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3月20日 美濃国への城址探訪 | |
美濃金山城へゆく (岐阜県可児市兼山) 【歴史】天文6年に斎藤道三の猶子である斉藤大納言正義が山頂に築城、烏峰城と称し、それまで中井戸の庄の地名を金山村と改めました。永禄八年(1565)織田信長は東濃経路の拠点として森可成を金山城主として以来森可成・長可・忠政父子三代の居城として栄えました。信長の小姓として有名な森蘭丸は可成の三男であり、この金山城で出生したと云われています。しかしそんな森一族も浅井・朝倉軍との戦いでは可成と長男可隆が、本能寺の変では三男蘭丸・四男坊丸・五男力丸が、小牧長久手合戦では二男長可が戦死したため、最後は六男忠政が家督を継ぐこととなります。そして森氏の松代転封後、慶長6年に金山城は解体されたようです。 『現地案内看板より本文抜粋』 上恵土城へゆく (岐阜県可児郡御嵩町上恵土) 【歴史】戦国時代の15世紀末頃に荏土城と呼ばれていた平城で、のちに上恵土城と称されるようになりました。築城年代は定かではありませんが、天正10年(1582)頃の城主長谷川五郎右衛門は、大森城主奥村又八郎と謀って、金山城主森長可を攻め滅ぼそうとしますが、逆にその謀議の報告を受けた長可に攻められ、落城したと伝えられています。 『パンフレット『みたけの城址ガイドマップ(御嵩町観光協会 発行)』より本文抜粋』 【訪城記】本日は、「金山越し」の際に犬山へと移された美濃金山城の城門が、先日、金山城下に再移築されたため、その光景を見に可児市兼山の戦国山城ミュージアムへと訪れた。屋外展示の城門を観察後、ミュージアム内で展示物を観ていると、どうやら来週、団体客を案内するらしいクラブツーリズムの担当者の方が受付の方と打合せをしている会話が聞こえてきた。年配の担当者の方は初めて兼山を訪れるようで、バスを止める駐車場の位置や事前配布できるパンフレットの有無、御城印の購入方法、来館予定時間など、想定される顧客のニーズや心配事をひとつずつ解決していっているようだった。こういう地道な下見があって、クラブツーリズムの城廻り企画が成立しているのだと改めて気づかされた。 |
![]() 伝 美濃金山城の高麗門 ![]() 上恵土城址の土塁跡 |
1月11日 美濃国への城址探訪 | |
明知城へゆく (岐阜県恵那市明智町) 【歴史】明知城(白鷹城)は、宝治元年(1247)に、源頼朝の重臣加藤景廉の孫である遠山景重が築城したと伝えられる明知遠山氏累代の居城です。戦国時代には現在みられる大規模な山城が築城され、織田や武田などの戦国大名の争奪戦の舞台となり、記録に残っているだけで4度の合戦が繰り広げられました。関ヶ原の合戦後、山城は近世初頭に廃城となりますが、代わって山麓に陣屋が構えられました。 『現地案内看板より本文抜粋』 仲深山砦へゆく (岐阜県恵那市明智町万ヶ洞) 【歴史】戦国期の城主等は不明。関ケ原の戦の後、2代長景の庶兄遠山与惣左衛門は万ヶ洞に屋敷を構え、万ヶ洞様と呼ばれた(『明知年譜』)。 『現地案内看板より本文抜粋』 【訪城記】2025年のお城巡りは東濃東部の明知城からスタートです。この日は明知城の発掘調査説明会に参加するために城址へと訪れました。本丸跡の発掘調査からは柱穴や礎石が検出されたとのことですが、どのような建物があったのかなどは、今後の発掘調査でさらに明らかにしていきたいとのことでした。12月に横浜で行われた「お城EXPO」でも岐阜県の出展ブースが一番多かったようですが、近年の岐阜県は、美濃金山城、大桑城、姉小路氏城跡、松倉城と国指定史跡への登録が続いています。この系譜を次に引き継ぐ可能性が高い明知城の今後の発掘調査の成果に目が離せません。 |
![]() 明知城本丸跡の発掘調査現場 ![]() 仲深山砦跡の二重堀切跡 |