城址探訪記(2022)

過去の記録(2013年〜)
城址探訪記2013 城址探訪記2014 城址探訪記2015 城址探訪記2016 城址探訪記2017 城址探訪記2018
城址探訪記2019 城址探訪記2020 城址探訪記2021 城址探訪記2022 城址探訪記2023 城址探訪記2024

12月29日 美濃国への城址探訪
小原城へゆく (岐阜県可児郡御嵩町小原)

【歴史】小原城址は、小原集落の中央部に位置する白山神社の奥山一帯を利用し、戦国時代に構築された山城で、石組による構造物の使用が見られない古い形式の城址と伝えられている。小原城主とされる小倉織部については、詳細は定かではないが、天文21年(1552)、御嵩城主であった小栗信濃守とともに土岐郡の高山城を攻めたときに、最終的には武田晴信(信玄)の幕下に属したと「濃州小里記」に記されている。
『現地案内看板より本文抜粋』


権現山城へゆく (岐阜県可児郡御嵩町御嵩)

【歴史】天文年間(1532〜54)に御嵩を拠点としていた戦国武将小栗信濃守が築城した山城で、以前は本陣山の東に隣接する権現山に城を構えていましたが、度重なる戦いにより、より防備の堅いこの地に城を移築したとされています。天文21年(1552)、土岐郡高山城の攻略をもくろんだ小栗信濃守の軍勢は、城に攻め入ったものの形勢不利となり、逆に小里城の小里出羽守光忠と明知城の遠山与助らの軍勢に攻め込まれ、ついに御嵩城は落城しました。なお御嵩城とは本陣山城と権現山城を合わせた総称です。
『本陣山城址現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】権現山城址に到着し車から降りると、すぐ近くにいた男性から「そこにカモシカがいますよ」と声を掛けられた。指をさされた場所に近づいてみると、確かに親子らしき2頭のカモシカが静かに草を食んでいる。その後、主郭跡に到着すると、そこでも女性から「カモシカ見られましたか」と声を掛けられた。どうやら結構長い時間、カモシカたちは同じ場所で草を食んでいるようだ。山深い城址でカモシカに出会うことはたまにあるが、周囲を住宅地が囲む公園化された場所でカモシカを見かけるのは考えてみると珍しいため、思わず人に教えたくなるのは当然のことだろう。城址内を一通り巡った後、元の場所に戻ってみても、カモシカはまだ同じ場所で草を食み続けていた。ゆったりしたカモシカの動作をしばらく見ていたら、忙しい年の瀬の雰囲気も少し和らぎ、今年最後の城巡りをほのぼのとした気持ちで締め括ることができました。

小原城址の二重堀切



権現山城址にいたカモシカ親子

11月19日 美濃国への城址探訪
久々利城へゆく (岐阜県可児市久々利)

【歴史】守護土岐氏の一族である土岐久々利氏は、南北朝時代から戦国時代にかけて周辺地域を支配しました。『金山記全集大成』によれば、初代康貞から代々土岐三河守・悪五郎を襲名したといいます。土岐悪五郎は、天文17年(1548)に烏峰城(のちの美濃金山城)主の斎藤妙春を討って中・東濃地域を支配します。しかし天正11年(1583)に美濃金山城主の森長可(森蘭丸の兄)に討たれ、久々利城は落城しました。
『現地案内看板より本文抜粋』


明智長山城へゆく (岐阜県可児市瀬田)

【歴史】康永元年(1342)に美濃源氏の土岐頼兼が名字を「明智」と改めて、初代明智家棟梁となり、明智荘瀬田の当地に明智城を築城した。以来およそ215年間、ここに山城を構えていたが、弘治2年(1556)に当時の美濃国の支配者、斎藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、義龍に攻められて落城した。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】コロナ禍の中で久しぶりに可児市の「山城に行こう」イベントが開催された。可児市は県内でもいち早く地元の山城を観光資源として位置づけ、官・民・企業が一体となって整備活動をしている先進的な自治体である。今回はこれまで整備の手があまり入ってなかった久々利城址の西側の遺構や明智長山城址の搦手方面の整備が充実したということで、イベントを利用して3年ぶりにこの2城を訪れてみたところ、整備の状況は想像以上に素晴らしく、初めて見る堀切や郭跡などの遺構を堪能することができました。コロナ禍であっても整備のレベルが落ちない可児市全体の取組に城ファンとしては感謝の念しかありません。

