城址探訪記(2026)

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8月19日 蝦夷ヶ島への城址探訪
タブ山チャシ跡へゆく (北海道標津郡標津町茶志骨)

【歴史】タブ山チャシ跡は町内に残る17ヶ所のチャシ跡の中でも保存状態の良いチャシ跡の1つです。丘陵上の崖際に、コの字型の壕で区画された場所が4ヶ所確認されています。別海町郷土資料館が保管する加賀家文書の中には、「チフルチャシ」という名で登場するタブ山チャシ跡を舞台とした物語絵図が存在します。江戸時代後期に記録された伝承のため、北海道各地のチャシ跡の中でも、かなり新しい時代まで使用されていた可能性があります。一方でチャシ跡の区画が4ヶ所並ぶことから、古い時代のものから新しい時代のものまで、新たな壕の構築をくり返した可能性もあり、チャシが長期にわたり利用され続けたことが考えられます。
『現地案内看板より本文抜粋』


望ヶ丘チャシ跡へゆく (北海道標津郡標津町南7条西1)

【歴史】江戸時代の記録が記された加賀家文書の中に、標津町内の2つのチャシ跡にまつわるアイヌの物語が記録されています。そのチャシ跡の一つは野付半島入口にあるタブ山チャシ跡で、物語の中では「チフルチャシ」として登場します。そしてもう一つのチャシ跡が、ここ望ヶ丘チャシ跡です。物語の中では「ホニコイチャシ」として登場し、タブ山チャシ跡と共に、古くから標津町を代表するチャシ跡であったようです。
『現地案内看板より本文抜粋』


カリカリウスチャシ跡へゆく (北海道標津郡標津町伊茶仁)

【歴史】チャシは13世紀から18世紀の間に築かれたアイヌ文化の遺跡で、一般に「柵、城、砦」と解釈されています。しかし近年の調査研究では、その本質は神々と交信する場としての役割にあったと考えられるようになりました。時代ごとの社会の変化に伴い、祭祀の場、談判の場、資源管理の監視場、戦闘の砦など多様な役割を担うようになったと考えられています。カリカリウスチャシ跡は、国後島やポー川・伊茶仁川河口を見通せる場所に位置し、南北33m、東西22mの規模で、北・西・南の三方が壕で区切られています。また部分的に二重の壕が設けられています。
『現地案内看板より本文抜粋』

【訪城記】この日は午後からポー川史跡自然公園にて標津遺跡群とカヌー体験のガイドを申し込んでいたため、午前のうちに「ホニコイチャシ跡・会津藩陣屋跡」と「タブ山チャシ跡」に訪れようと思い立った。しかし、いざ入口と思われる場所に近づいてみると両方とも赤いロープが張られており、何やら立入禁止のようになっているようで残念ながら見学を断念せざるをえなかった。このことを午後の遺跡見学の折にガイドさんに尋ねてみたところ、「以前はどちらも見学できたんだけど、ホニコイチャシは私有地になっちゃって立ち入りができなくなり、タブ山チャシも草刈りはしているけど教育委員会が管理していて、個人単位での自由な見学は基本的にできないようになっている」とのことだった。ただし標津町では基本的にどの史跡にも立派な説明看板が設置されており、それらを見ているだけで遺跡を堪能した気分になれる。歴史好きにはとても良い環境なのでまた訪れたいと思う。

タブ山チャシ跡の遠景


望ヶ丘チャシ跡


カリカリウスチャシ跡

8月1日 飛騨国への城址探訪
桜洞城へゆく (岐阜県下呂市萩原町桜洞)

【歴史】現在の下呂市の地を基盤に勢力を拡大した三木氏の居館。およそ150m四方の大きさで、周囲を巨大な堀がめぐっていました。現存する北西の堀は当時の様相を留めています。
『飛騨の城めぐりMAPより本文抜粋』


萩原諏訪城へゆく (岐阜県下呂市萩原町萩原)

【歴史】萩原城跡は、飛騨川左岸の河岸段丘に築かれた城跡である。記録によると、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨一帯を統治していた三木氏を滅ぼし、間もなく諏訪城は築城されたとある。当初の城主は、佐藤六左衛門秀方と伝わる。元和元年(1615)の一国一城令の後は、高山城を本拠地とした金森氏が通行時の「旅館」として使用し、さらに金森氏が出羽国上山に国替えされると旅館は破却され、歴史の舞台から姿を消した。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】この日訪れた下呂市ふるさと歴史記念館の展示パネルの中で、香川元太郎さんが描いた桜洞城と諏訪城のイラストを見つけた。香川さんが手掛けた城郭イラストの中でも、岐阜県については多くの城跡がイラスト化されているが、香川さんがお亡くなりになったことで、今となってはどれもがとても貴重な作品となっている。その中でも全国的な知名度が決して高いとは言えない下呂市の2城が入っていることは、とても幸運なことなのだと展示パネルを見ながら改めて感じた次第である。

