城址探訪記(2020)

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12月6日 美濃・尾張国への城址探訪
伊木山城へゆく (岐阜県各務原市鵜沼)

【歴史】伊木山にあった伊木山城(砦)も対岸の犬山城と鵜沼城とのつなぎの城として重要な働きをもっていました。永禄7年(1564)織田信長は、東美濃へ攻め込むための足掛かりとして、この地区を攻撃し、勇将・大沢次郎左衛門(鵜沼城主)を中心とする斎藤方の抵抗にあい苦戦しました。そこで信長は木下藤吉郎に鵜沼城と伊木山城(城主・伊木清兵衛)の攻略を命じました。この地域を制した織田方は、伊木山山頂を美濃や尾張地域の見張り場としていたのでしょう。
『現地説明板より本文抜粋』


墨俣城へゆく (岐阜県大垣市墨俣町墨俣)

【歴史】尾張の織田信長は美濃進出の足場とするため洲股に砦を築こうと企て佐久間信盛・柴田勝家等に築城を命じたが相次ぎ失敗したので大いに怒った。時に。木下藤吉郎進んでこれに当たる。永禄9年9月蜂須賀小六等の野武士2,3千人を率いて大小の長屋十棟、櫓十棟、堀二千間、木柵五万本分人夫一千人を使い夜を日に次いで普請を急がせた。7日程にて大方城もでき一夜の内に塀櫓を押し立て塗り立て完成したように見せかけたので攻撃中の井ノ口の斎藤龍興の城兵八千余騎は驚いて敗走した。
『現地説明版より本文抜粋』


小牧山城へゆく (愛知県小牧市堀の内)

【歴史】織田信長は永禄6年(1563)、美濃攻略のため清州城から小牧山へ移り、山全体を城域とし、多数の曲輪を設けました。要所には重臣の館を置き、南方に大手道を開き、南西中腹には馬場を設けたといわれます。また小牧山南麓から西麓に城下町を形成しました。しかし永禄10年(1567)に美濃の斎藤龍興を攻略して岐阜城へ移り、小牧山城は廃城となりました。天正12年(1584)、豊臣秀吉と信長の二男信雄・徳川家康連合軍とが小牧山で対陣し、小牧市北部に陣を敷いた秀吉に対して、家康軍は小牧山城を主陣地とし、小牧山東方にも砦を築いて対抗し持久戦となりました。現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつ、新たに土塁や堀を築くなどして改修された家康軍の陣城の跡です。
『現地説明版より本文抜粋』


【訪城記】今年はコロナ禍のために宿泊を伴った城址訪問を一切中止している代わりに、いつでも行けると思って訪れていなかった近場の城址を訪れる機会が増えています。この日はこれまで何度もその前を通りながらも結局訪れていなかった伊木山城址に訪れました。伊木山城は、犬山城と木曽川を挟んで対面する城跡ですが、城址としてはあまり明瞭な遺構を見ることはできません。しかしその尾根の先端からは犬山城をはじめ、鵜沼城、猿啄城、小牧山城などを一望にできるビュースポットがあり、織田信長がこの山に城を築いた意図に共感しながら、青空の広がる眺望を見ながら、穏やかな休日が過ごせました。

伊木山城址の曲輪跡

墨俣城址の模擬天守

小牧山城址 復元土塁と堀跡

11月15日 美濃国への城址探訪
鉈尾山城へゆく (岐阜県美濃市古城山)

【歴史】鉈尾山城は、戦国末期の佐藤氏三代の城であり、美濃市内の代表的な山城跡の一つである。この城は永禄6年(1563)に佐藤六左衛門清信によって築かれたといわれている。二代城主の秀方は、織田信長の家臣として戦功を挙げ、続いて豊臣秀吉にも仕えて一時は飛騨の一部も領有した。三代才次郎方政も、豊臣氏の家臣として各地を転戦したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時、西軍に属したため、戦後改易となった。関ヶ原の戦いで東軍に属した飛騨高山城主金森長近は、戦後武儀郡を加封され、新たに上有知に小倉山城を築いて居所とした。これにより、鉈尾山城は廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


関城へゆく (岐阜県関市安桜山)

