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5月11日 美濃国への城址探訪 | |
米田城へゆく (岐阜県加茂郡川辺町福島) 【歴史】標高268mの愛宕山にあった米田城は、山麓に本城が設置され山頂には物見櫓程度の支城があった。築城は永正2年(1505)で、初代城主は肥田兵部少輔軌吉であり、玄蕃允軌休の父にあたる。しかし築城以前にも既に小規模の城塞はあったと思考される。天正10年(1582)6月に米田城は金山城主森長可の急襲にあって落城し、肥田一族は加治田城に逃れ、以後この城は廃城となった。 『現地案内看板より本文抜粋』 加治田城へゆく (岐阜県加茂郡富加町加治田) 【歴史】現在古城山加治田城跡と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵城とも呼ばれていました。織田信長の侵攻に備え、斎藤方である関城主長井道利を盟主として、堂洞城主の岸信周、加治田城主の佐藤忠能は反信長の盟約を結んでいました。犬山城を攻略した信長は、永禄8年(1565)木曽川を渡り鵜沼城、猿啄城を攻め落とし、岸氏が守る堂洞城へと進軍してきました。この時、信長方に寝返った加治田城の軍勢が北面の加治田から攻め入り、堂洞城は落城しました。佐藤忠能は堂洞城落城後には信長家臣の斎藤新五と共に、関城主長井道利の反撃を衣丸で迎え撃ち、翌日に関城も落城しました。中濃三城の陥落後、信長の命により斎藤新五が佐藤忠能の養子となり加治田城主を継ぎました。その後の加治田城は天正10年(1582)の加治田兼山合戦をしのぎましたが、森長可の領地となり廃城となりました。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】昔はさほど興味を示さなかったが、最近、中濃の戦国史について再度調べてみようと思うようになった。そこで本日は中濃の戦国史では、とても重要な位置を占める加治田城を訪れることにした。7年ぶりくらいに主郭跡に立ってみると、中濃の重要拠点である関城や猿啄城、堂洞城、小野城だけでなく、望遠カメラで眺めると岐阜城や小牧山城などを一望できるビュースポットであることを改めて感じた。この加治田城を押さえることで、信長の中濃攻略戦が順調に進んだことを考えると、この城の持つ重要性がよくわかる。そして斎藤道三の息子であり、織田一門の扱いを受けていた斎藤新五を城主として配置した信長の気持ちも分かるような気がした。加治田城は縄張よりも立地の巧妙さに感心させられる城だと思う。 |
![]() 米田城址の主郭跡 ![]() 加治田城址の主郭跡 |
4月27日 飛騨国への城址探訪 | |
小島城へゆく (岐阜県飛騨市古川町沼町) 【歴史】小島城跡は姉小路家の一角・小島氏の居城です。高原郷と小島郷を結ぶ神原峠の峠道が脇を通る交通の要衝に位置し、高原郷からの敵の侵入を睨んでいます。小島氏は三木氏の勢力が強くなるとそれに付き従い、天正10年(1582)の八日町合戦の直後、当主の小島時光は江馬氏の本拠・高原諏訪城に攻め入り落城させます。小島氏は金森氏の飛騨侵攻の際に滅ぼされたと伝えられていますが、その後に入った金森氏が統一政権の威光を示すために臨時的に改修を加え利用した可能性が考えられます。 『現地案内看板より本文抜粋』 古川城へゆく (岐阜県飛騨市古川町高野) 【歴史】古川城は、別名「蛤城」とも呼ばれ、飛騨国司・姉小路三家のうち古川氏の居城とされています。古川氏は、応永年間に幕府によって征伐された古川尹綱や、歌人として京都で活躍した姉小路基綱が有名ですが、16世紀になるとその勢力は衰えます。享禄3〜4(1530〜1531)にかけて、南飛騨から進出してきた三木氏によって古川の城は落城し、以後は三木氏が押さえたものと考えられます。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】大型連休が始まったとニュースなどで報道される中、飛騨市古川町の道の駅も、県内外からの観光客の他、多くの外国人観光客でにぎわっていた。しかし自分たちがこの日訪れた小島城と古川城において出会ったのはわずか1名のみ。国史跡となった姉小路氏城館跡の中核を成すこの2城であっても、まだまだ観光客を集めるまでのスポットにはなっていないらしい。しかしその分、とてもよく整備された城址を誰にも邪魔されることなく心ゆくまで堪能できる環境となっており、自分にとってはとても充実した城廻りの1日となった。姉小路氏城館跡、素晴らしい城址だった。来年もまた同じ時期に訪れたいものだ。 |