桜洞城址の土塁


諏訪城址の櫓台石積み

6月21日 近江国への城址探訪
朽木陣屋へゆく (滋賀県高島市朽木野尻)

【歴史】安曇川本流と支流の北川が合流する野尻に朽木陣屋跡は所在する。この地は若狭や越前などと京都とを結ぶ朽木街道に面し、軍事的・政治的・経済的に重要な交通の要衝でもある。朽木氏は佐々木氏の庶流で、承久の乱(1221)後、朽木庄の地頭職に補任されたことにはじまり、関ケ原の戦い、大坂の陣で戦功のあった朽木基綱以来、準大名格で当地を領有し、明治維新を迎えた。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】これまで何度も高島市には訪れているが、小浜からの帰路であったり、清水山城と大溝城に訪れた後だったりで、少し離れた朽木集落へはなかなか足が向かなかった。本日は中江藤樹ミュージアムで開催されている「高島の戦国時代」展を観るために高島市安曇川地区へと訪れ、そのついでに朽木陣屋跡にも訪れてみた。陣屋跡に目立った遺構は少ないが、ミュージアムで入手したパンフレットの情報によると信長の金ヶ崎逃き口で有名な朽木集落だけあり、周辺には様々な伝承地があるらしいことがわかった。今度はじっくり陣屋背後の城跡などにも訪れてみたいものだ。

朽木陣屋跡の井戸跡

5月31日 美濃国への城址探訪
苗木城へゆく (岐阜県中津川市苗木)

【訪城記】本日は苗木城築城500年記念事業として開催された「記念式典&苗木城トークライブ」と午後からの「苗木城ガイドツアー」に参加してきた。午後のガイドツアーでは中井均先生がガイドを務められるBチームに参加したが、二の丸と三の丸にかつてあったと推定される堀切跡の話や石の角を鈍角に加工して積む鎬積みの技法など、現地の案内看板だけではわからない玄人好みの解説を終始聴くことができ、とても充実したツアーとなった。ただ一つ不満だったのは午前中に行われた記念式典。来賓としてせっかく遠山家第17代当主が登壇しているのにも関わらず、来賓紹介のみで挨拶の時間が設けられていなかったのにはちょっとがっかりした。苗木城と遠山氏はセットで語られることでより価値が増すはずなのに、500年という記念式典に遠山家当主のお言葉を聴けなかったのは残念であった。御当主は来賓の最上位でも良かったのではないかと思いながら、発言の機会が与えられなかった当主の忸怩たる表情が一瞬垣間見えたような気がした。秋の記念企画ではぜひ遠山家当主のお言葉の時間を確保してほしいと城ファンであり歴史ファンとしては切に願うばかりだ。

苗木城址の鎬積みの石垣

5月10日 伊勢国への城址探訪
大河内城へゆく (三重県松阪市大河内町)

【歴史】大河内城は応永年間、伊勢国司北畠満雅により築城され、弟顕雅が入城して、その子孫は代々「大河内御所」を称した。永禄12年(1569)8月、本城をめぐって北畠具教と織田信長が対峙し、北畠氏は50日にもおよぶ籠城戦に耐え、やがて和睦が成立している。この一大攻防の結果、本城は難攻不落の堅城と称賛されたが、天正3年(1575)には信長の次男北畠信雄により廃城となる。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】信長が50日も攻めたのに落ちなかった堅城というイメージのためきっとある程度の山登りになるだろうと勝手に思い込み、トレッキングシューズとトレッキングポールを持って搦手口から登り始めたはいいが、すぐに二の丸跡に辿り着き、さらに見上げた20m程先にある台地がもうすでに本丸跡であった。堀切と切岸で防御する典型的な戦国期の山城だということはそれなりに感じることができるのであるが、「よく耐えたな北畠!」と思わず呟いてしまうほど、大手口コース・搦手口コース共にお手軽に登城することができる城址でした。

大河内城址の主郭跡

4月11日 尾張国への城址探訪
小口城へゆく (愛知県丹羽郡大口町城屋敷)