【歴史】関市の中心部にある安桜山の山頂には、長井藤左衛門長弘が享禄元年(1528)に安桜山城(関城)を築いたと伝えられている。その後、城主は長井隼人佐道利に移り、戦国時代に織田信長に攻められた事は、あまり知られていない。長井隼人は中濃地区から東濃可児郡あたりまで勢力を持ち、斎藤道三とは義弟にあたるので斎藤家が最も信頼する武将で、信長との数度の合戦には総大将格で出陣していた。永禄8年(1565)信長は中濃に大軍を率いて侵攻してきたが、加治田城主が同盟を破り信長に通じたため堂洞城は孤立し、遂に落城した。ついで中濃の要であった安桜山城も三方から攻め寄せられこれに抗しきれず退去し、以来廃城となった。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】この日は以前から行きたかった鉈尾山城址への訪城です。東海北陸自動車道の古城山トンネルと言った方が地元では話が通じる鉈尾山ですが、麓の駐車場からでも約250mの比高差となる山城のため、意気揚々と登り始めたのも束の間、コロナ禍で鈍った体は思いのほか重く、何回も休憩をとりながらほぼ1時間かけて主郭のある頂上に辿り着きました。時間をかけて登っただけの甲斐があり、主郭からの景色はとても素晴らしかったのですが、頂上から金森長近の築いた小倉山城を見つけた瞬間、「そりゃ、そこに移るよね」とこの城が廃城になった理由に思わず納得してしまいました。

鉈尾山城址 大手口の石塁

関城址 主郭跡

10月3日 信濃国への城址探訪
久米ヶ城へゆく (長野県飯田市久米)

【歴史】松尾城主小笠原貞宗の弟貞長が初代城主。貞和年間(1345〜1350)に築城され、東平の麦種城、西平の城山と支城としました。南北朝、室町、戦国時代と約200年続きましたが、身内の争いにより松尾城と共に落城したといわれています。
『現地説明板より本文抜粋』


神之峰城へゆく (長野県飯田市上久堅)

【歴史】神之峰城は、諏訪氏の分流である知久氏が、室町時代の中期に、独立した山頂を利用して築いた山城です。知久氏の所領は、室町時代には下伊那郡の竜東一円、さらに竜西の一部にも及んでいましたが、その本拠は神之峰城でした。しかし天文23年(1554)武田信玄の伊奈地方侵攻にあたりついに落城しました。
『現地説明板より本文抜粋』


知久平城へゆく (長野県飯田市下久堅知久平)

【歴史】知久平城は、鎌倉時代の始めに知久氏によって築城された平山城という形態の城です。室町時代に知久氏の上久堅神之峰城への移転により出城となり、その後天正10年(1583)の武田氏滅亡により徳川家支配地として菅沼小大膳定利の居城となり天正11.12年に再整備され、天正16年(1588)に廃城となるまでの400年弱の間この地の政治経済の中心でした。
『現地説明版より本文抜粋』


阿島陣屋へゆく (長野県下伊那郡喬木村阿島)

【歴史】知久大和守頼氏の子則直が関ヶ原の戦の翌年即ち慶長6年(1601)阿島3000石の旗本としてここに館を築き以来267年間この地を領知していた陣屋の跡である。阿島初代則直より11代頼謙の子、頼温の代に明治維新となり、同2年(1869)版籍奉還と共に陣屋は廃止となりました。
『現地説明版より本文抜粋』


吉岡城へゆく (長野県下伊那郡下條村陽皐)

【歴史】吉岡城は文明7年(1475)室町時代中期、下條氏第6代康氏によって築城され、以後7代112年間本拠地とした城である。城郭は下條氏の勢力拡大に伴って拡張し完成された。
『現地説明版より本文抜粋』


【訪城記】かつて東濃の西隣である長野県の下伊那郡には、在地領主である知久氏という一族がいました。ほとんど知名度のない知久氏ですが、武田氏に屈した1554年頃、東美濃の遠山氏も武田氏に従属するようになっていることから、知久氏は東濃にとって防波堤的な役割を担った重要な存在であったのかもしれません。今回、知久平城、神之峰城、阿島陣屋と居城の変遷をたどる中で、知久氏が父祖伝来の地を追われて以後、徳川氏を頼り、旗本として地元に復帰して、そのまま明治維新を迎えていたことを知り、その様が東濃の明知遠山家と似ていることから、「東濃のすぐ隣の地域でも同じような歴史をたどった一族がいたのだ」と思わず親しみを覚えてしましました。今回の訪城は、在地領主がこの時代に生き残るための厳しさを改めて学ぶことができた良い機会となりました。

久米ヶ城址 模擬櫓

神之峰城址 出丸跡

知久平城址 三の丸土塁跡

阿島陣屋跡

吉岡城址 堀切跡

9月21日 美濃国への城址探訪
岐阜城 織田信長公館跡へゆく (岐阜県岐阜市金華山)

