 美濃国、伊勢国への城址探訪
西高木家陣屋へゆく (岐阜県大垣市上石津町宮)

【歴史】西高木家陣屋跡は、旗本であった西高木家の陣屋跡で、石垣、長屋門等の建造物・石列・暗渠などの地下遺構が良好に残されている。高木家は美濃南部駒野・今尾周辺に勢力を張った土豪であった。関が原合戦の功により、石津郡時・多良郷に4300石を与えられ入部し、江戸時代を通じて同地を旗本として支配した。西家(2300石)、北家・東家(各1000石)の3家からなり、「交代寄合美濃衆」として大名と同等の格式を許され、知行地に常時居住しながら江戸屋敷を有し、参勤交代を行った。
『現地案内看板より本文抜粋』


田丸城へゆく (三重県度会郡玉城町田丸)

【歴史】田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、北畠親房が、愛洲氏や度会氏などの援助を得てこの玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としてことが始まりとされる。室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多気に館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575)、織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。天正8年(1580)には、この天守閣は炎上した。江戸時代には紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】田丸城は、関ヶ原合戦時に東濃の岩村城主であった田丸直昌と非常に関係が深い城です。13年前に初めて田丸城を訪れた時には、本丸付近の石垣と天守台を見ただけで満足し、他の遺構があることも知らず、退散してしまった記憶があります。今回は天守台を見学した後に二の丸の方へ足を向けてみると、いきなり本丸と二の丸を隔てる広大な空堀とその壁面を構成する石垣が目に飛び込んできた。さらに搦手側に降りてみると、その付近にも二の丸の側面を固める石垣群が広がっており、前回初めて訪れたとはいえ、こんなに立派な遺構を見逃していたのかと、あらためて続100名城に選ばれた理由とその素晴らしい遺構を堪能することができました。

西高木家陣屋跡の埋門跡


田丸城址の二の丸跡石垣

8月3日 下総国への城址探訪
亥鼻城(千葉城)へゆく (千葉県千葉市中央区猪鼻)

【歴史】千葉氏は、桓武天皇の曾孫高望王の子平良文を祖とした関東の名族で、良文の子孫である千葉介常重は、大治元年(1126)、土気の大椎より千葉に移住しました。この時、常重は千葉の猪鼻山に居館(千葉城)を構築し、城下町を建設しました。その後、千葉氏は13代330年間、この地を治めましたが、その本拠地となった千葉の町の文化の中心として栄え、関東では鎌倉につぐ繁栄を誇りました。後に城は一族の内紛により廃れました。
『現地案内看板より本文抜粋』


佐倉城へゆく (千葉県佐倉市城内町)

【歴史】佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532〜1552)に鹿島幹胤が築いたといわれる中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年(1611)から元和3年(1617)頃までの間に築城された平山城です。徳川家康により、江戸の東を守る要として重要視されました。歴代佐倉城主(佐倉藩主)のうち9人が老中となっています。これは全国最多で「老中の城」と呼ばれています。明治維新後より終戦までは陸軍歩兵第2連隊、後歩兵第57連隊が置かれました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】天候不順と別の趣味に興じていたこともあって約2か月ぶりのしっかりとした訪城です。夏の暑い盛り、仕事の関係で千葉に来たついでに、以前から行きたかった佐倉城を訪れました。佐倉城といえば巨大な角馬出のイメージがあるためか、頭のどこかで平城の意識を持って歩いていると、何やら西出丸に向かう頃からどんどん道が降っていく。そう言えば歴博行きのバスに乗っている時に坂を登った記憶がよみがえり、そうか佐倉城は平山城だったのかとその時になって初めて気づいた。再び登りとなる道中、鋭い日差しに照らされながら、ようやくたどり着いた三の丸跡にある説明看板に書かれた「台地の先端に立地」という文字を見つけ、土井利勝の選地の絶妙さに感心すると共に、台地城を堪能できた満足感でいっぱいになりました。

千葉城址の模擬天守閣


佐倉城址の角馬出

5月27日 三河国への城址探訪
市場城へゆく (愛知県豊田市市場町深見)

【歴史】市場城は昔は小原谷大草城といい、標高380mの山頂にある室町時代の山城です。小原村には当時の山城が11ヶ所あり、その中でも市場城は主城の役割を担っていました。室町時代が始まる応永年間(1394〜1482)は足助重春の一族が小原谷市場古城に居城しており、長禄3年(1459)には鱸五郎親信が足助の鈴木忠親から小原谷を与えられ領有していました。その後、文亀2年(1502)に鈴木藤五郎親信が今の市場城を築いてから88年間、市場城は鱸氏4代の居城でした。第4代重愛は徳川家康の下で大功をたて、天正11年(1583)に領地を加増され、石垣を積み曲輪を構えるなど城郭の大改修を行って堅城としたが、天正18年(1590)何らかの理由で改易となり市場城は文禄元年(1592)廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


