城址探訪記(2021)

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11月20日 越前国への城址探訪
一乗谷城へゆく (福井県福井市三万谷町)

【歴史】朝倉氏は、館の背後の山上に詰城の一乗谷城を置き、周囲には東郷槇山城、北に成願寺城、南に三峯城といった出城を配置して、城下を守っていました。一乗城山(標高473m)に築城された一乗谷城跡には、防御のための施設が極めて良く残っています。「千畳敷」「観音屋敷」「月見櫓」などの山上御殿群、「一の丸」「二の丸」「三の丸」といわれる連続郭群などが地形を利用して造られ、広範囲にわたって配置されているのが確認できます。また空堀、堀切、土塁、織田信長の侵攻に備えて築かれたといわれる約140条の畝状竪堀が要所に築かれており、防御に優れた堅固な城であったことがうかがえます。
『現地案内看板より本文抜粋』


一乗谷朝倉氏館へゆく (福井県福井市城戸ノ内町)

【歴史】福井市の東南約10km「一乗ハ山ノ間ノ谷」に築かれた朝倉氏遺跡は、戦国時代の城下町の跡で、400年以上もそっくり埋もれてきたことで有名です。朝倉館は第5代義景の住まいした所で、後の江戸時代に建てられた西側唐門から入ります。館は三方に濠と土塁が巡り、6400uの敷地に17棟の建物が建っていました。常御殿を中心にして、南方には花壇、庭園、主殿、会所、茶室などの表向の建物群が、また北方には台所や厩、湯殿、蔵など内向の建物群が整然と配置されています。 
『一乗谷朝倉氏遺跡資料館しおりより本文抜粋』

小丸城へゆく (福井県越前市五分市町)

【歴史】天正3年(1575)織田信長軍が越前の一揆を平定した後、佐々成政が築いた平城である。この城は味真野の扇状地末端に、野々宮廃寺跡の一部を取り込んでつくられたもので、本丸、二の丸、三の丸と隅櫓の遺構がよく残されている。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】一乗谷朝倉氏遺跡にはこれまで何度も訪れているが、山頂の山城遺構には一度も行ったことがなかった。そこで今回は山城の見学をメインに訪城計画を立て、正味3時間ほどかけて城址内を歩き回った。片道1時間の登り道と滑りやすい足元に悪戦苦闘しながらも、山城部分に到着してみると、そこには山上遺構と共に見事な紅葉の景色が広がっていた。麓の朝倉館跡では少ない紅葉に人が群らがっていたが、苦労して登った山城では、その何倍もの紅葉をほぼ独り占めすることができ、大変有意義な秋の一日を過ごすことができました。しかし根本城に引き続き、今日も下山中に滑って転んだ。やはり靴を買いかえるべきか。

一乗谷城の宿直跡


朝倉氏館 中の御殿跡


小丸城址の石垣

11月14日 美濃国への城址探訪
根本城へゆく (岐阜県多治見市西山町)

【歴史】根本城跡は、高社山の北東、標高283mの通称「城山」に位置します。南北に伸びる峰の先端部には、堀切や竪堀・土塁・平坦な曲輪など中世後期の城の典型的な遺構がはっきりと残されています。戦国時代16世紀の後半に、この地で土豪化した若尾氏が、詰めの城としての砦をここに築き、平時は山麓の通称「御殿屋敷」に屋敷を構えて居住していました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】根本城址には20年程前に訪れている。この頃は、全国各地の有名な名城から、地元の城址の存在に目が向き始めた時期であり、城址の少ない多治見市の中でもそれなりに遺構がみられる城址として根本砦に訪れた記憶がある。当時は登り口もよくわからず、工場の脇で見つけた説明看板の裏手から山に入ったものだが、現在は少し離れた別の場所から工場の裏側の山道へと抜ける登城道が作られている。家に帰ってから以前に撮影した写真と見比べていたら、今の登城口にある説明看板は、当時工場の脇にあった説明看板と同一のものであることに気がついた。近年整備されたにしては登城口の説明看板が少し古いものに見えたのはこういう理由だったのかと妙に納得したが、砦が城という表記に変わっていたのは特に印象的だった。この20年程で格上げされていた。

根本城址の堀切跡

10月31日 信濃国への城址探訪
林小城へゆく (長野県松本市里山辺)