【歴史】山麓の居館は中央を流れる槻谷の谷川と、その左右に段々に配置された平坦地から成っており、各平坦地は石垣や巨石列、巨石の石組みで区画されています。一番下の平地から最奥部までの標高差は30m近くあり、谷状地形や周囲の岩盤を巧みに利用して、見せることを意識したりったちえきな空間を作り出していることが明らかになってきました。多くの庭園跡や金箔飾り瓦の使用がみられることも、この居館の大きな特徴です。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】今年は県外への訪城を控えている代わりに、県内3か所に設けられた大河ドラマ館に訪れている。この日は臨時駐車場からシャトルバスを乗り継ぎ、やっとの思いで会場に辿り着くも、そこに見えてくるのはものすごい人だかり。天守閣へ行くためのロープウェイも結構な行列ができており、比較的短い間隔で30人くらいを山上に送り続けるロープウェイを見ながら、「ただえさえ細尾根である山上はどれだけの人でひしめきあっているのだろう」と、その光景を考えると恐ろしく思えてきました。

岐阜城山麓の信長公居館跡

8月30日 美濃国への城址探訪
落合砦へゆく (岐阜県恵那市明智町)

【歴史】白鷹城(明知城)から南西の方角にあたるこの千畳敷台地に、落合砦が築かれていたと伝えられ、「土岐明智城」「多羅砦」とも言われています。落合砦は、千畳敷台地北東の明智市街地を一望する尾根の、南北に並ぶ二つの頂部にそれぞれ曲輪を設けています。眼下に中馬街道を望み、南北街道が横通に入る地点を抑える重要な場所です。落合砦は、明知城や仲深山砦のような技巧的な縄張はありません。そのため両城が築城される以前の拠点、あるいは明知城攻めの陣城とも考えられます。
『現地案内看板(※令和2年時点)より本文抜粋』


【訪城記】コロナの影響で、不要不急の外出を控える傾向に流されていたためか、今回は実に2ケ月ぶりの訪城です。しかし本日の主目的は城跡ではなく、8月途中から恵那の大河ドラマ館で無料配布されている「東美濃戦国史」なる小冊子を手に入れることです。今回はそのついでに近くの落合砦跡に立ち寄ってみることにしました。落合砦跡に訪れるのはこれが2度目であり、9年前に訪れた時には、現地の案内看板に「土岐氏」につながる説明は一切なく、公園内にある光秀公の産湯の井戸の伝承に只々違和感を感じたことを覚えています。しかし今は大河ドラマの影響からか、落合砦跡では別名として「土岐明智城」や「多羅城」の表記がされています。江戸時代にこの地の名称に多羅子という表記があったことが根拠ということですが、これは自分にとっては新しい知見でした。自分は以前から恵那郡や南接する愛知県旧東加茂郡に三宅姓の人が見られることから、三宅弥平次を名乗った明智左馬助(秀満)がこの地と関係あり、それがいつからか光秀と混同されて伝承されてきたのではないかと勝手な仮説を立てていましたが、地名に多羅という根拠が出てきたのなら、多羅で生誕したという伝承のある光秀の可能性もあるのかもと少し心が動かされてしまいました。でも本命は可児郡明智庄かなあ。

落合砦の 伝 主郭跡
伝 光秀公産湯の井戸

6月20日 飛騨国・越中国への城址探訪
東町城へゆく (岐阜県飛騨市神岡町城ケ丘)

【歴史】16世紀末、甲斐の武田信玄の越中攻めの際、その重臣山県昌景が江馬氏に命じて築城させたと伝えられている。武田勢が本国へ引き揚げた後、江馬氏は家臣河上中務尉に守備を命じ、後に江馬氏が滅び金森氏が入国してからは、その家臣山田小十郎が守備したと伝えられている。元和元年(1615)、一国一城令により取り壊された後、城跡は農地となっていたが、空堀跡は残っていた。
『現地説明板より本文抜粋』


江馬氏館跡へゆく (岐阜県飛騨市神岡町殿)

【歴史】館は今から400~600年前の室町時代から戦国時代に、北飛騨を治めた江馬氏が築いたと考えられまる館跡の一部を復元したものです。館は東側の山を背に、北・西・南を土塀と堀で囲んだ方約1町(約100m四方)の規模であり、館の正面となる西側に2ヶ所の門を、その邸内には礎石建物や庭園が設けられていました。。
『現地説明板より本文抜粋』


富山城へゆく (富山県富山市本丸)