足助城(真弓山城)へゆく (愛知県豊田市足助町須沢)

【歴史】足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城です。足助城は、「真弓山城」とも呼びますが、「松山城」「足助松山の城」とも呼んだようです。鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七屋敷(足助七城)」の一つとも伝えられますが、発掘調査では、この時代の遺物は発見されず、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられます。足助城は、元亀2年(1571)武田信玄に攻略され、天正元年(1573)まで、武田方の城代が在番しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】足助城にはこれまで3回訪れている。最初に訪れたのは足助町が豊田市に編入される前であり、その時は切岸の法面や建物の色がまだ真新しかった記憶がある。最初に訪れた時から15年以上経っていることもあり、さすがに老朽化の跡も見えてきてはいるが、最初に訪れた時に感じた「この城なら住める、1日でもいいのでこの城址に宿泊したい」という思いは今回の訪城でも変わらなかった。静岡県の高根城や長野県の荒砥城など、大河ドラマ等にも使用されている中世の推定復元城址はいくつかあるが、唯一「住みたい」と思うのはやはりこの足助城だけである。何度訪れても適度な広さとわかりやすい縄張、そして豊かな自然が残る素晴らしい城です。

市場城址の畝状竪堀群


足助城址 西の丸物見台
(推定復元)

5月6日 三河国・遠江国への城址探訪
田峯城へゆく (愛知県北設楽郡設楽町田峯城)

【歴史】田峯城は、県下有数の高山である段戸連峰を間近に控え、寒狭川の渓流をはるかに見下ろす標高387mの独立丘陵にある山城です。本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並が、まさに大蛇のようであることから田峯城は別称「蛇頭城」「竜の城」とも呼ばれていました。田峯城は文明2年(1470)菅沼定信によって築かれ、代々田峯宗家菅沼氏の居城とされました。
『現地案内看板より本文抜粋』


高根城へゆく (静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方)

【歴史】高根城は遠江北端に位置する山城で、標高420m・比高150mの通称三角山の山頂部を中心に築かれている。城址からは、水窪町中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろすことが出来る。高根城は、この一本の主要街道を押さえることと、信遠国境警備を目的として築かれた城である。城の創築は、15世紀前半、地元国人領主奥山氏が築いたと考えられる。『遠江国風土記伝』によると、永禄年中(1558〜70)に、信州の遠山土佐守に攻められ落城したと伝わる。遠州総劇の頃、奥山氏内部で、今川・徳川・武田のどこに組するかで内部分裂が起こり、奥山惣領家が滅亡し、最終的に傍系が武田配下に組み込まれた可能性が高い。天正4年(1576)遠江から武田勢力が一掃される。高根城もこの点で廃城となったと推定される。
『現地案内看板より本文抜粋』


武節城へゆく (愛知県豊田市武節町シロ山)

【歴史】永正年間に田峯城主菅沼定信によって築かれ、天正18年(1590)最後の城主奥平信昌が家康に従って関東に転封になり廃城となった。その間約100年にわたって存在した城である。信州と美濃の国境にあり、三河の最前線基地として狼煙によって敵の情勢を味方に伝えるという情報網の中心にいて重要な役割を果たし、戦乱の時代にあって戦火に明け暮れ、小さな平山城ではあったが、武田、徳川にとってたいへん気になる存在の城であった。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】愛知県豊田市の旧稲武町にある道の駅「どんぐりの里いなぶ」。これまで何度も訪れ、その度に対面の小山に掲げられた「武節城」の文字を目にしながらも、いつも雨天か遅い時間のため探索せずに帰っていた。しかし今回は、高根城からの帰途、まだ明るい空を見て、静岡県から長野県、長野県から愛知県へと入るルートで、武節城址を訪問することを思いついた。道の駅から眺める武節城址は、遺構があまり残っていないような雰囲気ですが、車で本丸の駐車場まで登り付近を探索してみると、思いのほかしっかり残っている空堀に感動。武田氏の影響を受けているであろう奥三河の城址の魅力を堪能しました。

田峯城址の推定復元建物群


高根城址の二重堀切


武節城址の空堀

4月23日 飛騨国への城址探訪
荻町城へゆく (岐阜県高山市大野郡白川村荻町)