![]() 小島城址の石垣 ![]() 古川城址の内桝形虎口跡 |
3月20日 美濃国への城址探訪 | |
美濃金山城へゆく (岐阜県可児市兼山) 【歴史】天文6年に斎藤道三の猶子である斉藤大納言正義が山頂に築城、烏峰城と称し、それまで中井戸の庄の地名を金山村と改めました。永禄八年(1565)織田信長は東濃経路の拠点として森可成を金山城主として以来森可成・長可・忠政父子三代の居城として栄えました。信長の小姓として有名な森蘭丸は可成の三男であり、この金山城で出生したと云われています。しかしそんな森一族も浅井・朝倉軍との戦いでは可成と長男可隆が、本能寺の変では三男蘭丸・四男坊丸・五男力丸が、小牧長久手合戦では二男長可が戦死したため、最後は六男忠政が家督を継ぐこととなります。そして森氏の松代転封後、慶長6年に金山城は解体されたようです。 『現地案内看板より本文抜粋』 上恵土城へゆく (岐阜県可児郡御嵩町上恵土) 【歴史】戦国時代の15世紀末頃に荏土城と呼ばれていた平城で、のちに上恵土城と称されるようになりました。築城年代は定かではありませんが、天正10年(1582)頃の城主長谷川五郎右衛門は、大森城主奥村又八郎と謀って、金山城主森長可を攻め滅ぼそうとしますが、逆にその謀議の報告を受けた長可に攻められ、落城したと伝えられています。 『パンフレット『みたけの城址ガイドマップ(御嵩町観光協会 発行)』より本文抜粋』 【訪城記】本日は、「金山越し」の際に犬山へと移された美濃金山城の城門が、先日、金山城下に再移築されたため、その光景を見に可児市兼山の戦国山城ミュージアムへと訪れた。屋外展示の城門を観察後、ミュージアム内で展示物を観ていると、どうやら来週、団体客を案内するらしいクラブツーリズムの担当者の方が受付の方と打合せをしている会話が聞こえてきた。年配の担当者の方は初めて兼山を訪れるようで、バスを止める駐車場の位置や事前配布できるパンフレットの有無、御城印の購入方法、来館予定時間など、想定される顧客のニーズや心配事をひとつずつ解決していっているようだった。こういう地道な下見があって、クラブツーリズムの城廻り企画が成立しているのだと改めて気づかされた。 |
![]() 伝 美濃金山城の高麗門 ![]() 上恵土城址の土塁跡 |
1月11日 美濃国への城址探訪 | |
明知城へゆく (岐阜県恵那市明智町) 【歴史】明知城(白鷹城)は、宝治元年(1247)に、源頼朝の重臣加藤景廉の孫である遠山景重が築城したと伝えられる明知遠山氏累代の居城です。戦国時代には現在みられる大規模な山城が築城され、織田や武田などの戦国大名の争奪戦の舞台となり、記録に残っているだけで4度の合戦が繰り広げられました。関ヶ原の合戦後、山城は近世初頭に廃城となりますが、代わって山麓に陣屋が構えられました。 『現地案内看板より本文抜粋』 仲深山砦へゆく (岐阜県恵那市明智町万ヶ洞) 【歴史】戦国期の城主等は不明。関ケ原の戦の後、2代長景の庶兄遠山与惣左衛門は万ヶ洞に屋敷を構え、万ヶ洞様と呼ばれた(『明知年譜』)。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】2025年のお城巡りは東濃東部の明知城からスタートです。この日は明知城の発掘調査説明会に参加するために城址へと訪れました。本丸跡の発掘調査からは柱穴や礎石が検出されたとのことですが、どのような建物があったのかなどは、今後の発掘調査でさらに明らかにしていきたいとのことでした。12月に横浜で行われた「お城EXPO」でも岐阜県の出展ブースが一番多かったようですが、近年の岐阜県は、美濃金山城、大桑城、姉小路氏城跡、松倉城と国指定史跡への登録が続いています。この系譜を次に引き継ぐ可能性が高い明知城の今後の発掘調査の成果に目が離せません。 |
![]() 明知城本丸跡の発掘調査現場 ![]() 仲深山砦跡の二重堀切跡 |