久々利城址西側遺構の堀切跡


明智城址の整備された搦手道

11月3日 美濃国・三河国への城址探訪
飯羽間城へゆく (岐阜県恵那市岩村町飯羽間)

【歴史】遠山飯羽間(飯間)氏は、岩村氏から分出した遠山一族で、奉公衆三番衆に名前を連ねていた。元亀天正の争乱のときの城主遠山友勝・友忠父子は、織田信長と誼を通じて勢力を伸ばし、苗木直廉の死後に苗木城主となった。飯羽間城は友忠の長子友信が継承したが、友信は天正2年(1574)武田勝頼の東濃侵攻のときに明知城内で謀反を起こし落城に導いた。その後甲斐に逃れたが、天正10年(1582)武田滅亡の際に織田方に捕らえられて処刑されている。飯羽間城は、城主不在となった天正3年ころに廃城したと推定される。
『現地案内看板より本文参照』


中西城へゆく (岐阜県恵那市山岡町久保原)

【歴史】『山岡町史資料扁上』所収の江戸期の文書によれば、永禄頃(1558〜1570)に遠山左京進が城主であり、「久保原城」と呼ばれていた旨、記されている。
『「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集 岐阜県教育委員会」より本文抜粋』

大平城へゆく (岐阜県恵那市串原)

【歴史】遠山串原氏の居城。天正2年(1574)の戦いで明知城とともに攻撃目標となり落城した「串原城」に比定される。遠山串原氏は、室町幕府奉公衆の系譜をひき、串原のほか上村や下手向、佐々良木などを所領とした。遠山一族の中では三遠山(岩村、苗木、明知)に並ぶ存在であった。落城後はそのまま廃城となったため、外部の勢力による改修の手が加わっておらず、遠山氏の築城法を知るうえで貴重な城跡である。
『現地案内看板より本文抜粋』

小渡城へゆく (愛知県豊田市小渡町)

【歴史】小渡城は標高240mの丘稜に位置し、矢作川の岸壁を背にする要害に築かれた山城である。『東加茂郡誌』では小渡城として記載されるが、城主は不詳とされている。今川方の鱸氏が美濃の岩村衆と広瀬氏と協力して弘治2年(1556)に小渡城を普請。厳重な防備の山城となっている。畝状空堀群はこの地域だけで、非常に貴重である。戦国期に改修されたと考えられる。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】先々週に行われた全国山城サミット恵那大会に関連した事前イベントとして、恵那市南部のいくつかの城址では見学会が実施された。その影響もあってか、15年前に訪れた時には竹藪で覆われていた思い出しかない飯羽間城址が、以前とは見違えるほどに立派な山城へと変貌を遂げていた。しかし、その一方で、城内に足を踏み入れてみると、15年前にも見たことのある懐かしい説明看板の数々がいまだに現役で使われており、この15年間竹藪の中でこれらがひっそりと眠っていたのだと思うと、何やら感慨深い気持ちになりました。

飯羽間城址の郭跡

中西城址の土塁

大平城址の堀切

小渡城址の畝状竪堀群

10月23日 美濃国への城址探訪
明知城へゆく (岐阜県恵那市明智町)