【歴史】林小城は、里山辺林集落東側の尾根上に位置し、東側に大嵩崎集落をはさんで、林大城と相対している。林城の築城は、「小笠原氏系図」によれば小笠原清宗の時代に築かれ、井川館から移ったものといわれている。林小城は古城ともいわれるので、大城より古いと考えられてきたが、最近の研究では小城の中心部の縄張が複雑であることから、大城よりも後に築城されたと推測されている。天文19年(1550)7月15日に武田氏の攻撃を受けて大城と共に自落した。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】自分は小さな郭群が雛壇上に連続で構えられている城址を見るのが好きだ。六角氏の観音寺城や土岐氏の大桑城、若狭武田氏の後瀬山城など、なぜか室町守護職の居城に多く見られる遺構であるために、小郭群があるだけで、その城址に一種のステータスを感じてしまう。以前、林大城に訪れた際にも、規則的に並んだ小郭群に小笠原氏の品格を感じたものだが、今回訪れた林小城でも多くの小郭群を見ることができ、益々、信濃守護職であった小笠原氏の格の高さを感じずにはいられませんでした。

林小城址の主郭石積み

10月10日 伊賀国への城址探訪
宮田氏城館跡へゆく (三重県伊賀市丸柱)

【訪城記】滋賀県甲賀市信楽町と県境を接する伊賀市丸柱は伊賀焼の里である。この地区にある伊賀焼伝統産業会館に近い山中に宮田氏城館跡はある。伊賀焼伝統産業会館の丸柱地区の案内板にはちゃんと宮田氏城館跡の場所が明記されているが、この城館は地元の方が発見したらしく、現地には特に案内板などは立てられていない。この日はたまたま知り合いのお供で陶芸家のご自宅を訪れた時に、裏山が宮田氏城館跡であるということを教えられ、藪漕ぎをしながら土塁が見えるところまで行ってみただけである。甲賀郡中惣をはじめ、甲賀や伊賀の土豪が構えた城館跡を巡ってみたいと思っているが、観光用の駐車場等がないために、なかなか果たせずにいる。いつかじっくり巡ってみたい。

宮田氏館跡の土塁

7月24日 遠江国への城址探訪
曳馬城(引間城)へゆく (静岡県浜松市中区元城町)

【歴史】鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。歴代の城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。この時代の浜松には、同じ今川方で少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衛がいました。松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、古城と呼ばれて米蔵などに使われていました。
『現地案内看板より本文抜粋』


浜松城へゆく (静岡県浜松市中区元城町)

【歴史】元亀元年(1570)、徳川家康は、岡崎城から引間城に拠点を移し、城の根本的な拡張工事を行い浜松城と改名しました。城の中心部を現在の天守の辺りへ移し、引間城は新城の中に組み込まれました。なかでも、天正6年(1578)頃からの拡張工事は大規模なもので、浜松城は家康が新規に築いた城ともいえます。天正14年(1586)に駿府城へ移るまで浜松城が家康の本拠でした。
『現地案内看板より本文抜粋』

【訪城記】なぜか自分が持っている10冊程の城郭図鑑のうち、割と初心者向けの図鑑には浜松城が掲載されているのに、玄人向けの図鑑には浜松城が掲載されていない。しかし今回17年ぶりに浜松城に訪れてみると、これが想像以上に面白い遺構であることに気付く。17年前に撮影した写真と見比べてみると、特に本丸周辺の石垣の見せ方が断然良くなっている気がする。もし、現在発掘中の二の丸跡が、駿府城のように史跡公園化されるようならば、これはもう玄人向けの図鑑に掲載しても十分楽しめるのではないかと思う。さすが続100名城に選ばれるだけはあります。今回訪れてみて、今後が楽しみな城のひとつになりました。

曳馬城址(元城町東照宮)


浜松城復興天守閣

5月3日 美濃国への城址探訪
揖斐城へゆく (岐阜県揖斐郡揖斐川町極楽寺)

【歴史】揖斐城は今からおよそ650年程前にこの地の支配者であった土岐一族が築いた城で、約200年間山城として利用されていましたが、天文16年(1548)に斎藤道三に攻められ城はなくなってしまいました。
『現地案内看板より本文抜粋』


揖斐北方城へゆく (岐阜県揖斐郡揖斐川町北方)