【歴史】小口城は、長禄3年(1459)、織田遠江守広近によって築城されたといわれており、別名「矢筈城」ともいわれ、織田氏の尾張経営の要所として、長い間、尾張北部の政治の中心的役割を担ってきました。その後、永禄年間(1558〜1569)に信長の軍勢に攻略され廃城となったようですが、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いにおいて、一時的に秀吉方の前線基地として再興されてこともありました。政治的軍事的にいかに重要な位置にあったかがうかがわれます。
『現地案内看板より本文抜粋』


青塚砦(青塚古墳)へゆく (愛知県犬山市青塚)

【歴史】青塚古墳は4世紀中頃(古墳時代前期)に造られた愛知県で2番目に大きい前方後円墳です。標高31mの台地の端にあり、古墳の西側には平野が広がります。古墳の周りには周濠(堀)と外提が巡り、周濠を横切って古墳に向かう通路(橋梁部)がありました。1584(天正12)年の小牧長久手の戦いの際には、秀吉方の砦として利用されてたとも伝えられています。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】歴史学者の平山優さんが書かれた「小牧・長久手合戦」の本を読んでいて、小牧長久手合戦の折に小口城や青塚砦が重要な拠点として扱われていたということを改めて知り、今回行ってみようと思い立った。初めて訪れた小口城は住宅街の中にありながらも、城址公園として無料の展示施設と巨大な物見櫓が設置されており、歴史好きなら楽しめる場所となってはいるが、この先小口城も今期の大河ドラマ『豊臣兄弟』ブームにあやかって来城者が増えることがあるのだろうか。ドラマの中にどう登場するのかしないのか、注目して大河ドラマを観ようと思う。

小口城址公園


青塚砦跡(前方後円墳)

2月23日 三河国への城址探訪
挙母城(七洲城)へゆく (愛知県豊田市小坂本町)

【歴史】この城は、7ヵ国が眺望出来ることから「七洲城」ともよばれ、桜城が工事建設途中で矢作川の氾濫により居城不能となったので、工事が変更され、天明2年(1782)完成をみたものであります。内藤氏2万石の館として、学文以降6代89年続きましたが、明治4年に全ての建物が取りこわされ、現在は石垣が往時の面影をとどめています。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】本日は「伊能忠敬展」を観覧するために豊田市博物館へ訪れた。観覧後に日進市にある岩崎城址公園に訪れるつもりが駐車場は満杯状態。5分くらい駐車場が空くのを待っていたが、人が戻ってくる気配もなかったため、結局は訪城を断念した。この日は岩崎城址の空堀の写真をHPに掲載しようと思っていたが、しょうがないので博物館と同じ敷地内にあった挙母城(七洲城)の隅櫓の写真を掲載することにした次第である。

挙母城 復興隅櫓

1月25日 美濃国への城址探訪
鷺山城・鷺山市場遺跡へゆく (岐阜県岐阜市鷺山)

【歴史】近世地誌類によれば、鷺山城は文治年間(1185〜1190年)頃、佐竹常陸介秀義が住み、その後、美濃国守護土岐頼芸や戦国大名斎藤道三が居城にしたと伝えられます。山上には城跡を示す顕著な遺構は認められませんが、字絵図などからみて、東山麓には東西約150m、南北約200m巨大な方形の館が存在していたようです。また区画整理事業に伴う発掘調査や同時代の文献によって、この館の東側一帯には永正6(1509)年頃から天文元(1532)年頃にかけて守護土岐氏の福光城下町が営まれていたことがわかっています。鷺山城山麓館は規模や城下町の存在からみて、守護や守護代クラスの有力者の居館であることはほぼ確実で、美濃国戦国史の解明のために貴重な遺跡といえます。
『現地案内看板より本文抜粋』


【訪城記】2026年のお城巡りは23年ぶりに訪れた鷺山城址からスタートです。現在、鷺山の東山麓では道路敷設に伴う発掘調査が行われており、今回は発掘された石垣などの遺構について現地説明会が開催されました。16世紀初頭頃に作られたと推定される居館の入口につながる土橋とその側面を飾り付ける石垣などの遺構からは、ここが伝承どおりの守護クラスの居館跡という期待を高めるとともに、美濃国の優れた石垣技術の一端を垣間見ることができました。残念ながら発掘調査が終わると再び埋められ道路になってしまうとのことだったので、しっかりと目に焼き付けるように見学しました。

鷺山城址 山頂の城址碑


鷺山市場遺跡 土橋跡の石垣

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