【歴史】明知城(白鷹城)は、宝治元年(1247)に、源頼朝の重臣加藤景廉の孫である遠山景重が築城したと伝えられる明知遠山氏累代の居城です。戦国時代には現在みられる大規模な山城が築城され、織田や武田などの戦国大名の争奪戦の舞台となり、記録に残っているだけで4度の合戦が繰り広げられました。関ヶ原の合戦後、山城は近世初頭に廃城となりますが、代わって山麓に陣屋が構えられました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】「明知城は国の史跡に指定されてもおかしくない城址」、これは全国山城サミット恵那大会で講師を務めた中井先生や萩原さちこさん、そして春風亭昇太師匠がこぞって口にした言葉である。数年前に苗木城が国指定史跡となってから、次は岩村城の番かとも思っていたところ、岩村城を飛び越して明知城が先に国の史跡になる可能性があるとは東濃地域に住んでいながらも、あまりイメージしていないことだった。しかし冷静に考えてみると、一部私有地が混ざる岩村城よりも、近年の整備が充実し、ダイナミックな横堀や畝状竪堀群が比較的楽に見られる明知城の方が確かに国指定の現実味があるように思えてきた。これまで岩村城や苗木城という城マニアにとってはあまりにも有名な2大山城の陰に隠れて、あまり目立たなかった明知城も国史跡になって日の目を見ると、多くの城ファンが今までよりも訪れるようになるだろう。するとそこに行くための手段として東濃地域の誇るローカル鉄道である明知鉄道の需要も少しは高まるのではないだろうか。全国山城サミット開催時には、明知鉄道の車両に特別なヘッドマークが掲げられていた。明知城が国指定史跡に指定されたら、明知鉄道のイベントに、ぜひ山城探検ツアー列車を企画してもらいたいものだ。

畝状竪堀群より本丸切岸を遠望


山城サミットヘッドマーク(明知鉄道)

8月10日 出羽国への城址探訪
尾浦城へゆく (山形県鶴岡市大山)

【歴史】庄内地方を領有していた武藤氏が、戦国時代後期に大宝寺城からこの地に居城を移す。領土拡張を図った武藤義氏が家臣の謀反によって横死したのち、出羽最上氏との戦いに勝った越後上杉氏の属城となる。1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後は最上氏の領有となり、大山城と改称。元和の一国一城令により居館が山麓に移され、1622年(元和8年)、最上氏の改易とともに廃城となった。
『「週刊名城をゆく36 2004年 小学館」より本文参照』


鶴ケ岡城へゆく (山形県鶴岡市馬場町)

【歴史】鶴ヶ岡城は古くは大宝寺城とよばれ鎌倉期以来戦国期まで庄内に君臨した武藤氏の居城であった。天文年間(1533頃)兵火のため武藤氏は大山の尾浦城に居を移し当城はその枝城となった。天正15年(1587)武藤氏が滅び庄内は越後の上杉氏次いで慶長6年(1601)山形の最上義光の支配するところとなる。慶長8年(1603)大宝寺城は義光の隠居場として修復され鶴ヶ岡城と改称する。元和8年(1622)最上氏が領地没収となり、その後信州松代より酒井忠勝が入国、庄内14万石の居城として整備拡充された。
『現地案内看板より本文抜粋』

丸岡城へゆく (山形県鶴岡市丸岡町の内)

【歴史】庄内地方は鎌倉時代より400年の間武藤氏の支配下にあり、戦国期以降上杉領、最上領となりました。丸岡は庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要衝に位置していたため、代々の領主により大宝寺城(鶴岡城)の支城として楯館(丸岡城)がおかれていました。元和8年(1622)には、酒井氏が庄内藩主として入部しました。寛永9年(1632)肥後54万石の大名加藤忠廣公は、幕府より1万石をもって改易され庄内藩に預けられました。丸岡城跡に居館を構え22年間を過ごし、運命に翻弄された波乱の生涯を終えました。
『現地案内看板より本文抜粋』

蝦夷館へゆく (山形県鶴岡市羽黒町手向薬師沢)

【歴史】通称「蝦夷館」、「チャシ」跡と伝えられ、縄文遺物が出土し、かなり古くから人が住んでいたと考えられる。その後豪族の館として使われたことが空濠の跡からうかがい知られる。ひょうたん形の小山の上をならし、また周りには外敵に備え空濠をめぐらして館(小規模な城)として使われたといわれている。チャシとはアイヌ語で砦を意味する。
『現地案内看板より本文抜粋』