【歴史】建武延元の頃、吉田休三入道ここに城を築きしと伝う。建武三年後醍醐天皇叡山に行幸せられ叡山を以って南朝の策源地とせられた。越前金崎城が陥ると新田氏の一族堀口美濃守貞満は根尾谷に退き根尾城主根尾入道貞氏、岐礼の豪族山本貞元、北方城主吉田休三入道、長峯城主山岸新左衛門光頼等に相呼応して北朝に抗し、美濃の土岐氏と戦ったことは、谷汲の戦下、長瀬の戦揖斐野合合戦、池戸、下狩宇、上狩宇の合戦等に見えている。
『現地案内看板より本文抜粋』

小島城へゆく (岐阜県揖斐郡揖斐川町春日六合)

【歴史】当城は築城年不詳。正和年間(1312〜1316)頃より20余年間は南朝方に属したる。西尾右京亮、堀部太郎兵衛尉在城、延元2年(1337)以降元中7年(1390)迄の50余年間は北朝方に属し土岐氏の居城となった。延元2年(1337)10月26日、西尾氏等敗れて西国に遁れる。堀部氏捕えらる。而して落城と共に攻撃軍の領将たる土岐頼康の居城となる。頼康同城を改築し、益々要害堅固なる城となす。
『現地案内看板より本文抜粋』


曽根城へゆく (岐阜県大垣市曽根町)

【歴史】創建は室町時代末期に稲葉通富によってなされたと言われ、以後稲葉氏の勢力拡大の拠点になりました。中でも稲葉良通(一鉄)は、西美濃三人衆にも数えられるほどの優れた武将で、織田信長、豊臣秀吉に仕えて数々の戦功をたてました。天正16年(1588)西尾光教が稲葉氏に替わって曽根城主になりましたが、関ヶ原合戦後揖斐城に移り曽根城は廃城となりました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】以前、地元の郷土史家の方が「現在の車主体の道路状況から昔の街道の状況をイメージしてはいけない」と話されたことを思い出した。今回訪れた揖斐川町春日地区は、狭隘な渓谷にいくつかの集落が分散している土地柄であり、現代人の感覚で考えると実に辺鄙に思うのであるが、このようなところに小島城は築かれていた。小島城は土岐氏が改築しているせいか、近隣の守護大名クラスの城郭に似た特徴を持ちあわせており、その規模もかなり大きい。普通だと何故このような辺鄙な土地にと思うのであるが、室町初期に後光厳院がこの地に逃れてきたことを考えると、案外京都から美濃に抜けるルートのひとつだったのかもしれない。そう思うと街道の監視役としてここに大規模な城郭が築かれたのも納得できるというものだ。それにしてもまだまだ岐阜県には魅力的な城址が多い。コロナ禍で県外への外出自粛の雰囲気がある中、県内の城址にももっと注目していきたい。

揖斐城址の主郭桝形虎口跡


揖斐北方城址碑


小島城址の小曲輪群


曽根城址碑

4月25日 美濃国への城址探訪
笠松陣屋へゆく (岐阜県羽島郡笠松町県町)

【歴史】笠松陣屋は美濃郡代名取半左衛門長知が、江戸時代初めの寛文2年(1662)に「笠町」を「笠松村」と改め、この地に置きました。陣屋は笠松県庁になるまでの約200年間、美濃国内の幕府領の支配と治水を行う役所として天下に重き位置をしめていました。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】コロナ禍による「おうち時間」の増加のためすっかりインドア派になってしまい、4月の下旬になってようやく城跡巡りに行きたいという気持ちが起こるようになってきた。しかし岐阜県もコロナ第4波による非常事態宣言の気配が強まる中で、県外に遠出をすることも憚られるため、とりあえず今まで行ったこともなかった手ごろな笠松陣屋跡に行ってみた。岐阜県では飛騨郡代であった高山陣屋が有名であるが、笠松陣屋は美濃郡代が置かれたところである。今では住宅地の一角に顕彰碑が設置されているくらいであるが、笠松陣屋は江戸時代に幕府直轄地に置かれた4つの郡代(関東郡代、美濃郡代、飛騨郡代、西国郡代)の内のひとつであり、紛れもなく美濃国の中心地であった。現在ではその面影を感じることは難しいが、岐阜県にとって大切にしていきたい史跡のひとつであることは間違いない。コロナ禍のため、これからは県内にある石碑だけの城跡も巡っていきたいと思う。

笠松陣屋跡

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