【歴史】富山城は天正9年(1581)、上杉氏に対する備えとして佐々成政によって近世城郭へと改修された。しかし成政が豊臣秀吉に敗れると富山城も廃城となる。のちに加賀藩の支藩として富山藩が成立するとその居城となった。 
『日本の城 山川出版社 2009 より本文抜粋』


安田城へゆく (富山県富山市婦中町安田)

【歴史】天正13年(1585)、全国統一をめざす豊臣秀吉が越中の佐々成政を攻めた際、秀吉の本陣となった白鳥城の支城として築かれました。前田家部将の岡嶋一吉が居城後、代官の平野三郎左衛門が居城しましたが、後に廃城になりました。
『現地説明版より本文抜粋』


白鳥城へゆく (富山県富山市呉羽町)

【歴史】寿永2年(1183)に源義仲の武将今井四郎兼平が陣を張ったとするのが最初の記録である。その後数々の古文献にこの城のことが見えるが、豊臣秀吉の軍が富山城の佐々成政を攻めたときに陣を構えたことがよく知られている。
『現地説明版より本文抜粋』


【訪城記】19日に県外移動の制限が解除されたことにより、2月中旬以降控えていた訪城活動を再開させることにしました。今回選んだのは北飛騨江馬氏の館跡と富山市内の城址です。東美濃地域に住む者からすると富山はとても遠いというイメージがありますが、約10年前に東海北陸自動車道が全通してからは、高山以北や白川郷さらに富山県といった地域は余裕で日帰りができるようになりました。しかし県外への移動制限が解除されたと言っても、季節はもはや初夏を通り越して梅雨の時期となり、山城跡などは樹木の葉や下草が生い茂る状態であるため、結局この日の訪問地は白鳥城址以外、平地から歩いて行ける城を選びました。白鳥城址の主郭跡で眺望の利かない景色を目にしながら、「4月や5月の初めに来ていれば立山の美しい山並みが見られたのに」と思いつつ、ステイホームによって失われた時間の貴重さを改めて感じてしまいました。

東町城址 模擬天守閣

復元 江馬氏館

富山城址 模擬天守閣

安田城址

白鳥城址本郭跡

2月11日 美濃国への城址探訪
妻木城御殿跡へゆく (岐阜県土岐市妻木町)

【歴史】妻木城は土岐市の南部、妻木町を見下ろす標高409mの城山の山頂に築かれた山城です。また城山の北側山麓には御殿跡、士屋敷跡と云われる遺構が残されています。いつ築城されたかは定かではありませんが、暦応2年(1339)に土岐明智頼重が、祖父である美濃守護土岐頼貞の遺領を継ぎ、妻木郷の領主になった後に築城されたと云われます。土岐明智氏が代々妻木郷を治めますが戦国時代に入ると没落し、城主は一族の妻木氏に変わります。妻木氏は織田武田の構想に始まる動乱期に遠山氏、小里氏など周辺領主が没落していく中で一貫して妻木郷を領してきました。妻木氏は関ケ原の戦い(1600年)に東軍に味方し、岩村城を攻略します。その戦功により土岐郡内7500石の領主として三代続きますが、万治元年(1658)城主が急死し跡継ぎが無く、妻木氏は断絶し妻木城は廃城になりました。
『現地説明板より本文抜粋』


仲深山砦へゆく (岐阜県恵那市明智町)

【歴史】『明知年譜』には「明知城南ニ字万ヶ洞ト云ハ、信州ヨリノ往還街道明知ヘノ処タリ、依テ要害ノ為ニ遠山与惣左衛門屋敷構アリ」と記されている。。地元では仲深山砦という名称で城館の存在が伝承されている。
『「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集」より本文抜粋』


【訪城記】やはり大河ドラマ「麒麟が来る」の影響は凄い。ドラマの影響で光秀と少しでも関係のある東濃地域の遺構がかなり整備されている。妻木城の山麓遺構では今までなかった駐車場までもが設置され、ますます便利になっている。これを機に、岐阜県下で最も秀逸な御殿跡の遺構と思われる妻木城の山麓遺構がもっと有名になると嬉しいです。

妻木城御殿跡の石垣


仲深山砦跡の堀切

2月1日 近江国への城址探訪
中野城へゆく (滋賀県蒲生郡日野町西大路)