清水城へゆく (山形県最上郡大蔵村清水)

【歴史】文明8年(1476)山形城主最上氏2代直家は、北進策と最上川舟運の統制の一環として六男兼義の子満久を清水に配した。満久は、清水氏を名乗り、はじめ白須賀に居館を構えたが、2年後文明10年(1478)当地に築城した。以後清水氏代々の居城となった。当城は、仙北の小野寺氏と庄内の武藤氏に対抗する最上氏の拠点の役割を果たした。清水城は、元和8年(1622)の最上氏改易に伴って破却された。
『現地案内看板より本文抜粋』

長瀞城(陣屋)へゆく (山形県東根市長瀞)

【歴史】寛永20年(1643)長瀞村は、幕府の直轄地となり、寛文2年(1671)ここに幕府代官所がおかれたときもある。寛政10年(1798)米津通政が武州久喜より入部し、長瀞藩1万2千石の居城となる米津氏は無城大名であるため、陣屋と称した。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】小大名をテーマとした城巡りも最終日。この日は武藤氏(大宝寺氏)の本拠地である山形県鶴岡市の城址を中心に巡る計画を立てた。この鶴岡市は、藤沢周平の時代小説のファンである自分にとって物凄く思い入れのある土地である。庄内の地は藤沢周平の出身地であり、小説に度々登場する「海坂藩」のモデルは庄内藩とされているため、ファン心理も相まって、鶴ケ岡城址(大宝寺城址)に訪れるのは今回で3度目となった。そんな藤沢周平の小説に『残照十五里ヶ原』という作品があるが、その中で武藤氏は主人公の報復相手として登場するため、どこか自分の中では武藤氏を敵役というような視点でとらえていた。しかし今回初めて尾浦城址にある武藤氏の顕彰碑や周辺の城址に残る武藤氏の足跡を見て、やはり地元にとっては力のある偉大な英雄なのだということを改めて学ぶことができた。今回の小大名の足跡をたどる旅は、地元に行かないとわからない情報も多く収集することができ、大変充実した3日間となりました。

尾浦城址の空堀跡

鶴ケ岡城址の水堀跡

丸岡城址の土塁跡

蝦夷館跡の土塁と壕跡

清水城址の二の丸空堀跡

長瀞城址の水堀跡

8月9日 出羽国への城址探訪
角館城へゆく (秋田県仙北市角館町古城山)

【歴史】角館城は、14世紀に豪族菅氏が築城したとも、15世紀に戸沢氏が築城したともいわれる。江戸時代には佐竹氏の所領となって、佐竹義宣の実弟蘆名盛重(義勝)の居城となった。1620年(元和6年)、幕命により廃城となる。
『「週刊名城をゆく48 2005年 小学館」り本文参照』


門屋城へゆく (秋田県仙北市西木町小山田沢口)

【歴史】門屋城は、戸沢氏の軍事行政上の重要な城館であり、面積約5ヘクタール、北浦最大の城といわれている。戸沢氏2代兼盛が安貞2年(1228)門屋城を築き、13代家盛が小松山城(後の角館城)に移るまで、約200年間居城とした。家盛が小松山城に移ってからも、天正18年(1590)秀吉の命による領内35ヶ城破却までの約360年間、小松山と連携を密にし、戸沢一族の隆盛を支えた。
『現地案内看板より本文抜粋』

払田柵へゆく (秋田県大仙市払田仲谷地)

【歴史】払田柵跡は、今から約1200年前の平安時代の初めに造られた古代城柵の遺跡です。当時の東北地方には、都の人々から蝦夷(エミシ)と呼ばれた人々が住んでいました。払田柵は彼らを政治的・軍事的に支配するため律令国家により造営されました。創建時に使われた角材の年輪年代から西暦801年頃に建てられたと考えられていますが、歴史書にも明確な記述がない遺跡です。
『現地案内看板より本文抜粋』

大鳥井柵へゆく (秋田県横手市新坂町)