【歴史】築城年代は未詳ですが、南北朝の頃、南朝の公家達が隠れ住んだ城といわれています。その後内ケ島上野介為氏が信州より白川郷に入り帰雲城を築城(1465年頃)しました。その時白川郷に勢力を持っていた正蓮寺を攻め白川郷を掌中にした内ケ島氏の家臣山下大和守氏勝が荻町城を代々の居城としました。城主氏勝は内ケ島氏の滅亡(大地震による帰雲城の崩壊1585年)の後、徳川家に仕え名古屋城の築城に献策しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】久々の平日の仕事休み。花粉症も和らいだ4月の下旬、この日は世界遺産白川郷まで足を延ばしました。現地に到着して最初に訪れたのは合掌集落を眼下に見渡せる展望台、すなわち荻町城址です。外国人観光客でごったがえす展望台を横目に、あまり人のいない荻町城址で空堀跡をひとり黙々と撮影することができました。おそらく外国人観光客の目には「何故この人は地面の窪みの写真を撮っているのだろう」と不思議に映ったことでしょうね。

荻町城址を遠望

2月18日 遠江国への城址探訪
高天神城へゆく (静岡県掛川市上土方嶺向)

【歴史】高天神城は室町時代、駿河の今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激しい攻防の舞台となりました。元亀2年(1574)には、武田信玄が徳川方御なった高天神城を攻めており、このときは大規模な戦闘は行われませんでした。天正2年には(1574)5月には、信玄の息子勝頼が当城に攻め寄せ、徳川方の城主小笠原与八郎長忠(氏助)は1ケ月ほどの籠城と激しい戦闘の末、開城し武田方に降っています。その後武田方となった高天神城は徳川家康の攻撃をたびたび受けることとなります。天正3年(1575)5月の長篠の戦以降、勢力が衰えた武田氏は当城を支えきれず、天正9年(1581)3月22日、ついに落城しました。高天神城はその後すぐに廃城となり、現在に至っています。
『現地案内看板より本文抜粋』


横須賀城へゆく (静岡県掛川市大須賀)

【歴史】横須賀城は戦国時代末期、天正6年から8年(1578〜1580)にかけて、徳川家康の家臣大須賀康高によって築かれた城であり、当初は約6km東に存在する武田方の高天神城を攻めるための軍事拠点として使用されました。天正9年に高天神城が落城すると、江戸時代にかけて、城は近隣支配の拠点となりました。城主は築城者大須賀氏の後、渡瀬氏、有馬氏、松平氏、井上氏、本多氏と続き、天和2年(1682)からは、西尾氏8代が城主となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


二俣城へゆく (静岡県天竜市)

【歴史】二俣城は、天竜川と二俣川が合流する天然の要害に築かれた城跡です。元亀3年(1572)から天正3年(1575)のあいだ、武田信玄・勝頼と徳川家康による争奪戦が繰り広げられました。徳川家康が領有していた天正7年(1579)、織田信長の嫌疑にかけられた家康の長男、信康は、この城に幽閉され自刃しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】初めて高天神城に訪れたのはちょうど10年前。その時は城址から富士山と遠州灘を同時に眺望できることに只々とても感動した事が思い出されます。しかし記憶に残る城址の姿はそこだけで、実際はよく縄張図を確認しないまま探索し、帰路に着いてから見逃した箇所が多いことに気づくといった有様でした。今回はそのリベンジとして、前回見逃した甚五郎の抜け道や堂の尾曲輪の先端部分まで時間を掛けて見て回り、あらためて高天神城の素晴らしさを堪能しました。静岡県は東海圏の中でも信長色が薄いという特徴があります。そこが静岡の城址めぐりの魅力のひとつなのかもしれないですね。

高天神城址 甚五郎抜け道


横須賀城址の玉石垣


二俣城址二の丸の堀切

1月8日 三河国への城址探訪
奥殿陣屋へゆく (愛知県岡崎市奥殿町)

【歴史】徳川家康の祖4代松平親忠の二男乗元が大給(豊田市)に大給松平を興し、その5代目真乗の長男家乗は、岩村城主となり、その後(明和元年1764)西尾藩主として続く、二男真次は大坂の陣に戦功をあげ奥殿藩の藩祖となった。奥殿藩は、三河に4千石のほか信州佐久に1万2千石を領していた。この陣屋は宝永4年(1707)4代乗真の時、大給から当地へ移され、文久3年(1863)信州へ移すまでの間領民支配の中心となっていたものである。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】2018年の城めぐりは昨年同様、三河国からスタートです。この日は雨の降る中、岡崎美術博物館の企画展を観覧後、雨でも訪れるのが容易な近くの奥殿陣屋に初めて訪れました。奥殿松平氏というと、長野県佐久市の龍岡五稜郭(田野口陣屋)を思い浮かべますが、こんな三河の山間部から龍岡五稜郭を作るような先進的な人物が現れるとは、さすが徳川家康を輩出した三河国だと感心してしまいます。やはりその場に訪れてみないとその土地の歴史や凄さがわからないものです。今年も多くの城跡に訪れ、各地の何気ない歴史に触れたいと思います。

奥殿陣屋跡 書院

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