【歴史】築城年代は、文亀4年(1504)、大永4年(1524)、天文年間(1532〜55)など諸説あります。定秀・賢秀・氏郷と3代にわたる蒲生家の居城となり、現在の日野市街地は当城の城下町として整備・発展したものです。天正10年(1582)におきた本能寺の変の際には、賢秀・氏郷親子は織田信長の妻子や女房衆を安土城から当城へ退避させました。天正12年(1584)に蒲生氏が伊勢国松ヶ島へ転封となった後、慶長年間(1596〜1615)に廃城となりました。江戸時代には、仁正寺藩主市橋長政が当城跡の北東部分に陣屋を構えました。
『現地説明板より本文抜粋』


音羽城へゆく (滋賀県蒲生郡日野町音羽)

【歴史】中世の日野地方の領主蒲生貞秀によって、応仁の大乱期に築城された要塞堅固な典型的山岳城である。背後に宝殿ヶ岳を控え前面に急峻な崖地と日野川を配したこの城では、明応5年(1496)と文亀3年(1573)の激しい合戦が二度起り、いずれも城兵の蒲生氏が勝つが、大永2年(1522)に起った蒲生氏同族間の合戦で音羽城は落城し、50数年の運命と共に城は廃城となった。
『現地説明板より本文抜粋』


水口岡山城へゆく (滋賀県甲賀市水口町水口)

【歴史】水口岡山城跡は、天正13年(1585)に、豊臣秀吉の家臣、中村一氏が大岡山に築いた山城跡である。城は豊臣政権の地域支配の拠点として、東海道を見下ろす要衝の地に築城され、水口城と呼ばれていた。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後、当時の領主、長束正家が西軍側に同調したために廃城となり、その後は徳川政権による直轄支配が始まった。寛永11年(1634)、将軍家の宿館として新たに築かれた水口城には、この城の石垣の石材が転用されたとされている。
『現地説明板より本文抜粋』


水口城へゆく (滋賀県甲賀市水口町本丸)

【歴史】寛永11年(1634)3代将軍家光は上洛に先立ち、町中となる水口に専用の宿館を築かせました。これが水口城です。作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたりました。その後、幕府の任命した城番が管理する番城となりましたが、天和2年(1682)には加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至りました。
『現地説明版より本文抜粋』


【訪城記】今回、水口城資料館に訪れると、受付で水口城の「御城印」を購入している人がいた。今や全国各地で販売されている御城印は、地元でも何種類か作られているが、これまでコアな城マニアの間でしか名が知られていなかったと思われる城址でさえ、御城印のリストに登場している始末だ。水口城資料館の入館料よりも御城印の方が料金が高いにもかかわらず、来館者が結構購入していく光景を見ると、本当に地方の活性化に役立っている素晴らしいシステムを考えたものだとつくづく感心してしまいました。

中野城址の土塁と空堀


音羽城址の 伝 抜け穴跡


水口岡山城址の石垣


水口城址の模擬櫓

1月13日 美濃国への城址探訪
大桑城へゆく (岐阜県恵那市明智町)

【歴史】建久年間(1180〜1198)に山県氏流大桑太郎が大桑郷に領を構えて定住していましたが、大桑太郎領地没収後に、代わって逸見義重が入封し数代に渡って大桑城に居住しました。14世紀末から15世紀末にかけては美濃国守護であった土岐氏の一族が大桑に住み、天文4年(1535)になると大桑城は土岐氏の府城として機能することとなります。東濃の地から美濃国守護として大富館→長森城→川手城→大桑城と府城を移した土岐氏にとって大桑城は最後の府城となりました。大桑城は斎藤道三の国盗りの舞台となり再三にわたって攻撃を受け、天文21年(1552)ついに落城となり、美濃守護土岐頼芸は東国に落去となりました。
『現地案内年表を参考に本文作成』


【訪城記】2020年最初の訪城は、福井県の一乗谷山城に登ろうと思っていたら、北陸は雨予報であったため、昨夜の段階で曇りのち晴れの予報がでていた滋賀県米原市の京極氏館跡と上平寺城、弥高寺跡に行くことにした。しかし現地に着くとまさかの雨。ウェザーニュースで雨雲を調べたら、1時間くらいで雨雲が抜ける予想だったので1時間後に再度現地へ赴いても、全く雨はやむ気配がない。この「山城に登りたい!」という衝動をどうしたものかと思い悩んだ挙句、結局は雨が降っていない岐阜県山県市の大桑城址で手を打つことにしました。昨年の5月に訪れたばかりですが、冬季の城址は細尾根の城道や竪堀がよく見え、最終的には満足した訪城となりました。

大桑城址のミニ模擬天守

尾根上の城道(土橋部分)

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