【歴史】大鳥井柵は、平安時代、清原光頼・頼遠(大鳥井太郎)の父子によって、この地に築かれたと伝えられる。当時、清原一族は、前九年の役(1051〜62年)により、奥羽一帯を支配していた。一族の内紛に端を発した後三年の役(1083〜87年)は、横手盆地一帯に戦火がひろがり、この大鳥井柵も横手市の北部にある金沢柵とともに焼失し、源義家と清衡の連合軍に敗れた一族は滅亡した。やがて藤原清衡の三男・正衡によって再び城柵が築かれ、関根柵を呼ばれた。
『現地案内看板より本文抜粋』

横手城へゆく (秋田県横手市城山町)

【歴史】横手城は、天文・弘治年間(1532〜1557)に小野寺によって、築城されたと伝えられ、別名を朝倉城とも、また戦国時代に城の主郭の斜面にニラを植えたことから韮城とも呼ばれた。城は、関ヶ原の合戦後、城主小野寺義道が反徳川方にあったと見られ、石見国に配流され、慶長7年(1602)に佐竹氏が藩主になってからは、久保田の支城として城代が置かれた。城代は伊達氏、須田氏を経て、寛文12年(1672)からは戸村氏が勤めた。
『現地案内看板より本文抜粋』

大森城へゆく (秋田県横手市大森町高口下水戸堤)

【歴史】大森城は、文明年中(1469〜1487)小野寺長門守道高が岩淵城を築城したのが初めとされ、その後の変遷を経て、1580年頃、小野寺孫五郎康道(大森五郎)が入城するにいたって大森城と号し、以後石高3万石をもって平鹿西部地方一帯を支配しました。また、天正18年(1590)の太閤検地に際しては、豊臣秀吉の名を受けた上杉景勝が大森城に入城し、ここを本拠地として山北三郡の検地を指揮したことから、当時大森城はこの地方一帯を支配する重要地点であったと考えられています。
『現地案内看板より本文抜粋』

吉田城へゆく (秋田県横手市平鹿町上吉田吉田)

【歴史】吉田城跡は、戦国時代平鹿・雄勝地方を支配した小野寺景道が築城したと伝えられる。その後、小野寺陳道が継承したが、慶長6年(1601)頃、小野寺氏の改易とともに廃城になった。
『現地案内看板より本文抜粋』


藤島城へゆく (山形県鶴岡市藤島字古楯跡)

【歴史】成立年代は不明であるが、和銅年間、平形に国府が置かれた頃の国府の府城といわれ、出羽の守や鎮守府将軍の居城であった。1531年、北畠顕信が守永親王を奉じて旗上げをした歴史上有名な城でもある。以来二十有余年間、東北の南朝の拠点として守られて来た。1590年(天正18年)太閤検地の折、一揆を起こし籠城、上杉景勝の宿老直江兼続も落とし得なかった。1615年(元和元年)一国一城令により廃城となる。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】城巡りの旅2日目の計画は、角館の武家屋敷観光以外は観光らしい要素もなく、ひたすら人と出会うことのない城巡りである。この日は前日の新庄城址から続く戸沢氏をテーマにした城巡りからスタートし、角館城址・門屋城址を巡った後は、2時間程度で武家屋敷見学を終えて角館を南下し、後半は払田柵・大鳥井柵といった主に平安時代に機能した城址巡りを挟んで、小野寺氏の城址巡りに入った。小大名の旅と言いながらも、実はこの日のメインの城址は大鳥井柵である。13年前に同時代の金沢柵に行った時にはその存在を知らなかったが、大鳥井柵は金沢柵の近くにあり、平安時代の居館跡・砦跡などがあった場所である。長大な二重土塁などの珍しい遺構を見学しながら、平安時代にこのような技巧的な防御拠点が必要であったのかと思いを馳せながら、改めて東北の城柵文化の面白さを堪能した。次は福島県にある阿津賀志山防塁を見てみたいものだ。

角館城址の郭跡

門屋城址碑

払田柵の政庁跡

大鳥井柵の二重土塁跡

横手城址の模擬櫓跡

大森城址の主郭跡

吉田城址の土塁跡

藤島城址の土塁跡

8月8日 出羽国への城址探訪
新庄城へゆく (山形県新庄市堀端町)

【歴史】新庄城は、寛永2年(1625)、新庄藩初代藩主戸沢政盛が築いた城である。創建時の新庄城は、本丸中央に3層の天守閣、3隅に隅櫓、表御門・裏御門を備え、二の丸は役所や米倉、大手門・北御門を有し、三の丸には多数の侍屋敷を区画した堂々たる近世城郭であった。
『現地案内看板より本文抜粋』


本堂城へゆく (秋田県仙北郡美郷町本堂城回)

【歴史】本堂城は、戦国・織豊期に現在の大仙市の一部と美郷町北部一帯を治めた本堂氏の居館です。本堂氏は、天文4年(1535)に山城の元本堂城から平城の本堂城に移り、慶長7年(1602)に常陸国新治郡志筑に国替となるまで本拠としました。
『現地案内看板より本文抜粋』

六郷城へゆく (秋田県仙北郡美郷町六郷古館)

【歴史】六郷弾正道行が永禄2年(1559)に稲荷岡の東に築城したと伝えられ、その子兵庫守政乗の居城であったが、政乗は慶長7年(1602)、関ヶ原の戦功により将軍から常州府中を賜り移った。政乗は同9年本荘城に移る。佐竹義宣が慶長7年に秋田遷封の際、義宣の父義重が人心の収攬を図ってここを居城とした。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今回はコロナ禍にあって、初めての行動制限のない夏ということで休暇の日程を早め、3年ぶりの城巡り旅行を計画した。今回の旅のテーマは「出羽の小大名の足跡をたどる旅」である。当初は「東北の雄・安東氏の城址を巡る旅」を計画していたが、メインとなる檜山城址を夏季に訪れる疲労度を考慮した結果、出羽の小大名の足跡をたどる旅で落ち着いた。それにしても出羽国の城址にはけっこう平城形式の城址も多い。この日に巡った城址も全て平城形式であったため、夏の暑さの中でも思いのほか体力の消耗を抑えることができた初日の行程となりました。

新庄城址の本丸御表門跡

本堂城址の土塁跡

六郷城址(田岡神社)

5月28日 伊勢国への城址探訪
松阪城へゆく (三重県松阪市殿町)

【歴史】松阪城は、蒲生氏郷が天正16年(1588)この四五百森に築城した平山城である。蒲生氏郷が陸奥黒川へ移封後、天正19年(1591)に服部一忠、文禄4年(1595)に古田重勝と城主が変わり、元和5年(1619)に徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢州領(松阪・田丸・白子等)18万石を統括する城代が置かれてきた。
『現地案内看板より本文抜粋』


松ヶ島城へゆく (三重県松阪市松ヶ島町)

【歴史】天正8年(1580)、織田信長の二男である信雄は南伊勢統治の拠点を田丸城からこの地に移し、松ヶ島城と称し、かつては五層の天守がそびえていたという。その後、城主は信雄の家臣の津川義冬から滝川雄利と経て、同12年、豊臣秀吉の家臣であった蒲生氏郷が12万石の大名として入城した。
『現地案内看板より本文抜粋』

津城へゆく (三重県津市丸之内)

【歴史】津城は、織田信長の弟信包によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】三重県松阪市にある江戸時代の北方探検家・松浦武四郎の記念館が4月にリニューアルされたため、今回観覧に訪れたついでに、これまで訪れたことがなかった松ヶ島城址へも足を向けてみた。松ヶ島城址はかつて五層の天守閣が建てられていたほどの重要な拠点であったにもかかわらず、現在は周囲を田んぼや畑に囲まれたとても長閑な風景が広がっている場所である。ただその長閑な風景が逆に戦国時代の栄枯盛衰をより一層引き立てており、こういう城址も訪れてみると楽しいものだと改めて感じた。

松阪城址 きたい丸角櫓跡


松ヶ島城址の天守跡


津城址の天守台跡

5月15日 近江国への城址探訪
清水山城へゆく (滋賀県高島市新旭町熊野本)

【歴史】嘉禎元年(1235)に佐々木信綱の二男高信が高島郡田中郷の地頭となり、その一族は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、高島地域で活躍しました。清水山城館跡は、西佐々木一族の惣領家佐々木越中氏の居城です。その規模や眺望から、佐々木越中氏だけでなく西佐々木一族の詰城として、16世紀後半に対織田信長戦への緊張が高まる中で改修された可能性が指摘されています。特に、山城には近江でもめずらしい畝状空堀群が築かれていて、信長との戦いに備えて、朝倉氏によって改修された可能性が推測されています。
『現地案内看板より本文抜粋』


大溝城へゆく (滋賀県高島市勝野)

【歴史】織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島後に大溝城が築かれた。この城は、びわ湖とその内湖を巧みに取り組んでい築いた水城で、明智光秀の縄張で出来たと伝承されている。そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄城主磯野員昌が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正6年(1578)2月3日その跡地を甥の織田信澄に宛行い大溝城主とした。ところが、天正10年6月2日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝は、丹羽長秀と謀って四国遠征途上にあった信澄を、大阪城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた。大溝城はやがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、元和5年(1619)伊勢国上野から入部した分部氏に引きつがれた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】3年くらい前から江戸時代の北方探検家について興味をもって調べるようになった。実は岐阜県の近隣には結構北方探検家にまつわる土地が多く、そのため城巡りと合わせて近隣の北方探検家の足跡を訪ねるのも最近では行き先を決める大きな要素となっている。そこで本日は、滋賀県高島市の清水山城と大溝城を巡りながら、大溝城址の近くにある北方探検家の近藤重蔵の墓所を訪ねることを旅の目的とした。近藤重蔵は北方探検において大きな業績を残しながらも、晩年は息子の不始末のため大溝藩お預かりとなり、この地で没したため、墓所が高島市にあるということだ。墓所はきれいに整備され、近藤重蔵を検証するパンフレットも置いてあった。興味がないと名前を知らない人が多い人物ですが、地元の人に今でも大切にされていることが伝わってきました。

清水山城址主郭跡と琵琶湖の眺望


大溝城址の天守台跡

5月5日 美濃国への城址探訪
漆原城へゆく (岐阜県恵那市上矢作町漆原)

【歴史】『巌邑府誌』によれば遠山友忠が城主であり、砦の南側は「箕作」と呼ばれていたという。技巧的かつ一貫性のある縄張りは、類例から考えれば甲斐武田氏が岩村城を拠点とした時期に築城したものと考えられる。
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(岐阜県教育委員会 2003年刊行)より本文抜粋』


【訪城記】今年度の全国山城サミットは岐阜県恵那市で行われる。特に恵那市は岩村城を始めとして、東濃地域の中ではもちろんのこと、岐阜県内でも甲斐武田氏の影響が色濃く残る城址が多い。本日訪れた漆原城も堀切や竪堀、横堀、そして馬出など、遺構の端々に武田氏の影響がみられ、小さいながらも見ごたえがある城址となっている。知名度は低いが、この城が築かれた時代背景を想像しながら登城すると結構楽しめる城址だと思います。

漆原城址の二重堀切跡

4月30日 信濃国への城址探訪
有賀城へゆく (長野県諏訪市豊田)

【歴史】築城年代は不明であるが、諏訪氏の支族である有賀氏が鎌倉時代初期の承久年間(1219〜1222)に当地に入り、その後に築かれた山城と考えられる。戦国時代に入り、諏訪氏を滅ぼした武田氏の支配が当地方におよんだ天文17年(1548)、有賀氏ら西方衆は武田信玄と争うが敗退し、追放された。有賀城には武田氏の原美濃守が入城し、しばらく後に武田方に協力した千野靱負尉へと支配が移された。そして関ヶ原の役後の慶長6年(1601)、再興した諏訪氏の再入部にあたり、千野丹波守房清が入城している。
『現地案内看板より本文抜粋』


赤須城へゆく (長野県駒ケ根市下平)

【歴史】南北朝時代、舟山城を拠点に発展した片桐氏の分流で片桐孫三郎為幸がこの地に居城を構え、赤須氏を称したとされる。天正10年(1582)織田軍の兵が、伊那谷に進入したとき、この城も武田支配下の諸城と共に滅び、以後影響力を失った。
『現地案内看板より本文抜粋』

船山城へゆく (長野県下伊那郡松川町上片桐)

【歴史】船山城跡は、平安時代末から室町時代に至る四百有余年にわたり、伊那地方に栄えた信濃の名族、片切氏によって築城されたものであり、天正10年(1582)に織田氏の侵攻によって落城したと言われるまで同氏の本拠地になっていたところである。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】花粉症の症状もようやく和らぎ、どこか城巡りに出かけようと選んだのが、今回訪れた諏訪の有賀城址です。18年くらい前に諏訪から伊那へ抜けるために通った峠の登り口で「有賀城」という大きな看板をみつけたのが自分の中で有賀城の存在を知った最初でしたが、その後のNHK大河ドラマ「風林火山」に有賀氏が登場していたこともあり何となく気になってはいながらも、なかなか訪れる機会のなかった城址でした。訪れてみると、城址内はとてもよく整備されており、連郭式の曲輪とそれに付属する土塁、巨大な堀切などの遺構の他にも、主郭から眺める諏訪湖や車山高原などの景色も素晴らしく、心穏やかに過ごせる空間となっていました。GW中のよい癒しとなりました。

有賀城址の大堀切跡


赤須城址の堀切跡


船山城址の堀切跡

1月4日 三河国への城址探訪
山中城へゆく (愛知県岡崎市羽栗町長寄)

【歴史】山中城は県下最大級の城域を誇る山城であり、東海道と吉良道との分岐点を見下ろす標高200mの山上に立地し、軍事上の要地であった。築城は西郷氏、あるいは西郷氏の所領を引き継いだ岡崎松平家とも伝わる。大永4年(1524)、岡崎松平氏の詰城であった山中城を安城松平清康が風雨を衝いた夜襲により掌握した。清康はついで明大寺の岡崎城も掌握し、松平家の本拠を安城から現在の岡崎城へ移すなど、山中城奪取は安城松平家の結束と一門の再集結をはかることとなった。天文17年(1548)の小豆坂合戦時には今川氏の重要拠点となり、「医王山」の名前で資料上の確認ができる。永禄3年(1560)桶狭間の合戦後には松平元康(徳川家康)が奪取し、徳川氏の支城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


岩津城へゆく (愛知県岡崎市岩津町東山)

【歴史】信光明寺の裏手の丘は、その昔松平3代信光が、この地方の勢力をのばす本拠地にしたといわれる岩津城の跡です。築城は、叔父の松平2代泰親とともに、応永28年(1421)に賀茂郡松平郷から岩津に進出を来たしたことに始まるとされています。
『現地案内看板より本文抜粋』

丸根城へゆく (愛知県豊田市野見町)

【歴史】丸根城は室町時代末期の城と推定される。城は3つの郭から成り、堀、土塁、井戸などの遺構がきわめて良く残っている。城主は不明であるが、矢作川東岸の位置から、松平氏一族の城とも考えられる。
『現地城址碑より本文抜粋』


【訪城記】2022年の最初の訪城は、西三河の東側に位置する城址の探訪からスタートです。今回巡った城址には、どれも比較的規模の大きな空堀や堀切が配されており、さすが松平氏のお膝元と関心させられる城址ばかりでした。しかしそのような光景が容易に見られるのも、地元の方によって行き届いた整備や管理がなされているお陰であり、これらの人々によっていつも安全な訪城ができていることには毎度感謝しかありません。今年度もこのような素晴らしい城址にたくさん出会えるよう、早くコロナ禍が収束することを願うばかりです。

山中城址の大堀切跡


岩津城址の空堀跡


丸根城址の空堀(堀割)跡

戻 る